――……忘れないで
――ったこと……
女性が悲しそうに言った言葉は、とても大切なこと。
決して忘れてはいけない事。
必ず、思い出さなければならないのに。
自分のためにも、
周りの人のためにも思い出さなければ。
その、悲しい思い出を。
けれども、そうすれば別れが来てしまう。
現状を取るか、未来を取るか。
それは『あなた』にかかってる……
第四章 館
目覚めると、ルークはベッドの上に横たわっていた。
先程の夢に出てきたあの女性は、誰なのだろう。
一体、自分は何を忘れているのだろうか。
考えても答えは出てこない。
諦めて体を起こして、ベッドから立ち上がる。
ルークの動きに連なって、ベッドのスプリングが金属音を奏でた。
この音からして、きっとかなり年季が入ったものだろう。
頭をゆっくりと左右に動かして辺りを見回すが、ここがどこなのか検討もつかない。
記憶の最後に見たことをもう一度記憶から呼び起こした。
『ルーク』
聞きなれない低い声だった。
その声は夢で見た人物の声ととてもよく似ている。
同時に背後から鈍い音が聞こえた。
振り返ると、先程まで部屋前の警備にあたっていた騎士団の男が血を流して倒れていた。
その向こうでは、血が滴る剣を携えた、声の主が立っていた。
その人物に対しての恐怖よりも、倒れている騎士団の男の方が気になった。
急いでその男の元へ駆け寄ろうとした。
「―――っ!!おい、大丈…」
「時は満ちた。我が姫よ、迎えに来た」
こんなにも長く艶めく黒髪は初めて見る。
この男が夢に出てきたフードの人物なのは間違いない。
「姫は我が妃になる者。そう定められた運命だ」
黒髪の男はルークの側へと足を進めた。
逃げなければならないのに、逃げられない。
恐怖からか足が竦んでいる。
せめて、剣が手元にあれば、それを頼りに切りかかることも出来たかもしれないのに。
ついに男はルークの手を掴み、自らの腕の中へ引き寄せた。
「離…せっ!」
必死に逃げようとしたが、男はそれを許さなかった。
こんな時に力があれば、とルークは強く思った。
掴まれた手はびくともしない。
身体が女性になってから、格段に力が落ちてしまった。
それは筋力が少ないためで、もちろん握力も腕力も該当する。
だから、この瞬間剣があったとしても、本当は大して何も変わらないのだ。
ただ、存在するだけで、何かしらの行動を起こせる気力が湧いてくるような気がしたのだ。
男にぎゅっと力いっぱい抱き締められ、体の奥が騒いだ。
抵抗する気力が無くなると同時に、自分の部屋の景色が薄らいでいく。
「漸く会えた。愛しの我が姫…」
「そうだ…オレ、意識失って…」
きっとあの男が、ここへ連れてきたのだろう。
運命だとか時が満ちたと口にしていたが、何のために連れて来たかは分からない。
こんな体に出来る事など限られるというのに。
とりあえず、あの予告状は自分を当てたものというのが分かった。
何故に、あんなまどろっこしく書いたのだろうか。
簡単に、聖なる焔と書けばいいものを。
突如、頭部がずきんと痛み、額を押さえた。
「姫、痛むか?」
「にぎゃぁ!!!!!!!!」
噂をすれば影。
ジェイドがよく口にしていた言葉が出てきた。
これはアッシュが現れた時によく使われていた。
何故か噂をしていると、タイミング良く遭遇したからだ。
それは、どこかで盗聴しているのではないかというほどタイミング良く。
ことわざはさて置き、前置き無しに現れた誘拐犯に驚いて、奇声をあげた。
男はそのルークに気分を害する様子も無く、ルークの額に手を当てる。
何をするかと思ってルークは様子を見ていると、彼の手から暖かいものが伝わってきた。
それまでずきずきとしていた頭痛は、静かに引いていく。
痛みが無くなると、男の手は額から離れた。
「他に痛む所はあるか?」
「いっいえ、ない…です」
そうか、と男は微かに笑みを浮かべた。
こうしていると悪人ではないような気がきてきた。
しかし、彼は人一人を殺したのだ。
もしかしたら邸中の人間、またそれ以上の人を傷付けてきたかもしれない。
どちらにしても油断大敵だ。
力が弱っているのも合わせて、今まで以上に気を抜くわけにもいかない。
「一体、あなたは…誰なんですか?」
まずは相手を知らなければならない。
どう情報を引き出そうかと思ったが、大した方法が思い浮かばず、直球に問う。
あまりに直球過ぎて呆れるかと思ったが、そうでもなかったらしい。
ルークの言葉に男は顔色を変える事なかった。
寧ろ好感的に受け止めているようだ。
「私の名はセドナ。好きなように呼べばいい」
「あ、えと、オレはルーク。ルーク・フォン・ファブレです」
「……良い名だな」
セドナは名を復唱すると、優しく微笑んだ。
そういえば、既に彼は自分の名を知っていた。
夢の中でも、ファブレ邸でも。
今やルークの名を知らぬものはいない。
だからセドナが自分の名を知っているのはおかしくはない。
だが、問題はどうって、夢に出てきたのかということだ。
フォンスロットがどうこうとか、ローレライがどうこうといった感じなのだろうか。
他にも多くの事を聞きださなければならないというのに、何をどう聞いていいのか混乱してきた。
きっと今頃、邸では騒ぎになっているだろう。
それにシュザンヌやクリムゾンはもとより、邸の使用人達が心配だ。
あの時、他の部屋の状況まで把握できなかった。
血臭や争う音は聞こえなかったので、何事もなかったのかもしれないし、反対に手際が良過ぎて、物音一つしなかったのかもしれない。
とにかく早くここから出て、騒ぎの渦中でなっているであろう邸へ帰らなければならない。
「あ、あのっ!!」
「あなたをここから帰すわけにはいかない」
部屋の片面は大きな窓になっている。
ドアと反対側にあるその大きな窓からは、夜空と幾千万と浮かぶ星が見える。
旅をしていた間に見た星よりも、ずっと数が多い気がする。
セドナはルークの手を引き、窓辺へと誘導した。
やはりバチカルの邸よりもはるかに、星の光は綺麗に輝いている。
少しの間空に見とれていたが、セドナに促されて星空の下へ目線を落とした。
そこには鮮やかな緑の森が奥深く続いている。
「……あれ、は…」
一つだけ飛び出ている大きな木は、肉食獣を寄せ付けない花粉を出し、聖獣が幹の根元を住処にしている大樹。
ルークが一番初めに、桃色髪の少女の大切な存在を奪った森。
―――聖獣チーグルが住まう森。
突如としてチーグルが消え、森の配置が変わったとガイが言っていた。
今、ルークの目の前に広がる森は、間違いなくチーグルの森。
様々な謎が頭の中で混乱し、咄嗟的にセドナの胸倉を掴んで力いっぱい揺さぶる。
それで答えが出るとは思ってもなかったが、口から出るのは問いばかりだ。
「何でっ!どうしてあの森がここにあるんだ!??」
「…決まっている」
顔色一つと変えずに、胸元にあるルークの細い腕を掴んだ。
女が適うはずのない力に怯み、胸倉を掴んでいた手を離すが、それでもセドナの手から解放される事は無かった。
そのまま、軽く両手を挙げた状態で窓に押し付けられる。
「あれはあなたをここへ繋ぐ鎖代わりだ」
「…鎖…?」
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