青よりも深く碧く | ナノ
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Everlasting Blue  


なまえの隣に横たわり、むき出しの肩を引き寄せて、結い髪のほどけ纏わる首筋を左の手で撫でる。
擽ったそうに身じろいで笑うなまえを見つめ、愛しげに指先を滑らせて、思い出したように斎藤はその手を一度頭上に伸ばした。
畳を探れば、つい先程そこに置いた青い簪を指が捉える。灯したままの白熱灯の下で、それは陽の光のもととは違う濃い青色を宿していた。

「あの時も、」
「あのとき?」

斎藤は上体を起こしなまえの髪をかき上げて、戯れに簪を耳のすぐ上辺りに挿し入れる。

「はじめさんたら、髪が乱れてしまったから、もう簪は……」
「髪がこのようになってしまうから、挿したままで抱いてはお前に傷をつけると……だから惜しいと思いながら外した。あの時も」

小一時間ほど前に、せっかく着付けた着物は間もなく脱がされてしまった。
斎藤の腕の中で、肩から落ちた長襦袢の前をかき合わせながら、なまえは斎藤が思い浮かべているであろう遠い過去のひとときを、同じように浮かべる。
傍らに広がる納戸縮緬に目をやれば、これを纏って雨の中を訪ねた上七軒を懐かしく思う。会えた喜びと別れの悲しみを一度に味わったあの時の気持ちを、今も鮮明に記憶していた。
青色の簪に指先で触れながら、斎藤は感慨を込めて呟いた。

「あの時も今も、心は同じだ」
「はい」
「そして今は、信じられるものがいつもそばにある。幸せとは、こういうことを言うのだろうな」

不朽不変の愛情は、この青に導かれた。まるで斎藤の瞳にも似た青よりも深い碧が、これからもきっと二人を繋ぎ続けてくれるのだろう。
なまえが微笑む。

「ギヤマンはスワロフスキーに変わってしまいましたけどね」
「簪ではなく、信じられると言ったのは、なまえのことだ」
「私?」
「……変わったと言うならば、なまえもあの頃と少し変わったかも知れぬが」
「え、私、どこか変わりました?」
「そうだな。以前は灯りの下では、なかなか触れさせなかっただろう? 反応も前よりもずっと」
「は、はじめさん……っ」

真っ赤に染まるなまえを見つめる斎藤は、その端整な顔立ちをわずかに綻ばせ、唇の端を上げる。止めようとするなまえの仕草にお構いなしに、再び襦袢の中に手が忍び込む。
一度は抗ってみても、今ではすっかり斎藤の手に馴染まされたなまえは、小さく吐息を漏らして目を閉じることになる。
なまえを胸に抱き、幸福に満たされる斎藤はその肌に触れながら、もう一度簪を外さねばなどと考えて、その時にふとこれを買うことになった少し前の、神田駅でのことを思い出した。
動きを止めた斎藤は、しばし考え込む。

「はじめさん?」

閉じていた瞼を上げ、なまえが不思議そうに見あげれば、斎藤の視線が彷徨った。

「どうかしました?」
「ああ、……いや、」

改札を出ようとした斎藤となまえのすぐ隣のゲートを通過し、駅の構内へと消えたあの人は。
それはほんの一瞬のことで、正面からはっきりと面差しを見たわけではない。眼鏡も、首元までのさらりとした髪も、そう珍しいスタイルではない。
だがあれはやはり山南だったのではないだろうか。
斎藤は今になって何故か、それが疑うべくもない事実に思えてくる。根拠など一つもない。しかし確かめたい。そんな気持ちが急速に湧き上がる。

「何を考えているの?」
「今日、神保町に行っただろう。神田駅で、かつて知った人物とすれ違った気がしたのだ」
「はじめさんが立ち止まった時の……? その方はどんな方なんですか」
「なまえは会っていない人だ。新選組の幹部にはもう一人……ある人がいた」




新選組には局中法度という鉄の掟が存在した。
そしてこの法度に背いた者は、それが大幹部であったとしても切腹を命じられたのである。

一、局ヲ脱スルヲ不許

新選組総長山南敬助の行いは、これに抵触した。




***




「いかがです」

テーブルの上、絹のような上質の布に載せられた硝子製の平打簪が、百五十年もの時を経たのがまるで嘘のように、深く透き通る青色をして美しく照明を弾いていた。
山と渓谷に囲まれた温泉旅館のロビーである。雄大な自然にいだかれた山里は桜を楽しむにはまだ時期が早く、泊り客はそう多くない。二人の向き合った席の付近にはひと気がなかった。
黒いスーツをまとい赤い髪を持った相手の男は、眼鏡のブリッジに指を当て簪を凝視する山南をしばらく見つめていたが、ややしてから低く声をかけた。
山南は改めて男に向き直る。

「この度はご連絡をくださって感謝しています。しかし、何故私に?」
「この簪は、あなたの手に渡るのが良いと考えたからです」

神田神保町で古美術商をしている山南が、幕末期の品を譲りたいとの連絡を受けたのは、全くの突然だった。天霧と名乗ったその男の名は、山南には覚えがなかった。
訝しく思いつつ、しかし山南は「この時を待っていた」とも感じた。何を、誰を待っていたというのだろうか、その感覚は理屈で表せるものではなく、言うなればただの直感といった類かもしれない。
だがどこか急くような思いで、山梨にいるという彼のところへこうして出向いてきた。
実際に目にしたものに彼は心底驚いた。このような邂逅があるものかと。
江戸時代の品であることは確かだが、恐らく骨董としての価値はない。しかし山南にとってこの品は金額で測るようなものではなかった。
天霧は青硝子を見つめる山南に倣い、自身も視線を落としながら問わず語りに続ける。

「あなたは鬼と言うものの存在を信じますか」
「鬼、ですか」
「鬼は長い時を生きる。人間とは比べるべくもない悠久の時を」
「では……鬼がこの世にいるとしたら、彼らはクロノスとでも言うような役割りでしょうか」

首を傾げるようにして答えた山南の言葉に、天霧はすこしの間をおいた。強面をふと緩めた目元は、肯定も否定もしなかった。

「人間とは弱きもの。しかし我々から見れば羨ましいものでもあります。我々が見続けてきた人間は生まれ死にゆき、そしてまた生まれる。繰り返される営みに果てはない」
「なるほど。それで、あなた自身が鬼だと?」

それにも特に答えずに、天霧はこの簪が山梨の山中深くに眠るまでの経緯を語った。
天霧の低い声を聞くうちに山南の目は見開かれ、彼にしてはいつにない動作で前のめりになった。それはこのギヤマンの簪に導かれ、深く結ばれていった一組の男女の話だった。

斎藤君が、これを――

すべてを飲み込むには、わずかの時を要した。
しかし、目の前に間違いなくあの青い簪がある。そしてこの自分も過去の記憶を持ち、こうしてここに生きている。
だとすれば天霧も同じようにあの時代に存在しており、彼らを識っていたとて不思議ではないのかもしれない。ひどく驚愕はしたが山南に天霧を疑う気持ちはなかった。
ただ解せなかったのは、天霧が何故斎藤ではなく自分に連絡をしてきたのかということだ。これは斎藤にとってもかけがえのない品と言えるのではないだろうか。
語られた話が本当ならば、今この同じ時空間に斎藤も生きているということを、天霧が知らぬ訳はないであろう。山南の脳裏に、ここへ来る前に神田駅で見かけた斎藤の姿が刹那蘇る。声をかけはしなかったが、あれは確かに斎藤だったと思う。
ギヤマンの簪の透き通るような青は濃く深くより碧く、山南の記憶にある斎藤の瞳の色とよく似ている。
それにしてもあの頃の斎藤からはとても想像が出来ないことだった。朴訥で生真面目な彼はあまり女性に縁があるようには見えなかったのだ。
この簪を自分の去った後にまさか、彼が手にしていたとは。そう考えてみれば運命とはなんと数奇なものであろうか。

私があの時に買わなかったのは、やはり正解だったのでしょう。
だからこそ後に、この品が斎藤君と彼の恋人とを繋ぐ道標となり得たのだから。

山南は回想を続け、そしてその頬にはまた薄い笑みが上る。




堰を切ったように思い起こされてくるのは、遥か遠い日々。
あの頃山南は新選組において、局長、副長に次ぐ総長という役に就いていた。
彼の往く先が決定づけられた運命の日、それは京から幾分もない近江大津でのことだった。足を運ぶ彼の目の前に、ふいに長身の男が現れた。

「山南さん」

彼を呼んだ声は、いつもの飄々とした調子とは随分と趣が違っていて、その姿を認めた山南の顔には思わず微苦笑が浮かんだ。対する沖田の表情は剣呑に歪んでいた。
それは二月のことで、日の暮れが早い。しかし決して京に戻れない刻限ではない。
沖田は急ごうとはしなかった。二人は宿を取って帰営は翌日にすることとなったが、山南は異論を挟むことをせずそれに従った。
宿での夕食時、向かい合わせに置かれた二つの膳の一方を前にずっとそっぽを向いていた沖田は、山南の「食事をしてしまいましょう」という声に、やっと顔を前に向けた。そしてじっと山南を見る。

「……ねえ、山南さん。本当のこと、話してください」
「本当のこと、とは?」

顔を上げた山南は、薄い笑みをその頬にのせたまま、目の前の仏頂面を見つめ返す。
膳の上には、屯所の質素な食事とは比べようのない料理が並んでいた。

「なんで僕を見ても逃げなかったんですか」
「君がせっかく迎えに来てくれたんですから、私は喜んで帰ります」
「僕、命を粗末にする人なんか嫌いですよ」
「そうですか。ああ、沖田君。この鰈をあげましょう。君も藤堂君や斎藤君と同じ、食べ盛りですからね」
「いりませんよ!」

苛立った声で応えた沖田は、箸を手にとってもいなかった。

「どうして僕一人が差し向けられたのか、わからない山南さんじゃないでしょう。近藤さんは立場上、どうしても隊規を守らなきゃならないんです。悩んで僕を寄越した。それなのにあなたは……、なんでみすみす僕に追いつかれたんですか。こんな京の目と鼻の先で、まるでわざと捕まったみたいだ」
「近藤さんや土方君の気遣いには感謝をしています」
「そんなこと聞きたいんじゃない。理由があるでしょう? それを聞かせてくれって言ってるんです。そしたら僕が何とか近藤さんに掛け合って……」
「沖田君」
「何ですか」
「私は新選組にいて幸せだったんですよ。今こうして、美味しい夕餉を君と共に出来るのも、思いがけないことで嬉しいのです」
「…………」

山南はゆっくりとした動作で、煮つけた鰈を沖田の皿に移した。屯所の食事で、鰈が膳にのせられることは滅多にない。

「山南さん! あなたには、皆の気持ちがわからないんですか!」

沖田の言葉が、まるで己への餞に聞こえていた。
これまでに見たことのない激高した沖田に、山南は穏やかな笑顔を見せてもう一度言った。

「私は、幸せでした」

ええ。私は本当に幸せだった。
一度は絶望の底に沈んだ私が、再び生きることを模索しようと考えることが出来たのは……。

彼もコトと小さな音を立て箸をおく。右手で左の腕をひとしきり擦って一つ息をつけば、彼の心に美しく透き通る青色が浮かんだ。
まるでその場にそぐわないその想いは。

明里にあれを買ってやればよかっただろうか。

思えば彼女には贈り物一つしてやったことがない。
明里はいつも一生懸命に慣れない芸事に励み、勉強もおこたらなかった。彼女はとてもいじらしい女だった。
角屋で初めて座敷についてくれたときの、まだ田舎娘の風情を残していた彼女は山南よりも十ほど年若く、その無邪気な笑顔が彼の心を離れなくなった。右目の下に小さな泣きぼくろがあり、眉が下がるとすこし淋しげに見える。
剣を振るう腕を失ったばかりの頃、自分は少し自棄になっていたのだろう。
故もなく、しばしば不機嫌になってしまうのを煙たがることもなく明里は「難しいこと、わたしにはさっぱりわからないんです」と笑んでみせた。そんな彼女がいつの間にか山南の癒やしとなり、たびたび角屋へと通うようになった。明里がいつしか彼の心のささやかな支えとなっていたのだ。
彼女はいつも「山南先生」と少し舌足らずな声で彼を呼んだ。
年季を開けて近く郷里に帰る明里が冗談めかして「先生も、行きましょ」と言ったとき、冗談返しに「それは楽しい相談ですね」と微笑んで答えた山南だった。
明里はいっとき、きょとんと目を丸くした。それがすぐに真剣な顔になって「ほんと? なら、約束ですよ」と慌てたように白い小指を立てた。
「ねえ先生、約束」となおも小指を突き出す愛くるしい仕草を面はゆく眺め、山南はそっと己の小指を絡めてやった。
きっと叶えられない約束と知りながら。

いいえ、結果的にああなったのだから、私があの簪を買う必然性はなかった。

ある時に街の小間物屋で、透き通るように美しい青硝子に目を奪われた。
ひとしきり眺め思案しながらも、明里には少し大人過ぎる意匠かと、また幾分の照れも感じて、つい通り過ぎてしまったものだ。
実はその後も彼は幾度かその品を見に行った。小間物屋には人の良さそうな女将がいて、愛想良く勧めてくれるのに、山南にしてはいつになく思い切りがつかぬまま、ついぞ買うことが出来ずじまいとなってしまった。
だがそれでよかったのだと、涙をためた明里が自分の拘束されたあの部屋の格子窓に、外から必死にすがりつく姿を見たときに思った。
もしも明里の髪に自分の贈った簪の飾られているのを目にしたら、果たして潔く腹を切れただろうか。彼女との未来を夢見ることへの未練を、断ち切ることが出来ただろうか。
新選組に居場所をなくした山南の、その心の拠り所を明里に求めた気持ちに嘘も後悔もなかったが、やはり。

やはり私は、新選組の山南で終わりたかった。

脱走の咎は切腹で贖われる。
三浦邸の一画にあるその部屋は、調度一つ置かれておらず差程の広さもないのにガランと空虚で、山南はその日までの数日をそこで過ごした。
軟禁された間、すっかり臍を曲げてしまった沖田に替わるように、彼の元へと繁く通ってきたのは思いがけず斎藤だった。
カタと建具が鳴り姿を見せた斎藤は何も言わず、部屋の中央に座した山南の邪魔にならぬよう隅に静かに膝をつき刀を置き、そうして山南と同じように静かに正座をした。
以来まるでそうすることが当たり前のように、時を選ばずに訪ねてきては、黙ったままいつも同じ位置に座り、時間の許す限りじっとそこにいた。
大抵は目を閉じて、でなければほのかに微笑むばかりで一言も言葉を出さない山南に向かって、斎藤は一度だけ意思表示をした。低いが真摯な声で告げられたその言葉は、山南の翻意を心から求めるものだった。

「山南さん、どうか逃げてください」
「…………」
「俺も総司も、新八達も、いつでも準備は出来ています。そして俺達が後に局長と副長に咎めを受けることは、決してないでしょう。あとは山南さんの心一つです」

静かに首を振れば、何故だと目を見開いた斎藤の、苦渋に満ちた表情を山南は今も忘れてはいない。
斎藤は本来感情をあまり表に出さず、何かを主張することも少ない。そういう性質だったから、あのような顔を見せられたのが、山南には非常に珍しかった。
沖田も斎藤も、やり方は違えども同志として仲間として、偽りのない真心を伝えてくれた。近藤局長を始め土方以下隊の皆が、己にどういう思いを持ってくれていたのかが、山南にはその時初めてわかりすぎるほどにわかったのだ。

私は必要とされていた。
そういう彼らだったから、私は心静かにあの日を迎えられたのでしょう。
沖田君に全てを語ることをしなかったのは、私の中にもあるささやかな虚栄心のせいです。私は確かに罪を犯したのだから、切腹で贖罪をする。そうしてこそ、私はなお皆の中に生き続けることが出来る。
ただ、一つだけ心残りがあるとしたら、それは――。
明里にだけは可哀想なことをしてしまった。

格子窓の外の泣きぬれた顔が、彼の胸に消えない棘を残した。




長い間口を閉ざしていた天霧が、スーツの袖をあげ腕時計の時刻を確かめる。窓の外はもうすっかり夜の色を濃くしていた。

「私はこれで失礼します」
「天霧さん。この簪を本当に私がお預かりして、いいのですね」
「はい。二人で一つと定められ、運命に従い心通じた者達は、幾度の別れを経てもまた呼び合い、そのたびに絆を深める。彼らはそうして永劫を手にした。ですから、これはあなたの思うがままにするのが良いでしょう」

天霧は先刻と同じ意味の言葉をもう一度繰り返した。そうして椅子から立ち上がり一つ会釈をし、背を向けた。
大柄なその背を見送ってから山南はもうひととき、目を閉じて思いに耽った。

これを、私の思うがままに。
それならば……




***




次の休日に斎藤はなまえを伴い、再び神田駅へと向かっていた。
手掛かりは神田駅、たったそれだけしかない。だがどうしても気にかかり、とにかくもう一度行ってみようと思ったのだ。
行ったところでなんの成果も得られなかったとしても、あそこには例の古書店がある。あの日は店を閉じていたが、向かいに骨董屋のようなものもあった。なまえの母はアンティークの品に興味があるようなので、古書店を覗いた後であの骨董屋に入ってみてもよいかもしれないと斎藤は思う。
地下鉄の中で真っ暗な窓の外に目をやる斎藤の、考え込む横顔をなまえは黙って見つめていた。
いつも使う日比谷線を銀座駅で降りて、乗り換えの為にフロアを上がり少し先の銀座線ホームの階段へと足を急がせた斎藤は「あ、」となまえの上げた声を聞き逃した。ふと隣にいたはずのなまえの姿が見えないことに気づき、はっと振り返る。
複数の路線で電車が数分刻みに出入りする都心の地下鉄駅は、休日であっても人でごった返している。少し後ろになまえの姿を認めた斎藤は、安堵の息をついた。

「なまえ」
「はじめさん。この方が」

見ればなまえは、旅行者と思しき若い女性の前に屈んで、彼女が落としたらしい荷物を拾うのを手伝っている。大きな旅行鞄と、片手にはどうやら路線図のようなものを持っている女性はしきりに恐縮して、なまえに幾度も頭を下げていた。

「すいません。田舎から出てきて、右も左もわかんないものだから、東京は人が多くて、」
「大丈夫ですよ。東京に住んでたって、私もよくわからないくらいですもの」

なまえの言葉に破顔した女性は嬉しげに「東京は怖いところや思ってたけど、優しい人もおるんやね」とすこし親しげな口調で言った。
「はじめさん、ごめんなさい。ちょっとだけ待って」と振り仰ぐなまえのもとに取って返し、斎藤は苦笑して頷く。なまえと女性のやり取りを見て、斎藤の知らず知らず肩に入っていた力がわずかに抜けたようだった。
周りは一様に急ぎ足で、彼らの周りを人が入れ代わり立ち代わり通り過ぎてゆく。
斎藤はさりげなく二人を壁際へと誘導した。

「わたし、奈良から出てきたんです。乗り換えが難しくて」
「奈良から? そうか。あんたは何線に乗りたいのだ」

斎藤が尋ねれば、女性はもう一度手にした路線図を覗く。

「ええと……、さっきJRの東京駅から丸の内線というのに乗ってきたから、今度は銀座線やね」
「銀座線?」
「それなら、私達も同じです。一緒に行きましょう」
「ほんと? 嬉しい。わたし、明里と言います」

また破顔して見せた女性の笑んだ目元には、小さな泣きぼくろがあった。




青は再び導く。
あの頃に、儚く消え果てたかに見えたもう一つの恋をも、こうして導いてゆく。
光を弾き、美しく澄んだ青いギヤマンの簪を丁寧に拭っていた山南は、ふと目を上げて店の戸口を見た。

まもなくその扉は開かれる。
その人が訪れるその時は、もうすぐそこまで来ていた。


2017.09.30
(100万打企画/めぐ様リク)


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表紙 目次



MATERIAL: 精神庭園 / piano piano / web*citron

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