26


 あたたかい。
 温かい。
 じんわりと沁みるような温かさ。気持ちよさ。
 優しくてほっとする。
 ああ、このままずっと。ずっとこうしていられたらいいのにと思う。
 思うのに。
熱いよ。冷たいよ。ねえ、聞いてる?
もう目を開ける力はないけど、感覚はあるんだから。そんな熱すぎて皮膚が爛れるようで、冷たくて霜焼けにもなりそうなものを落とさないでよ。せっかく心地良い温度が台無しだ。
でもそれを責める資格はもうないか、仕方ないね。それだけのことを託してしまったから。
あたたかい。あたたかいなぁ。
それが例え己のお腹から流れる血だとしても、抱きとめる彼女の温度と混ざり合ったそれは充分な幸福感をもたらした。

 ごめんね、



 しとしとと降る雨雲のせいか、そろそろ太陽と月が交代してもいい時間だが、あたりは依然暗い。縁側でも少し先が見えづらい。数時間前の慌ただしさに比べると、余計にこの時間の静けさが際立つ。ほとんどの者が寝付く屯所内を、常に邪智暴虐の塊である沖田もその静けさを尊重するように普段は軋む床を無音で進む。
 少し前に通った時はまだ血生臭さが強かったが、今は消毒液のほうがツンと鼻につく。それは沖田だけでなく、この真選組に所属するものなら日常茶飯事の慣れた匂い。そういうことをしているのだから当たり前のはずなのに沖田には今この一帯に沈む匂いがやけに気持ち悪く感じた。たぶん、姉を思い出してしまうからだろうと彼は自嘲気味に短く息を吐いた。
 さて、障子を一枚隔てた向こうには、この一夜を騒がせたハルがいる。
 役人に担ぎ込まれたハルの惨状に駆け寄った誰もが目を疑った。
 真選組隊士や腕の立つ人間でさえ、その斬撃を受ければ倒れ伏し、起き上がることすらできないほどの傷に対して、あの娘は無力化するどころか何かスイッチが入ったように剣筋が冴えたと役人は語った。さらに聞くと、銀時や新八がかなり似蔵に深手を負わせてたとしても彼とハルの実力差は変わらないはずだったのに彼の逃走への最後の一手が彼女の活躍によるものだという。流石の近藤も土方も「……嘘だろ」とつぶやいたのを沖田は確かに聞いた。
 真選組の医療班だけでなく、近くの医師まで呼び、ハルの手当は遅くまで続いた。できるなら設備の整った病院へ搬送すべきだが、その前に彼女の体力が持たないと判断し、そのまま屯所内で処置は行われた。その甲斐あってさらに傷口が広がったり、感染病の恐れも化膿することもなく、呼吸も正常でそのうち意識も戻るだろうと医師は言い、あとは医療班に任せて帰っていった。

「あれ、おっきーくんじゃん」

 全く動きのない池の水面にぽんっと軽く石を投げるように声がした。
 閉じられた障子から視線を横にずらすと廊下の少し先にかの子がいた。ぼんやりとした姿かたちは彼女が沖田に近づくにつれてはっきりとした輪郭を描く。

「だァれがその名前で呼ぶことを許したァ?」
「オレが許した!」

 親指を自分に向けてバァァァンと効果音がつきそうなドヤ顔で言う。

「別に真選組に所属してるわけじゃないしさ、いいじゃんいいじゃん。あ、それとも別のがいい? そうなるとうーん……思いつかないからやっぱおっきーくんで」
「なんだそりゃ。様を付けろ、様を」
「おっきー様くん」
「テメェひとの話聞かねェタイプだな」
「おいおいおいおい。冗談きついぜ、ちゃんと聞いてるよ。ほらこいつが目当てなんだろ?」

 は? と思ったのも束の間でやや寝不足気味で遅れを取った沖田の口にぐいっと何か押し込まれる。つるりとしてじわりと甘い味がした。
 よく見るとかの子の手には切り分けられてドミノ倒しになっている羊羹の皿があった。

「いやぁ事情聴取が長くてさー。お腹減ってたんだよ。せっかく買ったプリンはぐちゃぐちゃになって今頃海の藻屑になってるだろうしね。幸い相手がヤニマヨじゃなかったから強請ったらくれたんだよ」

 ひと切れひと切れ爪楊枝で刺しては口に運ぶ。
 かの子の独奏に対して、沖田が喋ろうにも口内の羊羹が邪魔をする。適度に噛んで飲み込み、まだ甘さの残る口で「やっぱ聞いてねえだろ」と言った。

「聞かなかったけど、今からはちゃんと聞くからまあ座ろうよ」

 言うやいなや縁側に腰掛けた。誰であれ相手の手のひらに踊らされるのは癪だが、沖田はおとなしくそれに倣った。

「何があった」
「あらかた役人さんから聞いてるだろうし、しょーじきうちが話せるようなことなんてないと思うけど?」
「嘘つけ。てめぇがあいつ止めたんだろィ?」
「結果的にはね。もしかしたら逆に殺されてたかも」
「回りくどいのは嫌いでねェ」

 沖田の目線は地面に水たまりを作る雨に向けられている。しかし意識と殺気は隣のかの子にすべて注がれていた。

「やだなぁ、うち昔っからこういうマジメな話とか好きじゃないし、当然得意じゃないんだよ。でもこれ以上は身の危険を感じるから頑張って改めるよ」

 すっかり空になったお皿を沖田との間に置いてかの子は一度、体内の湿きった息を吐き出したのち話し出す。

「例の辻斬りと銀ちゃんたちやハルついては大筋としてはさっきも言ったとおり。うちが実際見て聞いて動いたことはほんのわずかだけだよ」

 まだ風邪の気だるさが抜けきらないかの子は風香と入れ替わるように万事屋を出て近所のコンビニに本能のままプリンを求めた。質より量派、1番大きいプリンを買ってコンビニを出て、ふと気づく。
 自分はどっちから来たんだっけ。
 特別迷子属性はないが、やはり風邪であまり頭が回っていないせいでどうやってここまできたか覚えていなかった。わーいやっちまったぜーなんて笑いながらとりあえず記憶に残ってる景色を探しにぶらぶらしていた。
 そのときに聞こえてきたのが役人の劈く笛の音。それを聞いた瞬間、何故かふわふわとおぼつかなかった頭が急に冴え始めた。同時にプリンを求めた本能とは違う別の何かがかの子の体を突き動かした。

 野生の勘ってやつかなとかの子は雨を見ながら少し笑った。

 路地のゴミ箱などを蹴散らしながらたどり着いたとき、既に似蔵は逃走したあと。しかし止まない剣戟にのめり込むように柵越しに川下を見ると、何故かハルが新八を庇うエリザベスが見えた。
 あとは完全に無意識下の行動だった。
 ひょいと柵を飛び越えると、暴れるハルの背後から手を伸ばし、静かに二度「ハル」と呼んだ。ハルの暴走もその止め方も今のかの子の記憶にはないけれど、きっと体が覚えていたのだろう。同じように自我を失っていたハルも。2人の一連の流れがあまりに自然すぎた。

「ここに来た時も疑われたけど、うちもハルもそういう類の薬やらなんやらはもってないし使ったこともないよ」

 本当にかの子がしたことは彼女を抱きとめて名前を呼ぶことだけだった。かの子の言うとおり2人からは合法違法含め一切その類の反応はなかった。彼女たちの一部始終を見ていた役人の一人が「まるで術か何かにかかったようだ」と言っていた。

「不思議なもんだね〜。お互い友人だって認識してるのにそれまでの記憶がほんのちょっとしか覚えてないんだよ? それなのに全身血まみれで、それでもなお刀を離さない人、まあうちにとっては友人だとしてもそれを見て普通は怖がって逃げるのが人間の本能ってもんじゃない? ましてやおっきーくんやハルみたいにその道に生きてるわけでもない一般人だぜ?」

 いやテメエも大概一般人枠から外れているぞと沖田は煉獄関のかの子の様子を見てそう思ったが、いま口を挟むべきではないなと一文字を崩さない。ただそれ以外語っていることは間違ってはいない。
 「正直一番自分が信じられないよ」とかの子言う。

「取り憑かれたっていうのはああいったことを言うのかな〜」

 無意識下でも自分がそう動いたという記憶には残っている。でもそこにかの子自身の感情は何一つ覚えていなかった。感情が追いついたのはべっとりと友人の血がついた着物のまま真選組に連れて行かれる途中だった。

「何にだ?」
「それがわかったら最初に言ってるよ、わかってないなーおっきーくんよ」
「……このガキ」
「おっと隠す気ゼロの悪口は嫌いじゃないぜ!! だけど年齢はこっちのほうが上だがな!!」

 真選組一番隊、切り込み隊長として真っ先に敵陣に乗り込み全てを自分のペースに乗せることに長けていると思っていたが、どうもこの小娘の前では乱されるどころか完全に踊らされてる。そう思うと滅多なことでは動じない沖田の胃がちくちくと痛みを訴え始める。

「……まあ強いて言うなら自分じゃない自分、が一番近いかも」
「俗に言う二重人格ってやつですかぃ?」
「おや、おっきーくんにはそんな器用で繊細な人間に見える?」
「ねえな」
「でしょ」

 そう答えると、話はおしまいと言わんばかりに立ち上がった。

「何でぃ、会っていかねえのかよ」

 医者や医療班が言うにはもうそろそろ目を覚ます頃だろう。

「それはおっきーくんにそのまま打ち返すよ。ふふん、お姉さん知ってるんだからね。特別用もないのにこの廊下通ったり、障子の前に立ち止まって難しい顔してるの――おうっ!?」
「重要参考人としてもうちょぉっと話聞かせてくれませんかねェ? 榎かの子さんよォ?」
「残念! もう解放のお達しが出てるのでトンズラさせていただきやすぜ! あばよ!!」

 刀の代わりに振った手刀は見事躱され、すたこらさっさと人を小馬鹿にするような足取りで屯所の門を目指して廊下を走っていく。本音はもっと深追いしたいところだが、今までのやりとりを考えるとやはり相手のペースに乗せられることは明白だったため、沖田はかの子の背中を追うことはなかった。
 すると自分を追いかけてくる気配がないことに気づいたかの子がぴたりと止まった。

「……やっぱり、喪失したまま思い出せない記憶が関係あるのかな」

 そういえば障子の向こうで寝ているハルも離れたところで背を向けているかの子にも決定的な記憶喪失があったことを沖田は思い出した。また増えた疑問を問おうにも、もうかの子の姿は沖田の視界から完全に消えていた。


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