好きだ、といった。
 頬を紅潮させて、たどたどしく言葉を紡ぐ名前の顔は、年頃の娘のそれだ。ろくに髪も伸ばしたことがなかったくせに、今日は蝶を模した髪飾りで肩を越すほどの髪を束ねている。こんな器用な真似がこいつに出来たことも、髪をいつの間にか伸ばしていたことも、たったの今始めて気がついた。正直にそういったら、きっと目の前の"女"は泣き出すんだろう。その他大勢の女達がそうだった様に。酷い、私はこんなにもあなたのためにがんばってきたのに、とでも言い残して。とても傲慢な生き物だ。
 家族でもなく、恋人でもなく。曖昧な関係のまま付き合ってきた名前は、いつから下等生物に成り下がってしまったのだろう。もっと食いつくような魂を持っていた。男に引けをとらないほどに肝が据わっていて、剣術も体格差さえなければ、きっと誰にも引けをとらない。俺が好きだった名前はそういう奴だ。男女なんて関係なく、限りなく公平に与えてくれる名前だ。目の前の女は、一体何処の誰なんだろうか。

「冗談じゃねェ。アンタみたいな男勝りな嫁、貰う予定無いんでね。」
「今の私、冗談言ってるように...見える?」

 こちらに向けられたのは酷く真剣な瞳だった。決して臆することなどない、強固な芯を持った覚悟。そのときやっと彼女を見つけられた気がした。ああ、そうだ。これだ。俺が求めていたのは、この強さだ。そういった意味では俺が名前に憧れ、惹かれているのは確かだろう。誰かに横取りされるだなんて想像もしたくない。
 じゃあこのまま抱きしめでもしようか?手をつないで、キスをして。それ以上の関係になって。名前はきっと俺だけを見てくれるだろう。でもそれが俺の望む光景じゃないことは、先ほどの一言で分かった。他人同士で馴れ合う極一般的な男女関係じゃない、何かもっと深い関係を築きたかった。この心地よい現状を色恋の情で上塗りして、破壊されたくはない。名前なら。それを理解してくれるのではないかと、期待していた。

「そんな一瞬の気の迷いみてェな下らないもんに振り回されてる暇があんなら、仕事でもした方が時間を無駄にしなくて済むってもんだろィ」
「総悟の口から仕事、なんて。笑わせないよ。そんな通り一遍の感情なんかじゃないから。」
「笑わせるな?そりゃこっちの台詞でィ。」

 どうせそんな薄っぺらい感情、そのうちどっかに落としてくるに決ってらァ。
 愛の告白に結構な態度をしてしまったのだから。罵声を浴びせられるくらいは覚悟の上だった。その筈が最期まで言い切ってから、じわりと住所不定の後悔が滲んでくる。伏せていた目を上げたら、きっと目じりに涙をためて口をへの字に曲げてるんだろう。いくら俺であっても、親しい奴の泣き顔には多少の罪悪感を感じるみたいだった。

「じゃあ重たい感情だったら、受け取ってくれるの?」

 上げ足をとるみたいに、妙なことを言い出す名前は、少しも泣き顔なんてかわいらしい事はしていなかった。気持ちの悪いほど冷静な表情。俺の言葉の逆を取って、すがり付いているわけじゃない。まるで愚説を語る者を見つめるような、哀れみを含んだ視線。右手が一瞬震えるのがわかった。

「んな迷惑なもん、お断りでィ。」
「嘘。総悟今、嘘吐いてるときの顔してる。」
「...何の根拠もなしにんなこと言ってんじゃねーよ。」
「小さい頃から一緒にいること。これが根拠。」

 拒絶しても揺らぐことはなかった。名前は、まるで俺の全てを理解してるみたいな顔でじっとこちらを見つめてくる。しおらしさなんて感じさせない、絶対的な存在感。けれど今は、それを怖いと感じる自分がいる。

「ねぇ。総悟は、人に執着されることを求めすぎてるよ。」
「...黙れ。」
「誰とでもずっとつながっていられるわけじゃない。」
「黙れ。」
「お姉さんの時は」
「黙れって言ってんのがっ!」

 自分でも驚くほどの低い声だった。久しぶりに声を荒げて、気がつくと目の前の名前は恐怖からか、震える手を押さえていた。それでも屈そうとはせず、抵抗の意をともした目をぐっとこちらに向ける。

「だから。......だから、私なら。総悟に応えてあげられる。」
「...随分と自意識過剰なことで。」
「何があっても絶対総悟に惹かれるよ。そう誓えるから。」
「そーゆー口先で軽々しく誓うなんて言葉を使う奴を、薄っぺらいって言うんでィ。」
「なら証明してあげる。永遠に一緒にいるって言葉が信用できないなら、私たちがどれくらい強い関係なのか教えるよ。恋人になって、終っちゃうような柔なものじゃないって事、馬鹿総悟にもわかるように。」

証明してあげる。
負けず嫌いの名前は、確かにそういって笑ったのだ。






 それから数日の間、名前の姿を見かけなかった。あれだけの事を自信満々に言い放って、当てがないんじゃないかと内心嘲笑ってさえいたのかもしれない。要するに、完全に名前の挑発に乗って。ムキになっていたのは紛れもない、俺だ。

 丁度一週間くらい経った頃。数人の隊士達が、最近名前を見ないがどうかしたのだろうか?、と心配そうな声を上げ始めた。それからまた三日ほど立った日。今度は山崎が息を切らしながら大声で電話をかけてきた。どうやら携帯を片手に走っているらしかった。声がぶれてよく聞こえない。電波が悪く、嫌な雑音が入る。機械から漏れ出す単語たち一つ一つが鼓膜を震わせる。
 次の瞬間、無意識に足は名前の元へと向かっていた。

「隊長!こっちです!」

 廊下に立って手を振る山崎の前を通り過ぎて、力任せにドアに力をこめる。ばんっ。勢いが良すぎて跳ね返ってくるドアを押しのけて、白い部屋に浮かぶシルエットに駆け寄った。外傷はない。顔色も良好だ。染み一つないシーツの上で、上半身だけを起こしている名前。空虚を閉じ込めたみたいな何もない瞳が、違和感のあるほど清潔に整えられた背景の病室と、よく似合っていた。たった一週間と数日前と変わらない、潤いを保った唇は、そっと開いてこんな冗談を言う。

「えっと、こんにちは。どうされたんですか?そんなに急いで。」
(たとえ全てを忘れても)
20151026