23
今日も書道教室の子供たち全員を送り届け、保護者からお礼と言わんばかりの菓子箱を手に橙色に染まりゆく街を歩いていた。
「おンやぁ?」
廃家に帰ると、赤錆塗れのポストに何か入っているのに気がついた。書道教室に行く前にはなかったそれを取り出せば、まだ糊がきいてぴっちりとした茶封筒で中身がやけにふっくらとしている。
住所もなければ切手すら貼られていないそれは不知火宵殿と宛名しか書かれていない。裏を返しても当然送り主はわからなかった。全く心当たりのない郵便物。首を傾げながら触診し、特に刃物や爆発物の危険物ではないと確認してから封を切った。
そして愕然とする。
中に入っていたのは質素な手紙。
『将を射んと欲すれば先ず馬を射よ』
たった一文。
そして見覚えのある市松模様の布切れには酸化しはじめた赤黒い染みと特有の鉄の臭いが宵の脳を刺激する。
もう一枚ひらりと何かが落ち、拾い上げたそれは地図の一部で、ある一点にバツ印がついていた。
これらが何を意味するか、瞬時に理解し、
「風香!!」
すべてを投げ捨てて暗闇の中へ走り出した。
ひたすら自分の見通しの甘さを呪った。
初めて河上万斉と出会ったとき、自分を見る彼の目が好奇に満ちていたこと。祭りの時に既に探りを入れられていたこと。そして何より河上万斉自ら自分の前に現れたこと。どれも軽視できないものばかりだったのに見ないふりをしていた。誰がこんな自分に興味を持つだなんて。
「……くっそ」
しかしこうなってしまった以上悔やんでも全て後の祭りだ。
どうか。
どうか無事でいてほしい。
こんな自分が今更神頼みだなんて笑えるけど、いまはそんな不確かなものでもいいから何かに縋っていたかった。
「風香、風香、風香……!」
目頭が熱くなり、じわじわと視界をぼやかすものを流すまいと必死にこらえながら宵は沈みゆく町に向かって駆けた。
○
埠頭についた頃には太陽は完全に沈み、代わりの月も気がつけば雲に隠れてしまった。風はなく黒い波だけが絶えず岸壁に打ち付ける。
夜目を頼りにコンテナの間を縫うように歩く。途中何人か浪人の男が絡んできたが、目もくれずに進んだ。
やがて少し開けたところにぼんやりと人影が浮かんでいた。目を凝らさずともわかる。
「河上万斉」
手紙を読んだ時と違い、冷静さを取り戻した抑揚のない声。彼の名を呼んだ口を一文字締め、苦虫を潰す。どろりと苦い粘液が口の中に広がり、それがまた宵の気分を害す。
「ほう、名前を呼んでいただき光栄でござる。不知火宵殿」
雲の隙間から月の光が僅かに差し込み、それは逆光となって万斉の背を照らす。万斉を静かに見据える目はいつも通りに見えるが、その内側は、
「やっと人間らしい音になったでござるな」
「はい?」
「ああ。この耳に、荒れ狂うヴァイオリンの早弾きは悪魔の所業如く。それに連なるメロディは昂り、怒り、殺気。そして死をも恐れぬ心。よほどあの娘が大事なのだな」
「ええ、とても。でも彼女を本当に攫ったわけではないのでしょう?」
変わらず冷えた声音でどこか自虐的に笑えば、万斉の肩が僅かに揺れ動いた。
始めからわかっていた。この男は本当に風香を攫ってなどいない。それからわざとらしい抑揚をつけ、振り身振り交えてまるでミュージカルを演じるように続けた。
「はじめ、置き手紙を読んだ時、それはそれは驚きました。おまけと言わんばかりの見慣れた市松模様赤い染み。さすがに自分を見失いました。なんといっても最近は恐ろしい辻斬りがお江戸を跋扈してますからね。こわいこわい」
大げさだった動きが止まり、合わせた両手を口元に近づける。
「でも1手遅かったですよ、あらら残念」
まるで合掌、ご愁傷様と。柔らかな弧を描き、酷く甘ったるく万斉の耳に侵入した。
宵の言葉はただの虚勢ではなく間違いなく事実で、風香の安否はその目で確かめていた。
いま万斉に語ったとおり手紙を読んですぐはすべてを鵜呑みにして脇目も振らず走り回った。しかしそのうちに体が火照るのに反比例するように頭は冷静さを取り戻した。
果たしてあのあからさまな血は本当に風香のものだったのだろうか。完全に否定することはできなかったが、すべて肯定することもできなかった。ぴたりと足が止まり、逡巡ののち、港まで向かっていた道を引き返すと、買い物で忘れ物を取りに行った彼女と無事会うことができた。今頃は万事屋でかの子の看病をしているはずだ。
「何だ、バレておったのか」
万斉が肩をすくめ残念がる。宵を真似たようにあまりにもわざとらしいその姿に、ひくりと頬が動く。どこまでも癇に障る男だなと思う。
「では、人質が無事と知っていて何故ここに来た?」
「愚問ですねえ。危険な芽は早めに摘み取ることに越したことはないでしょう?」
先ほどと同じように笑ってみせれば、今度は今まで微動だにしなかった万斉の表情筋がぴくりと動いた。
「これはこれは……」と万斉は言葉に詰まる。こうも、堂々と危険なので殺しに来ましたと言われれば、誰しも危機感や嫌悪感から臨戦態勢を取るなりするもの。だから宵もにたりと気味の悪い笑顔の下でいつでも先制できるように愛用している細長いペーパーナイフのような相棒を用意した。
だが、目の前の男は全く違う反応を示した。
「また熱烈な告白でござるなぁ。しかも先を越されてしまうとは……。拙者、告白は自分でする派なんだが」
月明かりと停泊している船舶などのわずかな光源しかない。しかしそんな暗闇でさえ、万斉の頬が僅かに紅潮し、それを隠すように手を当てるも頬はもちろん緩み上がる口元も宵には見えてしまった。
宵の殺気など全く感じてないのか、取るに足らないものなのか、万斉はあっけからんと彼女の殺人予告を“告白”と受け流した。ひとの音を聞くくせにひとの言葉は通じないのか、なんて言おうとしたが寸でのところで宵は飲み込んだ。
こういう人種は苦手だ。
これが同族嫌悪と言うやつかも知れないと益々口の中の苦虫が増殖する。そしてこちらから下手に刺激するより先に向こうに喋らせたほうがいいと宵は沈黙を保つように口を貝にした。
予想通り、今度は万斉の一人劇が始まった。
「あれは一目惚れであった……いや、拙者の場合は一耳惚れだろうか? あれほど感情・思考・自我、人としてあるべきものが何一つない一つ無い澄み渡った音がこの腐敗した世に存在するのか、と。メロディとして連なるものではなく、繋がらないそれぞれ独立した1つの音。鋭く跳ねるも、いつまでも耳に優しい余韻が残った。だがそれだけではない。あの時とは打って変わって、先ほどの音は崇高で激情的なクラシック。いや、これもクラシックとは違うな。ただ己の本能に弦を任せた結果、偶然ひとつのメロディに聞こえるだけのもの。まさに静と動。
晋助からお主の勧誘を託されたとき、正直驚いたものよ。いつの間にお主のことを知らべたのやら……初めて会ったあの日にもちろん晋助に話はしたが、まあいい。言われなくともそのつもりだったからな」
自分はいま一体何を聞かされているんだろうと宵は無表情の下でげんなりした。状況が状況でなければ、それは確かに熱烈な告白だ。自分自身の音などせいぜい心臓の音ぐらいしかわからない。
ただ彼の情熱的な告白はあながち間違いではないのが彼女にとって厄介だった。あの雨の時は“我”を失っていた。見知らぬ土地が天国だろうと地獄だろうと、自分が正真正銘の不知火宵であるかどうか、もうどうでもよかったのだ。万斉が目の前で起こした惨劇すらも。表現は違えど、そのことを的確に捉えている。あの時見た太刀筋もそうだが、やはり高杉の側近であるだけの技量と頭がある。
「さて、長々と申したでござるが、言いたいことはただ一つ。お主、我らと共に来い、宵」
熱弁のあととは思えぬ地を這う声。先ほどの宵が放ったものとは比べ物にならないほどぞっとするような殺気で叩き上げた言葉の刃が宵に向けられる。それは疑問でなければお願いでもなく、どこまでも冷徹な命令だった。
今度は万斉が口を閉じる番。微塵も隙のない態勢で宵の返事を待つ。元より彼女に選択肢などないが、それでも彼女のその口から聞きたいのだ。
同じく沈黙を続ける宵に万斉はさらにその音を聞き取ろうとする。しかし耳に届くのは現実的な埠頭に波が絶え間なく打ち付ける音と遠くで鳴る輪郭の曖昧な汽笛だけだ。
動いたのはちょうどその汽笛が完全に夜に溶けてからだった。
突如宵がその場に崩れ落ちた。膝をつくわけでもなく、本当に全身から力が抜けたようにぺたりと座り込み、だらんと首すら落ちたまま動かなくなった。万斉の耳には現実の音が一層強くなった。
あの日、雨の中初めて会った時と同じ得体の知れない何かが万斉に絡みつく。
鋭く頭の芯に刺さる高笑いが穏やかな波を飲み込む津波のようにどどっと万斉を襲った。
その声の主もちろん目の前の宵だ。周辺には誰もいない。うなだれていた首を今度は天を仰ぐようにあげ、その咆哮は夜空によく響いた。
お互い化かし化かされ末、最後に摘まれたのは万斉のほうだった。止まぬ高笑いに臨戦態勢のまま万斉の内心は焦り一色に染まっていた。どういうことだ、目の前の声を上げているのは何者だ? 本当に人間か? 生きている人間なのか? 冷静に神経を研ぎ澄まし、宵の内なる音を聞き取ろうとするが、彼女の高笑いがノイズとなって邪魔をする。
万斉が唖然としている中、宵は未だ自分の世界で笑い続けている。
ようやく宵の声が止む。
「はぁ〜笑った笑ったっと、失礼しました」
憑き物が落ちた声に万斉は隠れて安堵するも警戒は解かない。万斉が口を挟む気がないようなので宵は淡々と続ける。
「あなたたちが何者で、どんな理由があってこの世界を壊そうとしているのか知ったこっちゃなかったんです。だからその手によって壊れる世界に巻き込まれても良かったし、ご指名とあらばその手を取っても良かったんですよ、それもまた一興かなと思いましたね」
わざわざ過去形を強調する声は万斉の誘いに対する返事。しかしそれはどこか自責の念が見え隠れしていた。
「――でも状況が変わりました。なんの因果か知りませんが、あの子達が今ここにいて、しかもいま薄ら氷の上に立っている危険な状態でしてね。あまつさえ各々その自覚もない。そんなときに横槍なんていられるなんて、黙って見てるわけがないじゃないですか。あの子達の幸せを阻むものは、この身を賭して全て排除しましょう」
「……そうか。だが、薄ら氷の上なのはお主も同じなのではござらんか?」
ようやく万斉が口を開いた。勧誘を断られ、ほかに言うことがあったのだが、含みのありすぎる彼女の言い方にそう問わざるを得なかった。
そして宵もその質問を拒むことなく、はっきりと答えた。
「そんなもの、真っ先に粉々に踏み潰してやったさ」
それは万斉の前で初めて見せる、ごく自然な笑顔だった。