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果てのない口づけをかわそう


改札を抜けた先を見遣ればやっぱり降っていた。電車を降りる直前窓ガラスにポツリときていたのは気のせいじゃなかったのだ。天気予報では深夜からなんて言っていた筈だけど随分早いじゃないか。家に帰り着くまでは持つといいなと思ったのに。
こんな日にうっかりおろしたてのパンプスを履いてきてしまった自分を呪いながら、私は大きく溜息をつきバッグの底に手を入れて折り畳み傘を探し出す。
ちらりと覗いた腕時計は21時を回っている。
私の勤務先は一部上場したばかりの企業だけど現在上層部が事業継承で揉めているらしく、一般社員に直接の関係はないと言うもののこのところ業務は何やかやと多忙だった。今日の残業は予定外で、おかげで食材の買い出しをして帰る当てが外れてしまったのだ。駅から自宅の間にあるスーパーはとっくに閉まっている。
雨脚はみるみる強まり叩きつけるような雨になっていた。
この降りじゃあんまり役に立たない小さな傘の中、もうパンプスは諦めた。容赦なく落ちてくる雨にスーツの肩から下を濡らしながら、ところどころ水溜りを避けて歩道を歩き私の小さな城へと続く最後の角を右に曲がる。
何か残って居たかなと冷蔵庫の中身を思い浮かべ、今夜はもうカップ麺でいいや、ビールはあったよねなどと考えながら通りを外れれば左手に小さな防災公園が見えてくる。ぐるりと回り込んだところに小さな自宅マンションがある。近道をして突っ切ろうと、何カ所もある公園入口の一番近いところから中に入って行った。
普通はこんな時間、しかもこんな空模様にここに人の姿がある筈はないのだ。
だけど、今夜は違っていた。

……何、この人。

入り口横のベンチに座っている人がいる。
私の背に緊張が走る。
闇に融けてしまいそうな全身黒ずくめが頭上の暗い街灯に薄く照らされた姿は少し俯き加減で、どうやら若い男性のようだけど一目見てわかるほど全身ずぶ濡れだ。
進みかけた足が戸惑いつつ知らず知らずに止まった。だってどう見ても怪しい人だ。何をしているんだろう。少し気が可笑しい人なのだろうか。
だけどそうだとしたら意識していることを悟られるのも怖い。
雨は容赦なく降り注ぐ。
その人がふと顔を上げた。
やだ、駄目、怖い。
横を通過するのは怖いしやっぱり引き返そう。
心臓がバクバクと痛いほど打って、恐怖の余り目を合わせないようにしながら踵を返そうとした私の腕がぐいと掴まれた。驚愕の余り変な声が出た。

「ひ、ひ、ひゃあ……っ!」
「……っ、」
「……え?」
「…………、」

掴まれた腕は予想外に下方に負荷がかかっている。
ベンチから一度腰を上げ私の腕を掴んだまま、またずるずると沈んでいく身体を見下ろせば、縋るような目で一度私を見た彼はゆっくりと目を閉じた。
う、嘘、どういうことなの、これ。
こんな場合、一体どうしたらいいっていうの。
雨に張り付いた長い前髪の隙間からほんの一瞬だけ見えた瞳は驚くほど澄んだ綺麗な青色をしていて、通った鼻筋に細く引き締まった頬と薄い唇、彼は一言で言えばびっくりするほどの美形だった。





「俺は、後で……、」
「いいの。あなた身体が冷え切ってるし、早く行って来て」
「…………、」

濡れた黒いシャツが張り付いて彼の体型を露わに見せている。それほど身長は高くないけれど均整の取れた体つき。9月とは言え少し気温の低い今夜の雨は冷たく彼の肩は小刻みに震えていた。
玄関の靴脱ぎのところに立ち尽し全身からポタポタと水滴を零しながら、俯き加減でひたすら恐縮している彼にクローゼットから出したバスタオルを差し出す。このマンションの部屋は靴を脱いでほんの三歩も歩けば左手にユニットバスがある。
入ってとさっきから促しているのに遠慮をしているのか、強引に手渡されたタオルを捧げ持ったままでまだ何か言いたげな彼を見遣れば、明るいところで見る面差しは第一印象よりもあどけなく間違いなく私よりも年下に見えた。

「モタモタしないでくれる? あなたが使ったあとで私が浴びるんだから」
「……承知、した、」

少しぶっきら棒な口調で言えばやっと小さく頷いて彼は黒いローファーを脱ぎ、身体から落ちる雫を気にしながら裸足の足を運んでバスルームに消えて行った。
床の水滴を拭い着替えを済ませた私は、次にパンプスを拭い中にキッチンペーパーを詰める。
それだけのことをしてしまってソファに座ってみるもどうにも落ち着かない気持ちだ。
私は何をやっているのだろう。
社会人になって数年、私にだって恋人がいたことくらいはあるけどもう過去の話だ。それに部屋に入れたことはこれまでに一度も無い。ここに男性がいること自体が信じられないのに今いる相手はなんと見ず知らずの人だ。
本当に何をやっているの、私は。
最初はすごく不審に感じたのに、彼があまりに綺麗な顔をしていたから、絆されてしまったのだろうか。
ふと空腹を感じて思う。
この夜の奇妙な客人に夕食を振る舞うべきかなと。だけど冷蔵庫にあるのはビールとマーガリンとマヨネーズと……つまりまともな食材はない。仕方ない。招かざる客なんだからカップ麺で我慢してもらうよりほかはないよね。立って行ってキッチンのシンク下の棚を空けふと振り返るが、彼の消えたドアは未だ開く気配がなかった。
このバスルームは普通のお風呂みたいに洗面室がなくドアの向こうはトイレとバスタブが一つの空間に収まった、ビジネスホテルみたいな造りになっている。厚手のドアに遮られてそこから水音は聞こえてこない。
いくらなんでも時間かかりすぎでしょ、と思いながらドアを叩き少し大きく声を掛けてみる。

「ちょっと、大丈夫ですか?」
「…………、」
「開けますよ? 見ませんから」

答えがないのに業を煮やして細目にドアを開けば中は湿気とシャワーの湯音に満ちていた。
気持ちだけ顔を逸らし加減に見遣れば、濡れているのに脱いだ衣類はトイレの蓋の上に几帳面に畳まれ、バスタブの中で頭からシャワーを被る彼は身動きもせず向こう向きに立ち尽している。
着衣の上からはわからなかったけれど背には無駄の無い筋肉がついて、それがまるで彫刻のように綺麗でまた胸が小さく波打つ。

「何、してるの……?」

思わず足を踏み入れれば、ハッとしたように振り向いた彼は目を見開いて少し固まり、そして不意にその手が伸ばされた。え?と思う間もなく狭いユニットバスの中からぐいと手首を引かれ、不安定な格好で引き寄せられた私はその両腕に抱き竦められていた。濡れた上半身に密着されて着替えたばかりの私の部屋着も濡れる。

「ちょ、何……っ」
「…………、」

彼の胸は熱かった。胸に手をついて逃れようとするけれど思いの外強い力で拘束されて動けない。
至近距離まで近づいた潤んだような藍色がゆっくりと閉じていく。長い睫は濡れていた。
こんな時なのにその綺麗さについ見惚れてしまった私は馬鹿だ。
何も言わずにそっと触れてきた唇は燃えるように熱く、私は一刻抵抗することを忘れてしまう。
ついばむような唇の隙間から吐息を零し、私の上唇と下唇を交互に食むようにしてから割開かれ、歯列をなぞる舌がこじ開けるようにして侵入した。
甘く絡め取られて息継ぎに時折僅か離れれば、私の唇からも意図せずにため息が漏れる。ついさっき出逢ったばかりの若い男の子に唇を奪われながら、朦朧としかけた脳味噌がゆるゆると思考を巡らせ始めた。
ああ、わかった、そういうことか。
事情があったとは言え、見知らぬ男を自ら連れ込んだのは誰でもないこの私だ。
つまり、この人にそういうふうに見られたってことか。
なかなか離れていかない唇を深くまで受け止めながら、私はどこか捨て鉢な気持ちになっていた。
そりゃあ私は何も知らない小娘ってわけじゃない。
だけど。

「名前を……、」
「なまえ、あなたは」
「はじめ、だ、なまえ」
「はじめ……」

一夜限りのお遊びというにはあまりにも優しくて狂おしい口づけに眩暈を覚え、心のどこかに自分でもよく分からないほんの微かな痛みを感じながら、私は得体のしれないこの人と長い長いキスをした。

「なまえ、好きだ」
「言葉なんて別にいらない」
「本当だ、好きだ」
「初めて会ったのに。それにあなた、私よりずっと若い」
「年下ではいけないか?」

私はこんな軽い女じゃなかった筈。だけど日常から切り離されたような時間の中で、子供の様に無邪気にひたむきに求める彼に応えて甘い口づけを続ける。
私からも望んで熱く一つに融け合わせているのに、背筋から忍び寄るのは夢から覚めた後に感じる筈の虚しさ。

「ずっとなまえとこうしていたい」

どうせすぐ幻になるとわかっている。
だけど、今だけでもいいよ。あなたのこと知りたい。絡め合う指は強く私の心まで掴み取っていくようで、身体の芯を切なく疼かせた。きつく回された腕で密着して戯れ合う身体はただただ熱をまとって、今は目の前のこの人と鼓動を重ねていたいと思った。
はじめは多くを語らずに愛の言葉だけを時々口にして私を抱いた。彼の瞳も手もその唇も悲しいくらい優しかった。

「好きだ」
「はじめ……、」





目覚ましの音に跳ね起きて叩くようにそれを止め、見下ろせば何も着ていなかった。どうしてこんな恰好でいるのかちゃんと覚えている。いつもよりもベッドの右寄りにいた私はぼんやりと左側を見た。そこにはもちろん誰も居なかった。
昨夜カーテンを閉めなかった窓から痛いほど明るい朝日が差し込んでいる。雨は嘘のように上がっていた。
ふと正面の姿見に映った自分の姿を見て、私は誰も見てなんかいないのにひとりで赤面する。こんなことは生まれて初めてだ。私ってもしかしたら意外に淫乱だったのかな。
でもこうしている場合じゃない。まだウィークデイの真ん中、これから出勤しなければならないんだ。取り敢えず起き上がりバスルームに向かう。
ドアを開けば昨夜ここにはじめがいたと言う事実は、僅かな湿度と水滴にその気配を仄かに残すだけで、そこに置いてあった筈の濡れた服は当たり前だけど跡形もなく消えていた。
彼は誰だったんだろう。どうしてあんなところにいたんだろう。どうしてここで、私と……。
煮えかけた思考を熱いお湯を浴びて振り切り、髪も身体も手早く洗ってしまうと、バスタオルを巻き付け歯ブラシを咥えてバスルームを出る。テレビをつけて小さなキッチンでコーヒーメーカーをセットする。
昨夜夕ご飯は食べず仕舞いだった。朝からカップ麺はないな、コンビニに寄ってから行こう、などと考えているうちにだんだんと現実に戻っていく。化粧をしスーツを着込む頃にはいつもの自分だったと思う。
テレビが今日の天気を伝え終えた後ニュースに切り替わり、腕時計を覗いた私は「わ、遅れる」と少し焦ってカップのコーヒーを飲み干し、リモコンでテレビを消して急ぎ足で玄関へ向かった。
音声の切れたテレビから流れる筈だった私の会社の名も、暗転した液晶画面が本当なら映し出そうとしていた本社社屋の映像も退陣する社長から経営権を譲渡された若きオーナーの大写しも、だから私が見ることはもちろん出来なかった。





「みょうじさん、今朝のワイドショー見ました?うちの会社、急遽新社長誕生だそうですね」
「ふうん、そうなんだ」

私の会社は同族経営だけれど、正直誰が社長であっても末端にいる私にはあまり関係がないし興味はない。与えられた仕事をなるべくミスなくこなし、そして何とか生活していけるだけのお給料をもらえれば私はそれでいいのだ。
興奮気味の後輩に取り敢えず生返事を返しておく。今の問題はそんなことより目の前にあるいつもの二倍ほどの入力業務だ。正直寝不足の今日だけは絶対に残業をしないで帰りたい。

「なんでも留学から帰ったばかりですって。新体制が敷かれてまた忙しくなりますかね」
「さあ」
「若いらしいですよ。でも入社当時は立場を公にしないで研修にも参加したとかで、きちんとした人みたいです」
「ねえ、喋ってないで手も動かしてよ」

あなたが遅いとこっちにもしわ寄せが来るのよ、と一睨みして言い放ちお喋りを止めれば「はあい」と彼女も机に向き直った。昨夜はお酒を一滴も飲んでないのに寝不足の方が身体に堪えるなと思いながら、そしてふいに思い出すシーンに勝手に熱の上る頬を首を振って誤魔化しながら、黙々とキーボードに指を走らせた。





「俺を憶えていませんか」
「お、憶えてるに、決まってるでしょ……、」

それは何とか残業をせずに無事帰宅した私の部屋のドアの前。誰か立ってると思っておそるおそる近づけば唐突に降ってきた問い。
最後の方は消えそうに声の小さくなった私は俯いてしまう。だって昨夜あなたと私は、あんな、あんな……。
それにしてもどうしてまたはじめがここにいるの。動揺した私は、彼が何か忘れ物でもしたのか、いや、でも元々何も持ってなかったよねなどと忙しく頭を働かせる。そんな私に彼は意外なことを言った。

「昨夜のことではない、もっと以前のことです」
「え?」

思わず見上げた彼は確かにはじめだった。はじめではあるのだけれど、昨日の彼とはどこをどう見ても趣が違う。佇まいが何と言うのか、別人のようなのだ。
先ず濡れていない。それは雨が降っていないのだから当たり前なんだけど、そうじゃなくて。
昨日は濡れ鼠の黒ずくめだったのに今日のはじめは足元から頭の天辺まで隙のない姿だった。磨き立てられた革靴。身体にフィットした明らかにオーダーであろうと思われるダークグレーの細身のスーツ。細かいストライプのワイシャツの首元にきっちりと閉められたネクタイはブルーを基調にした英国風。少し長めの髪はふわりとしていた。
薄く微笑んだ彼がそっと手を伸ばしてくる。ビクリと引こうとした腰に腕が回された。

「なまえをずっと好きだった。ずっと会いたかった」
「意味が……、」
「新人研修の講師だったなまえに一目惚れをした」
「は?」
「憶えていないか? 斎藤だ。斎藤一」

遠く彼方にある記憶を呼び覚ましてみれば、その名前に憶えがあるような、ないような。そして記憶の糸の切れ端をやっと掴む。
講師なんて大袈裟な物じゃないけれど入社四年目くらいに確かに私は一度だけ、本社で行われた新人の営業社員のロールプレイング研修をしたことがあった。それは病欠した先輩の代わりだったのだけれど。

「あの時の、」
「口が上手くない俺は全く散々だったが、あんたは根気よく面倒を見てくれた」
「そう……だったかな、」
「あの時からずっと」

はじめの長い指が私の頤に触れる。急に距離を詰めてくる綺麗な顔に仰け反る。
言われてみれば確かにそんなこともあった。可愛らしい男の子で少し苦労した研修生がいたことを思い出す。でもあの時の彼がこのはじめなの?
だとしたら彼は私よりかなり年下ってことになる。なんだろう、これ、淫行条例とか関係ないよね。成人はしてるんだし。
真剣な瞳に射すくめられた私は及び腰になる。

「ちょ、ちょっと待って。昨日のことは事故って言うか、ね、謝るから。あなたを連れ込んだこと……、」
「そういうことを言っているのではない。はぐらかさずにちゃんと俺と向き合ってくれないか」
「急にこんなふうに来られても。第一あの時に新人研修ってことは、私より幾つ下なの。軽く五歳は……、」
「歳の差は埋められぬのにそのような言い方はずるいだろう」
「で、でも……、」
「俺を嫌いか?」

そっちこそずるいよ。そんな畳み掛けるように。
私の右肩から下がるバッグに手を入れた彼は小さく「鍵は」と問う。夢遊病のように取り出したそれを受け取り開錠をし、ドアを開いて足を入れ私の腕を引く。

「己の立場を確立して、なまえを堂々と迎えに来るつもりでいた」
「え、それってどういう……、」
「もう誰にも何も言わせぬ」

聞きたい事ばかりが頭をぐるぐると回る。途方もなくわからないことばかりなのだ。けれど、彼に捉えられた私の唇はいつの間にかあの甘い感触を思い出していて。気づけば浅ましいほどに私からもはじめを求める気持ちが溢れ出す。
昨夜出逢ったばかりのはじめに、信じられないけれど私も一目惚れの恋をしていた。
照明も付けずに壁に押し付けられた背中。両の手が私の頬を包み息が苦しいほどに熱く塞がれる。
頭をからっぽにしてしまった私の腕が彼の背に回れば、彼の腕が強く私を引き寄せて締め付ける。愛しむように慈しむように奪うように貪り、耳元へと滑って行ったはじめの唇が吐息と共に呟いた。

「ずっとこの日を待っていた。あんたを愛している」

この時の私ははじめの真実の姿をまだ何も知らなかったのだ。それなのにひたひたと胸を満たしていく熱い想いに漂いながら私は確かに幸福を感じていた。
はじめとかわす身を焦がす様な長く果てしない口づけに酔い痴れながら。


2014/09/14




MATERIAL: SUBTLE PATTERNS / egg*station

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