2
その日、識と有梨はどのように過ごしたかはっきり覚えていない。淡々と過ぎていったというより置いていかれたというほうが当てはまった。他人事であるはずがまるで自分のことのように思えたし、一方でははるか海の向こうの国の出来事のようにも思えた。とにかくふたりは足元が崩れ落ちる感覚に襲われ、その一日生きた心地がしなかった。
「……ぶちょーさん、大丈夫だよな」
普段の有梨らしからぬ蚊の鳴くような声。
終礼と同時に教室を飛び出し、先輩たちのいる校門へ真っ直ぐ走る彼を締め切った窓越しから見下ろしながら言った。
机を挟む切原の沈みようを見ればいやでも伝染し、彼と同じように本当の後輩として幸村を慕っていた有梨の落ち込み具合は、有梨自身が思う以上にひどいものだった。
「どうかしら、ね」
平静を装うつもりが逆に動揺に塗れた己の声に識は応えたことを後悔する。
識は識で幸村に少なからず心を許していた。有梨のように先輩と後輩とは違い、美術を通じて話の合う『知り合い』という距離感はあったものの、ふらりと準備室の窓に現れる幸村を多少邪険にはしつつも何だかんだ悪くないと思っていた。
有梨はとっくに校門から消えた集団がまだそこにいるかのように目を離さない。
「大丈夫だよな」
「わたしたちがこうして心配したところで何になるのよ」
「おい、なんだよその言い方」
急に有梨の語気が鋭くなる。識の眉は少し深くなった。
「……なにってなによ」
「いくらなんでもそんな他人事みたいなこと言うなよ」
「冷たいってこと?」
他人の変化に機敏な識は、まずいと脳が警鐘を鳴らす。しかし口から出たのはひどく冷え切っていて、突き放すようなものだった。
「そ、そうだよ! お前には、お前だって仲良かっただろ」
「……心配じゃないわけないでしょ! でも、わたしは所詮部外者だもの。それに心配したところであの人の何かが変わるの!? それはあんただって――」
一瞬教室から音が消えた。有梨に対して怒ることは今更ではない。しかし教室や人が多いところで声を荒げることは合宿の時以来で、やはりこのときもまだ教室に残っていた生徒の視線を集めた。あの時は周りの目にすぐ我に返ったが、いまの識の興奮はまだ収まらない。
いつもの有梨なら火に油、さらに逆鱗とも言える話題を出されてカッとなるのも無理はなかった。ところがこのときの有梨は変に冷静になった。あの識があきらかに取り乱した。有梨への言動ではなく、まるで自分自身に対する苛立ちや焦りのように有梨には聞こえ、それが有梨を我に返す。それからこの手の話題はお互い避けてきたタブーであったことをいまさら思い出す。
「……わ、悪い。別にお前を責めてるわけじゃなくって」
「いいわよ。……私の方こそごめん」
お互い謝罪の気持ちに嘘偽りはなかったが、ふたりのなかに無意識のうちにあったひびが音を立てて広がった。
やはりらしくもなく乱暴に頭を掻くと識は「頭冷やすから先に帰ってて」と鞄を持って早足で教室を後にした。
識にも切原にも置いていかれた有梨は黙ったまま彼女が出て行った教室の扉を見たあとまた校門を見下ろした。
○
らしくもない。
勢いのまま教室を出て、行く先は決まっている。変わらずサッカー部や野球部の練習が聞こえる中でついラケットがボールを打つ軽快な音を耳ざとく探してしまう。聞こえてくるが、それはどこか空々しく聞こえて自分が思っていた以上にテニス部との繋がりを意識していたんだと驚いた。
別棟に入れば、今度は吹奏楽の練習。その中を早足であの準備室に向かった。自分で閉めたのに力が入りすぎていたのか、やけに大きな音を立てるものだから思わず肩がはねた。準備室はいつもどおりどこか埃っぽさをもってわたしを迎える。鞄を下ろしたらすこし心に溜まっていた何かも軽くなった気がした。
「馬鹿だなぁ」
下ろした鞄を見つめながらこぼれ落ちた。
自分が言ったことをこれほど後悔するのは久しぶりな気がする。本当になんであんなことを言ってしまったのか。誰がどう心配しようとそれは人の勝手だし、わたしが部外者だからなんてのは理由にはならない。そして逆鱗に触れて怒ってしかるべきは有梨のはずなのになんでそこで冷静になるのか。よっぽどわたしのほうが子供で惨めだ
「心配してる、か」
いつもは何とも気にしない木管楽器のリードミスがやけに気に障る。
その言葉に嘘ではない。けど、正しくは違う。
「怖いんだ……」
そう怖いのだ。
ただただ怖い。
人が行き交うなかでひとり親とはぐれた迷子の子供のように泣き叫びたくなる。
「――お父さん……」
無性に膠のあの臭いが恋しくなった。
でもいまのわたしには意味がない。
何も考えたくないわたしは作り物の果実と花瓶を並べ、乱暴に鉛筆を持った。
いまのわたしの世界にはこれだけしかない。
○
気がついたら教室にはオレ以外だれもいなくて、倒れた影の輪郭はオレンジ色に縁どられていた。
心ここにあらずってのは今日みたいなことを言うんだな。
どんどん地平線の向こうへその身を沈めていく夕日を、夜の帳が少しずつ下りてくるのを窓ガラス越しに静かに見ていた。
「識の言ったとおりだ」
周りがどれだけ心配したところで何かがよくなるわけがない。むしろ余計な心配を与え、受けた本人を不安にさせてしまう。ある意味気から病。無責任な心配は負担にしかならない。それでもオレは幸村さんのことを思わずにはいられなかった。だって。そんな。なんで。そんな言葉ばかりが襲いかかった。誰もがそう思っただろう。そしてその瞬間を見てしまった彼らはいったい――。
「帰るか」
もうずいぶん日が落ちるのが早くなった。教室の蛍光灯が目を焼くほど眩しい。思わず手を掲げたとき、記憶がフラッシュバックした。
蛍光灯の白い光。変えたばかりの白いシーツ。四方を囲むベージュの壁。そして青白い顔で「ねえさんは心配性だなあ」と笑うのは、
「クソッ」
涙腺のあたりが熱く疼き、崩れ落ちそうになった。かろうじて踏みしめた地面がオレの意識はいまここにあるということを教えてくれる。溢れてくるたくさんの感情を抑えようと心臓を鷲掴んだ。どっどっどっと振動が手と耳から伝わってくる。それから背中に氷水をぶちまけられたような寒気にオレは急いで教室を出た。
背後でオレを親しげに呼ぶ弟の声がダブって聞こえた気がした。