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03


午後には年内の予定業務から開放される。
まだ夜も明けぬ時間に車に乗り込みながら俺は、先ほどのなまえの表情の冴えなかったことが気にかかっていた。
彼女は「まだ寝ていていい」と言う俺に首を振り、軽食を整えてくれた。ダイニングのテーブルに並ぶのは握り飯と具の多い味噌汁、ミキサーにかけた手製の野菜ジュースだ。その傍らには栄養補助食品のゼリー飲料が置かれていた。それは立て込むと長時間食事を摂れなくなる俺が職場に携帯するためになまえがいつも買っておいてくれるものだ。
「いつもすまない。後は自分でできる」と言ってもやはり彼女は首を振った。昨夜の帰宅も遅かった。前の晩のことがあった為流石に食事よりも眠ることを優先し、四時間ほどの睡眠を取った。だが共に寝室に入ったなまえはきちんと眠れたのだろうか。
どれほど言っても起きて帰りを待ち、家にいる間は俺の為に甲斐甲斐しく世話を焼く。日中も家事に勤しんでいるなまえだ。彼女も仕事を持っている為、普段は出来ないからと細かい部分の掃除に精を出していたし、正月料理のための買い出しや下ごしらえなども一人でしていた。
年末休暇に入ったとて彼女はろくに休んでいない。俺の身体ばかりを気遣ってくれるが、なまえの方も疲労が溜まっているのではないか。見れば顔色があまりよくなかった。
「具合でも悪いか?」
「……ううん、平気」
「もしや、一昨日の夜……」
寝室ではない場所で事に及んでしまった。いつにも増して堪え性のなかった己を思い出し決まりが悪くなるが、なまえの生気のない顔を見ればそう言っている場合ではなく、あの時に身体を冷やしてしまったのではと思い至り俺はにわかに狼狽えた。
「風邪のひき始めかもしれん。いつものクリニックは休みだが当番医がある。念の為、」
役所の案内を調べようとタブレットを取り出そうとすれば、なまえは温度のない声で言った。
「風邪じゃないよ」
「過信は良くない」
と言っておいて、タブレットを鞄に入れていなかったことに気づいた。昨日は使わなかったから寝室にあるのだろうかと立ち上がりかけた俺を止め「ほんとに違うの」と再びなまえが言う。
「ならばせめて今日はゆっくりしていろ。疲れた顔をしている。家事などしなくて良い故」
「……大丈夫だから」
「無理をするなと言っている。俺が出かけたらもう少し眠れ」
「…………」
気になって仕方がないが仕事がある。後ろ髪を引かれる思いで俺は家を出た。その時なまえが何を考えていたのかなど知る由もなく。
大晦日のこの時刻、あたりはまだ夜で街は眠りから覚めていない。車通りの少ない幹線道路の最初の赤信号で停まれば、ずっと先まで赤のシグナルが連なって見える。ブレーキを踏みながら道の先を眺めやり、なまえとした会話を思い返していた。なまえは言葉数も少なかった。いつもの朝ならば明るい笑顔を見せよく喋るのだ。
今日は報告書を作るのが主で、業務が長引くことはないだろう。明日は元日だがなまえの体調次第では彼女をゆっくりと休ませて、どこにも出ずにいたとて問題はない。食事の用意や洗濯程度ならば俺にも出来る。なるべく無駄なく業務をこなし早く戻る努力をしようと考える。
早朝から勤務に入る時は眠気を飛ばすために、休憩室に寄って自販機のミル挽きコーヒーを飲むのが習慣だ。書類作成をするだけだが、少々寝不足の自覚があった俺はこの日も休憩室に向かった。集塵脱臭機のある喫煙用カウンターと衝立で区分された場所にその自販機がある。
ズボンのポケットに入れていた小銭入れを出しながら、ふと衝立の向こうでされるやり取りを耳が拾った。
通常なら他人の話し声などそう気にはならない。しかし飛び込んできたのが、聞き違いでなければ俺の名だったのだ。つい無意識に動きを止める。
「……まだそんなこと言ってるのかい。同期で一緒に研修を受けたが、斎藤君は昔からそう浮ついたタイプではないよ」
「硬い人だと思ってた。あの人に興味持つ女子社員には近づくなオーラ出しまくるし、飲み会も殆ど付き合わないし、女の子のいる店に誘って心底嫌そうな顔されたこともあるし、女嫌いかと思ったほどだ。だけど人当たりが悪いわけでもないから本当は男が好きなのかなって考えたりもした」
「君は面白いことを言うね」
「いや、だから驚いたんだ。わざわざ会社に訪ねてくるなんてどういう関係かって。硬い人間ほど実は裏では盛んだとも言うからな。ましてやあんな美人なら……」
声の一人は大鳥だ。夜勤明けの彼は俺と入れ替わりに仕事を上がる時間だ。対して長々と喋っているもう一人は同じプロジェクトにアサインした一年下の井吹か。
一体なんの話をしているのだ。
「そういう話は僕にはわからないが、確か彼は新婚だった筈だよ」
「本当か? あの人に奥さんが? ちょっと信じられないな。見合い結婚か?」
「そこまでは知らないが」
「あの人、仕事以外の話を全然しないし私生活が謎だらけだ。じゃ、昨日のは何だ? 奥さんてどんな人なんだ? 夫婦生活はどうなって……」
話に割って入るタイミングを掴みかねていたが、やり取りは俺のプライベートに及び始めた。勝手なことを矢継ぎ早に捲し立てる井吹の声を聞くうちに、頭に血が上りかけ足を踏み出そうとした時。
「てめえら、何をこんなとこで油売ってやがる!」
背後から俺より先に怒声が放たれた。
煙草を咥えカチリとライターで火をつけながら俺の脇を過ぎり、ずかずかとカウンター式灰皿に近づいていくのは土方さんだった。振り返った井吹が目を剥く。
「ゲッ!」
「他人の噂話なんかしてんじゃねえよ、男のくせにみっともねえ」
ふーっと大きく煙を吐く彼を見て大鳥は困ったように笑い、井吹はバツの悪い顔をしてから、そこにいた俺の姿を認めるとはっとしたように更に固まった。
「斎藤さん……も、いたのか……」
「……あんたは余程俺に興味があるようだな」
「いや……、その、悪気じゃないんだ。あんたのことが、ちょっとだけ心配だったというか……」
「いらぬ世話だ」
「悪かった……」
井吹という男は少々調子のいいところがあるが、悪意のないことは俺にもわかっていた。多少の不快感は残るが、しゅんと項垂れた姿をそれ以上責める気にもならず「俺のことを聞きたいならば俺に聞け」とだけ言っておく。
それにしても俺は社内でどういう人間だと思われているのか。堅物というのは言われ慣れた言葉だが、よもや男色趣味があるとでも思われているならば甚だ心外だ。
そそくさと去ってゆく背を苦々しく見送り、改めて自販機に小銭を投入する。コーヒーの出来上がるのを待つ短い間に俺の背に向かい「的は外れているが彼は本当に心配していたようだよ」と大鳥が笑う。
何を、と問う前に彼の続けた言葉に俺は少なからず意表を突かれた。
「君が色っぽい美女に翻弄されてるんじゃないか、とね」
「……っつ!」
紙のカップを手にして口に運んだところで、飲みかけたコーヒーを吹きそうになる。熱いそれに唇を焼かれたような心地がし、咳込みながらズボンのポケットからプレスされたハンカチを出し口を覆った。意味の分からない大鳥の言葉に目を白黒させれば彼はまだにこにこと笑っている。
「僕は君が既婚だと知ってるから別の意味で心配になるけれどね」
「な、何の話だ」
「昨日訪ねてきた女性がいただろう?」
「あれは、違う」
その時これまで向こう向きに黙っていた土方さんが、グシャと音を立てて空になった煙草の箱を握り潰した。傍らのダストボックスに投げ入れて吸殻を灰皿に押し付けるとこちらに向き直る。
「大鳥、早く済ませること済ませて帰れ。徹夜だっただろう」
「ああ、はい。わかりましたよ」
「斎藤も無駄話なんかしてちゃせっかくの早上がりが遅くなるんじゃねえか。さっさとコーヒー飲んで仕事にかかれ」
「はい」
言いながら土方さんは不機嫌そうに大股で俺たち二人の前を通過した。





一が出かけてから私は寝室に置いていた自分のバッグから、出し忘れていた彼のタブレットを出した。それは彼がロックをかけていて、私には開くことの出来ないものだから中を見たわけじゃない。それにもともと彼の持ち物を探ったり調べたりするような趣味を私は持ち合わせていない。
ベッドサイドテーブルにそれを置きため息をつく。私の頭を占めているのは一昨日の夜からのことだった。一は確かにいつもと違って見えた。
リビングのカーペッドで身体を離し何となく照れながらやっと食事を済ませた後、ベッドに入ってから再び求めるような仕草をした一に少し驚いて「え、もう一度?」と上目遣いをすれば、妖艶に笑んで私の手を取って薬指に口づけた。
一の睡眠時間が気になりつつもいつもよりもたくさんの言葉で愛を囁く彼に、拒否をすることが私にはとてもできなかった。もちろんそれが嫌だったわけじゃない。嬉しかったのだけれど。
昔から言葉数の少ない彼が告げてくれる言葉は全部私の宝物になる。だけどこんなに執拗に愛されたのは久しぶりのことで、思えば帰ってきてからの行動も言葉もいつもとは少し違ってたから、目覚めた時にも「昨日から一はどうしたんだろう」と思った。
昼近くに少し疲れた顔で出勤した彼を見送ってしまってから、掃除を始めようとしてリビングの床に落ちていたタブレットを見つけた。
「これ、忘れ物……?」
ポツンと残されていたそれが、今日は必要がないために置いて行ったものなのか、それとも昨夜ここに置きっぱなしにしてしまった鞄から落ちてしまったものなのか私には判断がつかなかったのだ。だから私は咄嗟に彼の後を追った。
手近なバッグにそれを詰めこみコートを羽織り、ブーツに足を突っ込んでガチャガチャと鍵を閉めあわてて玄関を出たけれど、エレベーターで地下に下り走るような急ぎ足で駆けつけた時には遅く一の車はもうそこになかった。「やっぱり……一って足も行動も速いんだよね」と呟きつつめまぐるしく思案して、これがないために彼の仕事に支障が出たりしたらせっかく取った休暇が不意になってしまうんじゃないか、そんなことまで考えてしまい……。
僅かの時間だけ迷った私は思いを決め、エレベーターには戻らずにそのままマンションを出て駅へと向かった。
一の会社にこれまで行ったことはないけれど、駅から近い彼のオフィスビルは大きくて誰でも分かるはずなのだ。有人受付があることも知っているし、家人ですと言えば彼の手が離せずに出てこられなくても、きっと社内の人が届けてくれるだろう。要らなかったとしても無くて困るよりはマシな筈だと私は思った。
真昼の電車内は程よく混んでいたけれど、いつもの通勤電車とは趣が違う。線が違うだけで電車ってこんなに雰囲気が変わるものなんだなと、地下鉄の真っ暗な窓に映る自分を見つめながらわざわざこうして乗り慣れない路線に乗って夫に届け物をする自分に、面はゆいような恥ずかしいような浮足立った気持ちになってふと笑みが漏れた。
到着した駅の階段を上ればすぐ目の前にあるのは、私の勤める会社とはまるっきり規模の違う近代的なビル。大きなガラス張りの壁に沿って少し歩けば、ハイグレードな外装の総合エントランスが見えてくる。そこにある案内サインには間違いなく一の会社名がスタイリッシュな横文字で書いてあった。
そちらに向かいかけて私は足を止める。都心のオフィス街に出てくるにはお粗末なお化粧しかしていない。化粧品を持ってきてはいなかったけれど、手鏡で一応顔のチェックくらいはしようとバッグに手を入れた。ビルに沿った花壇と葉の落ちた街路樹の等間隔に並ぶ狭い隙間、ガラスの壁に少し身を寄せて通りに背を向ける格好で目立たないように鏡を覗こうとした、その時ふとガラスの向こうが見えることに気づく。
脚の高いラウンジチェアーと、セットになった天板の狭い丸いテーブルが幾つも置かれた中はお洒落なラウンジ風になっている。ガラス張りなんだから中が見えるのは当たり前だ。だけどこれでは中からも見えてしまうと思い後ずさりかけて。
私は無意識に視線をやっていたロビーの奥から、たった今訪ねようとしている一がゆっくりとこちらの方向に歩いてくる姿を見た。どんなに遠くからでも彼の姿は雰囲気でわかるのだ。もう長い付き合いだもの。
「あ、はじ……」
綻びかけた口元がこわばり、口に出しかけた声が止まったのは、それと同時に観葉植物の陰になっていた場所から後ろ姿の美しい女性がすっと立ち上がり、彼に向かってほんの小さく片手を上げた姿を見てしまったからだった。



This story is to be continued.




MATERIAL: SUBTLE PATTERNS / egg*station

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