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Wandering insanity


この高校に赴任して今年で三年目である。教職に就いてから二年半程が経過した。担当教科は数学であるが、三学年のクラス担任も受け持っている俺は、夏季休暇の終わったこの時期になっても未だ進路希望を一度も提出していない生徒が一人いる事で、如何に指導すべきかとそちらの方に腐心していた。大半の生徒は二学年が終わるまでに志望校を絞り始めているのだ。
陽の落ちたこの時刻、昇降口は薄暗い蛍光灯に薄ぼんやりと照らされている。生徒達と画した位置にある、職員用下足箱の自分の名の貼られた蓋を開ければ、革靴の上に置かれた薄桃色の四角い封筒が目につく。心の中に長いこと放置してきたビーカーに溜まった液体が、ほんの僅かさざ波立つ。またかと一人ごち、それを素早く鞄に押し込んだ。このような物が人目に触れては、誰に何を言われるか解ったものではない。
ここ以外を知らぬ故他と比較は出来ないが、当校の教師達は自己のモラルを基準に考えればかなり緩い様子が見て取れる。気さくといえば聞こえはよいが……、そう考えるうちにも昇降口のガラスドアが開き、外から長身の男が入ってくる。

「斎藤、今帰りか」
「お疲れ様です」
「夏も終わりってのに、まだまだあちぃな。やっと部活が終わったところだ。ちょっとビールでも引っ掛けて帰らねえか?」

この男は保健体育の原田という教師で運動部の顧問をしている。愛想がよく男ぶりもよいので男女問わず生徒に人気が高いようだ。聞くともなく聞こえる噂では、かつて在学中の女生徒と道ならぬ関係になったこともあるという。俺には決して出来ない芸当だ。

「持ち帰る仕事と勉強があるので」
「はあ、相変わらず真面目だな。偶にはガス抜きしねえと持たないぜ? 斎藤センセイ」

揶揄われているのか?
生徒達にとどまらず教師間でも、自分がどういう眼で見られているかなど先刻承知だ。
生真面目。堅物。融通が利かない。面白みがない。
俺に与えられる評価は大概そのどれか、またはその全部だ。だがその様な事は一向に構わない。俺は学校に遊びに来ているわけではないのだ。
人の目を盗んで下足箱に手紙を忍ばせていく女生徒が在るという事実の方が、余程気を重くさせた。このような事は過去にも幾度かあったが、ひどく煩わしいのだ。
一礼して、背後でまだ呆れたような薄笑いを浮かべているだろう原田をそこに残し立ち去った俺は、すっかり暗くなった道を駅へと急ぐ。
帰宅するなりスーツの上着を脱ぎ、キッチンで簡単な夕食を作って済ませると、すぐに寝室兼書斎に籠もった。
壁の一面、天井近くまでを埋め尽くした書棚の一画から、幾つかファイルを取り出して机に置くと、以前提出させた生徒一人一人の進路志望調査票を指先で繰っていきながら、或る一人の名で手を止める。それは記名があるだけであとは見事に白紙だ。

みょうじなまえ

この女生徒だ、俺が気に掛けているのは。
ふと思い出し、先ほど鞄の奥に捻じ込んだ薄桃色の封筒を取り出してみる。宛名に小さく“斎藤一先生”と書かれているそれを裏返してみれば、差出人の名はない。開封し数枚重なった最後の一枚に書かれた文字を確認すれば、言うまでもないがそれはみょうじの名ではなかった。俺のクラスの生徒でもないようで、その名には記憶さえない。
小さく溜息を吐き、顔も認識せぬ者からの手紙を、机の脇のシュレッダーに一枚ずつかけていく。若い女性らしい丁寧な字で認められた、読まれる事のない薄桃色の紙切れが細く細く破砕していく音を、他人事のように黙って聞いていた。
波立ちは治まらぬ。





(来たっ! ほら、聞いてみなよ)

(無理だよ。読まないって聞いたの、やっぱりほんとだよ。読んでないよ、絶対)

(聞かなきゃわかんないよ、そんなの!)

(でも、なんだか、機嫌悪そう……)

出勤して真っ直ぐに数学の研究室へ向かって歩いていると、後ろから小さな足音と潜めた声が聞こえてきた。このような事も時折ある。取り合わずに鞄から出した鍵を研究室のドアの鍵穴に差し込めば、足音が近づく。
半顔だけそちらに向けると、廊下の端で女生徒が二人小さくなっており、一人は此方を見つめ一人は赤くなり深くうつむいている。恐らくこのどちらかが昨日俺の靴箱に手紙を入れた者なのだろう。
ふいに腹の中から鬱陶しく厭わしい、ザラついた感情が湧き上がった。それはビーカーの中身を大きく揺らす。

「お、おはようございます……」
「ここで何をしている。もう予鈴が鳴る。あんた達の教室は向こうの校舎だろう。早く行け」

は、はい、と後ずさり、踵を返した二人は少し先の渡り廊下を曲がって行った。
ほんの刹那彼女らを観察した俺には、言い方は悪いが人類学上性別を分類した上での雌であるという認識しか持てなかった。俺は女性という存在にそういった感覚しか持てない。唯一人を除いては。
今日は一時限から授業が入っている。
担任しているクラスであった為授業外の資料も手にして、研究室から距離のある別棟へと赴き三階までの階段を上る。予鈴が聞こえた。
戸に手を掛けて、酷い喧騒の教室内につい顔を背ければ、廊下の先からみょうじが歩いてくるのが見えた。手に通学鞄を持っているところから、たった今登校してきたのだろう。
俺をその瞳に認識すると目の前に立ち止まり、あ、と小さく声を上げた。

「みょうじ、今頃登校か。もうホームルームが終わっているだろう」
「すみません」
「まあいい。最近研究室に来ぬが解らない箇所はないのか」
「……」

その間はなんだ、と重ねて問おうとしたところ授業開始の本鈴が鳴り、みょうじは小さな声で「ないです」と言って俺から離れた。
肩先の色素の薄い髪が踊り、制服の短いスカートが僅かに跳ね上がれば、舌打ちをしたいような心持ちになる。細くすらりと伸びた脚は眼前を過り、俺を置き去りにしてざわつく教室へと入っていく。
ビーカーに新たに滴り落ちる水音が心で鳴った。
授業中であるにも関わらず、みょうじの進路についての考えが頭を占めていた俺は、やはり一度しっかりと話をせねばならぬと心を決め、一時限が終わり生徒達がガタガタと椅子の音を立てる合間を縫って彼女に近づいて行きその名を呼んだ。
だが背を向けていたみょうじは聞こえているのかいないのか、一度こちらを振り向く素振りをするが、直ぐに後席の男子生徒と何やら親密そうに話し始めるではないか。俺は踵を返す。
クラス委員が出欠票を提出しに来たので、伝言を頼んで教室を出た。





意図したわけではないが一学年時からずっとみょうじの教科担任だった。以前彼女は解けない問題をよく聞きに来たものだ。みょうじは本来成績の悪い生徒ではない。彼女に関しては、どこか他の生徒と違う雰囲気を感じ取っていた俺は、過去に例外的に何度か個人授業をした事があった。
顕著に距離を感じるようになったのは、進路指導が始まった頃からだろうか。今年度に入り彼女のクラス担任になってからは、明らかに避けられているのがわかった。手にした生徒名簿に目を落とす。それは彼女の家庭環境が激変した時期と一致していた。
思考を破る思いがけないノックの音に、机から弾かれたように立ち上がれば、この研究室の建てつけのあまりよくない戸がガチャリと音を立て、失礼しますと呟きながらまさに今頭で考えていた当の本人が入ってきた。
長いこと窓に掛けられたまま、褪せて黄ばんだカーテンごしに面した校庭から、部活動に励む活き活きとした声が聞こえている。いつもと何ら変わりない普通の放課後だ。
今しも進路指導の要綱を机上に広げていた俺の頬に笑みが上りかける。しかし、見遣った彼女がやけに挑戦的な目をした事で、歓びが不快感へと急速に取って代わる。せり上がる感情を抑え努めて冷静に、壁に沿って置かれた古びた長椅子に座るよう促した。俺の方は自分の机の前の椅子に座り直し、回転させてみょうじに向かい合う。

「来ないだろうと思っていた」
「なら何で呼んだんですか」
「解っているだろう。お前の進路について話さねばならん。それと、」
「まだ考えてないです。みんなが決まってるからって、型に嵌めた指導なんてしないで下さい」

取り付く島もない物言いに、不快感の増した俺は一瞬口ごもり、心でまた水滴が落ちる音を聞く。

「そんなつもりは、ない」
「教師なんてみんな同じ。私の求める答えなんて、絶対にくれない癖に」

消え入るように語尾が小さくなっていき、みょうじがうつむく。暫しの重苦しい沈黙にまた波立つ。





ボトリ。
やけに大きな音を立てて、また一滴が落ちた。

では、なんだ。お前が求めている答えとは。

一滴、またもう一滴。後から後から滴が落ちて表面張力が破れ、ビーカーの縁を越えて水が零れる。俺の内側から溢れ出す水音が激流となって、日常の音をかき消し、いつしかこの場が何処なのかさえ解らなくさせた。やがて己の口から低い声が漏れるのを己の耳が拾う。

「型に嵌った指導をする気は、端からない」

俺は静かに席を立ち、戸口までゆっくりと歩いて身体ごと振り返り、背後のドアに後ろ手を伸ばして鍵を掛けた。古い鍵は耳障りで不愉快な金属音を立てながらも、その役割を果たす。
衝かれたようにみょうじが顔を上げた。
その辺に転がっている、ありふれたお手軽な感情とは違う。例えば原田が女子生徒に手を出したような、そういったものとは訳が違うのだ。
彼女に対する想いは俺の精神性のイデアであり、形而下では論理的に語る事など到底出来ぬ高尚なものだ。俺が現役の教師であることや、彼女が俺の受け持つクラスの女子生徒であることへの縛りなどそこには存在せぬ。
再びゆっくりと時間をかけて足を運び、なまえの前に立つ。驚愕の表情を浮かべたなまえが目を見開いて俺を見上げた。自身の口元がゆっくりと弧を描いていくのを自覚する。
これまで押し隠してきた自己を解き放つ幸福に胸が震えた。腰を屈めその白い頬へ細いおとがいへとゆっくりと手を伸ばす。

「なまえ」
「せ……んせ……い?」
「俺のところへ来るか、なまえ」

指先がその頬に触れれば彼女の瞳が更に大きく見開かれた。濡れた琥珀色はどこまでも深く澄み通り、微かに混じる恐怖に似た色は、それさえもが俺を昂らせる。
その顔が見たかった。
小さな顔を撫で、震える赤い唇に指先を滑らせ、もう片方の手はびくりと強張る肩に添わせてゆっくりと押し倒し、細い背を長椅子の座面に沈めていく。
陽が翳ってきたようだ。間もなく夜が始まるだろう。総てを解放させる時がやっときた高揚感に全身が包まれる。なまえと二人きりでメタフィジカルな世界に身を投じる。
俺と彼女とで作り上げる完成された形を、裁けるものがあるとしたならば、それは唯一神でしかない。これからそれをじっくりと時間をかけて、心ゆくまでお前に教えよう。



Wandering insanity
Where should I go?


2013.09.14
※長編 覚醒salvation 00へ続きます(年齢制限有)




MATERIAL: SUBTLE PATTERNS / egg*station

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