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 風香がスーパーに忘れ物をし、それをわざわざ持ってきてくれた女性に幾度となく頭を下げ、後日お礼がしたいと半ば無理やり約束を取り付けた。そうして気が付けば、あたりはもう薄暗く、夜はすぐそこまで来ていた。

「あ、かの子ちゃん!!」

 買い出しの荷物を玄関に置きっぱなしにしたことと本来の目的を思い出し、急いで階段を駆け上がった。しかしそこに荷物はなかった。きっと動けるようになったかの子が気づいて中に入れてくれたのだろうと大声でかの子に謝りながら今帰ったことを告げる。
 ところが返事どころか物音一つしない。電気がついていないのは銀時たちが仕事でいないことでわかっていたが、かの子の声がしない。もしかして荷物を運ぶ途中で倒れたのだろうかと、いつもは揃える靴も乱雑に脱ぎ捨てて中に駆け込む。
 がらんとした室内。かの子が寝ていたはずの銀時の寝室も弾き飛ばされた掛け布団たちがあるだけでもぬけの殻だった。トイレや風呂場、神楽の押入れなど万事屋を隈なく探すもかの子の姿はなかった。収穫は、風香が買ってきたものがきちんと冷蔵庫に入っており、スポーツドリンクの封が切られて少し中身が減っていることだけ。それと薬も一回分消えていた。
 それから玄関に戻り、かの子の靴の有無を確認。思ったとおり彼女の靴はなかった。

「……とりあえず、動けるぐらいには良くなったんだ」

 ほっと安堵の息が漏れる。
しかし姿が見えないのは心配だ。かの子のことだからきっと寝てるだけというのは暇になって、半ば熱に浮かされるようにハイになって外に遊びに行ったに違いない、と風香は今までの行動パターンから推測する。動けるようになったとは言え、この数時間で完治するわけがない。もし――と考え出すと、キリがないが真っ先に脳裏に過ぎったのは昼間の辻斬りの被害現場だ。

 死体にかけられた筵(むしろ)の下に広がる生々しい血溜まり。そして筵で隠れきれなかった見覚えのある着物の色が――

 風邪より質の悪い寒気が風香の背中を駆け上がる。

 こうしちゃいられないと脱ぎ捨てた靴を手繰り寄せ、外に出る。そのまま階段を駆け下りるつもりが、最後の一段から片足を下ろして地面に降り立とうとしたとき不意に足が止まった。

『お願いだから今日は万事屋で大人しくしてて』

 スーパーから忘れ物の出戻りの際、宵が言った言葉が今の彼女を引き止めた。その時の宵はいつになく真剣だった。声をかけられた時もいつもの掴みどころのないようなふわふわした声とは真逆の焦燥し、切羽詰っていた。呑気に帰路へ風香を呼び止める声は叫び声に近く、周りの通行人たちも何事かと反応した。
 額には大粒の汗が滴り、簪で綺麗に纏められていた髪も乱れた姿に風香は驚いたが、「よかったぁ」と安心したように柔らかく表情を崩す宵を見て、反射的に「あたしは大丈夫だよ」と答えた。その言葉に宵も安心し、いつものへらへらした顔で少し立ち話をした。
 かの子が風邪を引いたこと。精のつくものを食べさせたいと買い物に行ったりと。途中エリザベスとのくだりは敢えて言わなかった。終始宵は笑顔でうんうんと相槌を打った。
 そして別れ際、すっと今までの笑みを消して、そう告げたのだった。
 風邪のかの子を探しに行きたい体と宵の言葉に従えと言う理性が風香の足を地面に強く縫い止める。
 宵がむやみに外を出歩くなというのはもちろん辻斬りへの注意喚起。いつもなら彼女の言う通り万事屋や自宅で事が収束するのをおとなしく待っていたが、今回は違う。
 かの子は恐らく辻斬りのことなど毛頭考えずに出て行った。ニュースなどで報道されていることを知っているが、今のかの子の頭に危険分子として存在してるだろうか。
 宵が風香を心配する気持ちもわかる。それと同じぐらい風香もかの子の身を案じている。

 かの子への心配か宵からの心配か。
 かの子と宵。
 かの子? 宵?

 かの子?

 宵?

 ――どちらを取る?
 ――どちらを選ぶ?
 ――どっちを見捨てる?
 ――今度も、

 ああ……ああ、ああ、──あああああ!!

「うるさい!!」

 誰に言うわけでもない叫び声が夜の帳が降りていく中に響いた。
まるでこの世の全て、世界そのものが風香を糾弾する幻聴が聞こえる。すべての方向から幾千幾万の非難を込めた指先が、侮蔑に染まった目が、風香に向けられる。
それらをすべて遮断するように目を固く閉じ、耳を塞ぎ、その場に小さく小さくしゃがみこんだ。

(うるさいうるさいうるさいうるさい!! どちらを取るって、何? どちらを選ぶって、何?
 『今度も』って、なにそれ。前にも、あったの? それは、あたしが忘れている記憶なの?)

 ガタガタと震えが止まらない。脂汗。寒気。吐き気。天と地もわからなくなるような目眩。体中が悲鳴をあげている。頭のどこかで、これ以上考えれば本当にこの場から動けなくなると最後に残った本能が呼びかける。

(あ、息が出来な――)

「風香ちゃん!!」

 底なし沼に完全に沈んでしまう一歩手前、誰かが彼女を掴み、引っ張り上げた。
 ハッと風香の世界は切り替わり、目の前には山崎がいた。風香の目にしっかり映り込む自分の顔に山崎は「よかった……」と安堵した。

「えっと、あの、真選組の方、ですか……?」
「そうだよ。えっと、俺は真選組の山崎退です。ハルちゃんから君のことは聞いてるからつい名前で呼んじゃってごめんね……?」
「いえ、それは気にしてないんですけ――」

 むせる風香に山崎は優しく背中を摩ったり、真選組の黒い制服を羽織らせて彼女が落ち着くまで世話を焼いた。ようやく容態が落ち着いたところで風香は山崎が万事屋に何か用があったのかと聞いた。

「実は今日お休みだったハルちゃんを探し回ってたんだ」

 本来丸一日休暇だったが、凶行が止まらない辻斬りに真選組も夜回りの動員数を増やすことになった。万が一接触した場合のことを考え、真選組内でも一定の実力を持つ者を優先的に回すこととなり、ハルにも要請がかかったという。

「それで少し前にここに来たんだけど、誰もいなくて……。その後に不知火さんのご自宅にも顔を出したんだ。でも、そしたらそこにこれが……」

 証拠品のように密封されたビニール袋に入っていたのは何か記された紙。そして赤黒い染みが目立つ市松模様の布切れ。
 ハッとしたように風香は自分のものを見る。そして宵のおかしな言動の理由をすべて悟った。

「以前、君が働いてる定食屋さんでお世話になったときに似たようなものを身につけてるのを見たから、もしかしてと思って戻ってきたんだけど――って、千鳥さん!?!?」

 山崎は何故風香が万事屋の前で蹲っている理由を知らない。まさか、と戻ってきたのも彼の人の良さ故である。彼に全く非はないというのに、これはあまりにタイミングが悪すぎた。
 山崎が風香の苗字を呼んだとき、彼の目の前にしゃがみこんでいた風香の姿はなく、彼女の体温を失いつつある自分の制服の上着のみ残されていた。


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