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32 天神  


土方は雪村綱道によく似た剃髪の男を花街で見かけたという情報を得た。その男は長州の人間と行動を共にしていたらしい。
薩長には洩らしたくない機密の一つを知る綱道が行方をくらましてからは、新選組としても水面下で探索を続けていた。千鶴が屯所に留め置かれたのも元はと言えばそのせいであった。
出来れば居場所を突き止めたいと思っていたところであったが、伊東甲子太郎の件と重なり土方は苦慮した。既に仕事を抱えている斎藤を潜り込ませるのは難しい。
長州志士は祇園に足を運ぶ事が多かったが、ここへきて島原でも幅を利かせ始めていた。会合でもしも綱道が同席しているところを押さえる事が出来たならば、彼をも捕らえる絶好の機会と言う事になる。これを逃す事はしたくない。
深夜の副長室に監察山崎同席の元、留守をしている斎藤以外の幹部が集められた。
山崎が言った。

「雪村君自身に潜入してもらうわけにはいきませんか」
「千鶴にかよ? そんなの危ねえだろ、潜入先は長州浪士の座敷だぜ!」

平助がいきり立って異論を唱える。

「平助、俺達で下工作している時間的余裕がねえんだ。出来れば千鶴に頼みてえ」
「だけどさ、土方さん……」

他の皆は意見を差しはさむ事もせず黙っている。
平助だけは納得しかねるような様子で俯いていた。



早朝。鍛錬に精を出した後井戸端で手拭を使う。
動きを止めると汗が冷え、震える様な寒さが来る。
名前は濡らした手拭いで丁寧に首筋や腕を拭うとほぅと一息ついた。
しばらく斎藤が朝稽古に来ない。毎朝身支度を終えて隣の部屋の様子を伺うが、部屋に戻って来ている気配がないのだ。そればかりか広間の食事にも姿を見せない。

何か、任務で遠くにでも出ているのかな。

最後に彼と言葉を交わしたのはいつだっただろうか。名前が朝の稽古を復活させてから間もなくの頃だからもう随分になる。
そして伊東甲子太郎と一緒に居る所を見たあの日から――。
斎藤は巡察に出る前の習慣になりつつあった、部屋にわざわざ来ることもしなくなっていた。きっと何かの任務についているのに違いない。わかっている。わかってはいるのだけれど。

寂しいなんて言っちゃいけない。はじめさんが新選組の幹部である事は初めから解っていた事、……だけど。

十二月の冷たい風が吹き抜け名前は身体を震わせた。同じだけ冷たい風が心にも吹き込んでくるような気がした。わかってはいても知らないうちに目尻に涙が滲んできてしまう。名前は右手の甲でぎゅっと目を拭った。

はじめさんは私なんかよりずっと大変なんだ。

一度大きく首を振り背を伸ばして屋内へ戻っていった。



千鶴が土方の部屋に呼ばれたのはその日の午後だった。経緯を聞いて千鶴は一も二もなく承諾する。

「父を見つけられるかもしれないのなら、少しの危険なんて平気です。その仕事やらせてください」
「大丈夫なのかよ、千鶴」

同席していた平助が心底心配そうに小さな声で言う。
だが千鶴は恐れよりも期待に胸を弾ませた顔で笑っていた。
平助は本当は止めさせたかった。だが長い間父を捜す為に辛抱してきた千鶴の気持ちもよくわかっているためそうは言いにくい。土方は山崎と目配せをした。

「千鶴、やってくれるか。角屋には用心棒として山崎を張りつけておく。俺らも勿論何かあればすぐに駆けつける」
「はい、お願いします。平助君、私はほんとに大丈夫だよ」
「でもさあ……」

そこへ障子戸の外から声がかかる。

「副長、苗字です」
「どうした、入れ」
「失礼します。お茶をお持ちして話が聞こえてしまったのですけど……すみません」
「ああ。別に隊内では秘密事項じゃねえから構わねえが」

四人分の茶を載せた盆を置くと名前は正座をして土方に向き直った。彼女がそんな態度の時は決まって何かを言いだす時だと解っているので、土方は多少身構えて名前を見る。

「あの、島原潜入ですが、千鶴ちゃんと一緒に私も行ってはいけませんか」
「あ? お前も?」
「二人なら心強いと思います。私は小刀を忍ばせていきますから、何かあったら千鶴ちゃんを守ります」
「名前さん……」

千鶴の嬉しげな声に土方、平助、山崎は顔を見合わせた。
やがて真剣な表情の名前が拍子抜けするような笑い声を上げた土方は、一頻りして笑いを治め彼女を見つめる。

「そうか、やってくれるか」
「はい」

名前もほっとしたように相好を崩した。
平助はポカンとしている。
山崎が呆れたように言った。

「苗字君、潜入はしてもらうが君は雪村君を守る事は考えなくていい。俺達が用心棒としてつく。置屋では言い含めている人間がいるが、揚屋では小刀など見られたらかえって危険だ」
「はい……」
「安心してくれ。二人とも絶対に危険な目には遭わせない」



島原には土方の息のかかった芸妓が一人いた。
君菊太夫は容姿麗しく歌舞音曲、茶道、華道、俳諧、和歌などありとあらゆる事に精通し最上の教養と品性を身に付けた島原でも最高位の太夫であった。置屋では勿論揚屋においても発言権を持っているので、彼女の存在は非常に心強い。土方と懇意ではあるがその実誰もその関係を知らなかった。
君菊から長州藩の集まりがある日時の情報が秘かに土方の元に齎される。彼女に付き従う引船も禿も皆含み置いていると聞き、流石に君菊太夫であると土方は舌を巻いた。
当日名前と千鶴は近藤の別宅で女の形をしてから二人きりで置屋に向かう。

「名前さん、どきどきしますね」

千鶴は密偵であるにも関わらず興奮気味だ。名前も怖さがないわけではなかったが、未知の世界にたいする好奇心を抑えようがなかった。同じ角屋でも以前宴会で料理を食べに行った時とは違う。
今日は長州浪士の座敷に芸妓として出て、出来るだけ会話に聞き耳を立て情報を取るのだ。

「お父さんが見つかるといいね」
「うん」

置屋に着くと君菊太夫自らが二人を招き入れてくれた。

「お支度をしてしまいましょう。お二人とも今日は天神さんになってもらいます」
「……あの、でも私達、舞も音曲も出来ませんし、」
「囲や端女郎では角屋に上がれません。大丈夫です、私がついていますから」

太夫は優しく笑い、引船が流れるような仕草で名前と千鶴の支度を始める。
先ず髪を結い上げられ芸妓の艶やかな髪型が出来上がった。続いて水と白粉を背中、首、顔に塗られていく。
着付けられる着物、裾除けや襟までが極彩色の目も眩むような華やかさである。それらの着付が済むと前結びの帯としごきを付けられた。
先ほど結った髪に笄、鼈甲の六本簪にびら簪、花簪を飾るとその煌びやかさと言ったらない。眉を描かれ目元と下唇に紅を差され、最後にひときわ豪華で派手やかな文様の打ち掛けを纏う。
こうして二人の美しい天神が出来上がった。

「まあ、よう似合いますなあ。お二人ともお綺麗どす」

太夫が目を細めていると引船もうんうんと頷き、名前と千鶴はお互いの姿を見合って言葉が出ない。
別室にいた新選組の面々に披露すると、一同は水を打ったように静まり返った。
永倉は呑んでいた盃をぼとりと落とし、落とした事にも気づかず口を開けている。以前にも二人の女姿には皆から感嘆の声が漏れたが、その比ではない美麗な艶姿だったのだ。
土方は満足げに笑い君菊太夫を見る。太夫は一度土方を見返すと、天神の二人に声をかけた。

「ご挨拶を」
「桜木です」

千鶴が手をついて頭を下げる。

「糸里です」

続いて名前が手をついても、男達は反応もできずなお固まっていた。宴席の時ははしゃいでいた平助も、顔をこわばらせ千鶴に声をかけられずにいる。
顔を上げた名前の目に斎藤が映った。彼も大きく目を見開いて名前を凝視したまま瞬きさえ忘れていた。

はじめさんが来てくれた。

斎藤の顔を見るのはいつ振りだろう。名前は嬉しくなって小さく唇を緩ませたが、斎藤は固い表情のまま目を逸らせずに彼女を見つめている。
原田がため息と共にやっと口を開いた。

「驚いたぜ。どっから見ても綺麗な天神さんだな」
「君菊、なにとぞ頼む」

土方が言うとちょうどそこへ二人の禿が鈴の音を鳴らしながらやってきた。
名前と千鶴の中にいよいよ緊張が走る。

「お姉さん、そろそろ……」
「はい」

太夫は可愛らしい禿の声に返事をして土方に頷きかけると、二人を連れてゆっくりと座敷を出て行った。

「斎藤」

土方の鋭い声に、まるで呪縛から解けた様に斎藤が立ち上がる。

「大丈夫か、お前」
「問題ありません」

短く答えた斎藤は、揚屋へ向かう為山崎と共に部屋を出た。
彼はここのところずっと伊東甲子太郎と行動を共にしているが、それは取りも直さず伊東の信頼を得る為の下工作である。斎藤は土方が言っていた通り、伊東と新選組が袂を分かつのがそう遠い事ではないと確信していた。だからこそ自分と名前との関係を伊東には決して悟らせたくない。
名前に寂しい思いをさせているだろう事は想像に難くないが、名前に危険が及ぶ事だけは絶対に避けたい。彼女の事が気掛かりだったのは斎藤にとっても同じ事だった。
不安な思いをさせてまで名前と距離を置く事を考えていた矢先、それはすべて彼女の身を守る為だとそう思って行動していた斎藤は、島原潜入の件を知って動揺した。この日は伊東と外出の予定が入っていたが急遽取り止めた。
土方の方から用心棒につくよう要請されたのは、温情であったのだろうと思う。そして同時にこの仕事も失敗したくないと言う算段もあるのだろうと斎藤は思った。綱道の動向も知りたいが、それ以上に長州の会談は抑えておきたいことの一つである。
斎藤は舌打ちしたくなるような気持ちで眉を寄せた。
先程目にした名前の姿は例えようもなく美しかった。目が離せなかった。だがその美しさが斎藤を悩ませる。
島原の芸妓は芸を売る事が本業であり遊女ではない。ましてや太夫、天神以上の格ともなればそう簡単に寝間の客を取ることはない筈だ。しかし相手をするのは長州の過激浪士である。
名前の身に何かあればと思うと喉がひりつく。やっと姿を見ることが出来たと言うのに、それがこのような形である事に歯噛みしたい思いであった。
角屋に着き打ち合わせた小部屋に入れば、忍装束の山崎が既に待機していた。

「苗字君と雪村君が座敷に入ります」
「わかった」

二人は網代の間へ向かい目立たぬよう廊下の柱に身を隠した。


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