03
万事屋に榎かの子ちゃんが増えて早いもので2週間。
何やらあたしの預かり知らぬところで色々取引――一方的に坂田さんが迫られてたようにも見えた――により彼女はここで住み込み、万事屋の一員として働くことになったのだ。
彼女は持ち前の明るさと気さくさからすぐに万事屋に溶け込み、神楽ちゃんと共に隣でクッションを抱きながら真剣な眼差しで某ドラマにのめり込んでいる。
そして初対面が最悪と言っていいほどのあたしと彼女の関係はというと。
「風香〜」
ドラマが終わったところでおぼつかない足取りで洗濯物を畳んでいたあたしのほうに来る。
「どうしま――どうしたの?」
危うく敬語になりかけたが、なんとか言い直す。
「テレビぶっ続けで見てたから目薬さしたいんだけど、自分じゃできないから代わりにやってもらってもいい?」
「いいよ」
畳んでいた洗濯物を横に置き、膝を空ける。そこにごろんと仰向けに寝転がる。
「目大きく開けてね」
反射的に閉じようとしている瞼を指で押さえながら狙いを定める。本人は必死に目を開けてるつもりなんだろうけど、目よりも口の方が大きく開いている。それがなんだか面白くて少し、笑ってしまう。
「はい、ぱちぱちして」
「う〜……」
瞬きしている間に四つに折りたたんだティッシュを渡す。「あまり押さえつけないでね」と注意すると「うん」と頼りない返事。
「あ〜助かった! ありがとね!」
「どういたしまして」
屈託のない笑顔が眩しい。それに応えるように笑ったが、果たして自分はちゃんと笑えていただろうか? 要件を終えた彼女は神楽ちゃんと一緒に新八くんを弄りに行く。その後ろ姿にぎゅうと胸が痛んだ。
目薬を差すその瞬間、彼女の瞳に映る自分と目が合う。間違いなく自分であるはずなのに彼女の瞳の奥にいるは全くの別人に見えた。
――彼女の目に映っているのは“あたし”じゃない。
○
時刻はちょうどお昼時。決して大きい・綺麗とは言えない店内はがやがやと人で溢れかえっており、どこかひとつ席があけば、運動会さながら熾烈な椅子取りゲームが始まる。といっても乱闘騒ぎになることはない――拳が出たら最期、二度と朝日を見れなくなると専ら客の間で実しやかに語り継がれているとか。
それが定食屋『えいげつ堂』の日常風景である。
大通りから外れ、入り組んだ路地の奥にあるのにも関わらず、お昼12時前後、夜19時前後は立地に似合わぬ人だかりができる。
「風香ちゃーん、お冷もらえる?」
「はい! ただいま!」
「あ、こっちはご飯おかわりね!」
「熱いので気をつけてください」
「今日の日替わり定食ってなんですか?」
「本日の日替わりは鯵のフライ、大根と人参のお味噌汁と里芋の煮っ転がし、ほうれん草のおひたしですね」
飛び交う注文をひとつも取り零すことなく対応し、人で溢れかえる店内を縦横無尽に駆け巡る風香。
記憶喪失で右も左もわからなかった風香を助けてくれたのがこのえいげつ堂の店主であり、彼女の身の上を案じ、衣食住を提供してくれる何とも太っ腹な殿方である。当然風香はそこまでお世話になれませんと断ったのだが、えいげつ堂の住み込み店員という名の看板娘として働くことで事は落ち着いた。
ちなみに万事屋で家政婦まがいのことをしているのは、ここに来て一度暴漢に襲われたとき銀時に助けてもらった恩があるからだ。
「いやあ流石にこの歳になると一人で営むには辛くてね」
ピークも過ぎ、休憩として風香の淹れたお茶で一息。
「いえ、こちらこそ少しでもお役に立てているのなら嬉しいです」
味はもちろんのこと、客あたりのいい風香のおかげでリピーターがさらに増えているのはこれまた本人のあずかり知らぬことだ。
「……本当よくやってくれて助かるよ」
しんと店主の言葉が誰もいない店内に落ちる。その言葉にどうしようもない寂しさを覚えた風香は何か口にしようとしたが、結局喉にすら届くことはなかった。
そこへがらがらとすりガラスの戸が開いた。
「へいらっしゃい!」
昼時を避けてやってきたのは、女性のような艶を持つ長髪の男性と何とも形容しがたい白い着ぐるみの二人組。
「あ、桂さんにエリザベスさんいらっしゃいませ」
カウンターに腰掛けたタイミングでお冷を二つ出す。
「ご注文はいつものでよろしいですか?」
「ああ」
「かしこまりました」
この奇妙な二人はいつも時間をずらして来る常連で、店主とも随分長い付き合いだと言う。最初こそ驚きと戸惑いを隠せない風香であったが、そこは持ち前の高い順応性――あるいはスルースキルとも言う――で今はすっかり打ち解けている。曰く、エリザベスのコーヒー豆のような嘴が可愛いらしい。
店主にいつもの蕎麦と伝えると、彼はさっそく調理に取り掛かる。
さて出来上がるまで空いているテーブルを拭こうとした矢先、思わぬ言葉をかけられる
「ところで千鳥殿、最近浮かない顔をしているが、なにかあったのか?」
「えっ?」
ぴたりと手が止まった。
「そうですか?」
「いや、俺の勘違いだったならいいが、どこか思いつめているように見えてな」
なあ、エリザベス? と振ると、エリザベスも『顔色悪いです』と喋らない代わりに手書きのプラカードを掲げる。当然風香自身はそういう素振りをしていたわけではない。咄嗟に返す言葉が出ないでいると、桂がちょいちょいと手を招く。
「店主も気づいていない振りをしているが、心配していたぞ。『自分が無理させているんじゃないか、何か不満があるんじゃないか』とな」
「とんでもないです! こんなに良くしてくださっているのに。ここでお手伝いさせていただいているのも自分の意志ですし、不満なんてあるわけないです」
まさかそんな心配をかけていたなんてとちらりと店主の方を見る。
「店主に言いづらいことなら俺が聞くぞ。これでも千鳥殿には世話になっているからな」
『もちろん無理にとはいいません』
二人の気遣いにいい加減自分の中で持て余した感情を静かに零した。