05
しっとりと纏わりつく冷気。どこか遠くのように聞こえるのはさあさあとした緩やかな雨音。時折何か物に当たってぽん、と優しい音を鳴らす。
絶えず鼓膜を震わせるそれらにうっすらとまぶたをあげた。細く開いた瞳に感情はない。ただ白くぼやけた世界が映り込むだけだ。
そこでようやく朦朧としていた頭が働き出す。
手、足、胴、頭。異常がないとわかるとまた寄りかかっていた壁に体を預けた。
ここはどこだ。何故こんなところにいるのか。思うことはいくらでもあったはずなのに興味がない、面倒だと言うように再び目を閉じた。
視界を断つことで他の感覚器官が急激に冴え始める。耳障りのいい雨音。水の澄んだ匂い。包み込む冷えた空気。
その時、口の中に不自然な甘い風味が残っている。苦手な味だ。さらに続く後味にも眉を顰めた。
どれくらい経ったか。それは数分に満たなかったかもしれないし、1時間以上経ったかもしれない。
雨音以外に俄かにあたりがざわつき始めた。
激しい剣戟と怒号。間髪おかずに断末魔。それから清廉された空気血の臭いが混じる。怯えた声が追随する。声の主はすぐそこまで来ていた。
助けてくれ。
そう誰かに請う言葉は無慈悲に途切れた。
もはや言葉とは思えないものを発した男は首を一閃。勢いよく撥ね飛ばされた首の断面はとても綺麗で頭は少し離れた水たまりにばしゃんと落ちた。水たまりに映っていた灰色の空が赤に染まるのをただぼんやりと見ていた。
目の前で非人道的な行為が行われたというのにまるで演劇を客席から見ているような違う世界の出来事のようだ。
ぱしゃんとまた水が跳ねた。
視界の端に人影が見える。恐らくこの惨劇のメインキャストだろう。
「見られたか」と苦虫を潰した声が聞こえた。彼の手には使い慣れた愛刀。雨に流されつつ赤い筋が走っている。
男は無言で刀を構える。
見られたからには生かしてはおけぬ。
こういうことに慣れた男は何の躊躇いもなく、先ほどの男と同じように首めがけて振り下ろす。
その一瞬、目が合った。あるはずの恐怖、旋律、絶望、生への渇望が何一つその目にはなかった。そして笑ったのだ。
間一髪、男は得物を翻して一気に後方へ飛び退いた。一筋の汗が頬を撫でてぽたりと雨に混じる。
これはなんだ。
数え切れない程の修羅場をくぐり抜けてきたというのに男はわずかの間ではあったが動くことができなかった。ただ笑った、というより口元が動いただけだ。それ以外全く動いていないというのに男は背中に冷たいものを感じた。
にじみ出たのは殺気ではない。それならば引いた直後に男は死んでいたかもしれない。死んでいないのは当然動いていないからだ。
何者だ、と男は問う。また流れていく汗を意識しないように。しかし応える声はない。動きもしない。先ほどこそ得体の知れない何かに怖気ついてしまったが、今ならいける。いけるはずなのに男は動かない。
もう一度同じ問いを繰り返す。雨足が一層強くなる。数拍置いて聞こえたのは短く乾いた笑い声、というよりは声のような音。
再び目があったとき男は思った。
生きながら死んでいる。もし精神的死が存在するのならばきっとこのことだ。心臓が動いているだけの亡者。
男は静かに目を閉じて聴覚を研ぎ澄ます。そこに一定のリズムを刻むメロディはない。ただ水琴窟のように不規則にこぉんと調子の違う硬く無機質な音が聞こえるだけ。
それだけではないはずだとさらに耳を澄ませるも、音は逆に遠くなるばかりで代わりに人の声が聞こえてくる。ざわつくそれが何か理解した男は一刻も早くこの場から立ち去らなければならなかった。男は舌打ち一つ鳴らすと、強く吹きすさぶ白い雨の中に消えていった。