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「#エロ」のBL小説を読む
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正直なところ手をつなぎたいと思っている




時々小さく息をつきながら、斎藤はパソコンのモニタを見つめていた。朝からもう幾度目かわからないため息だ。
そんな彼の、キーボードに置いた手の上にいきなりパサリと載せられたのは、二つ折りされたA4サイズのコート紙である。彼の作業をそれは否応なしに止めさせた。
見上げれば総司がにこにこと満面の笑みを浮かべている。斎藤は不機嫌に眉を寄せる。
「なんだ」
「今夜、花火大会があるんだよ」
「……それがどうした」
「そんな怖い顔しなくてもいいでしょ」
一見、新聞の折込広告のような紙は少し厚手で、大輪の花火がフルカラーでプリントされていた。
「…………」
「花火、行かない?」
「行かぬ」
「どうして?」
「何故俺があんたとそのようなところへわざわざ」
斎藤はやや邪険な手つきでそれを脇に除けた。ディスプレイに視線を戻した斎藤を見下ろしながら、総司は再びその口元に笑みを載せ斎藤の肩に両腕を回す。
「ねえ、行こうよ。だって一君ていつも会社と家の往復しかしないじゃない。これっていう趣味もなさそうだし、面白いことも言わないし、この世に楽しいことなんて一つもないって感じのつまんない仏頂面ばっかりしてるし」
「あんたは喧嘩を売っているのか」
総司の腕を振り払い斎藤が鼻白む。
喧嘩腰なのは一君の方でしょ、などとチラリと思うが今日の総司は口に出さない。
「違うってば。僕はね、そういう君を楽しませてあげたいなって思っただけ」
「気持ちだけで結構だ」
「そう言わずにさ。さっき土方さんが花火の話してたよ」
「土方課長が?」
ひそめられていた斎藤の眉があがった。土方は斎藤が最も信頼を寄せる直属上司である。
一度も聞いたことがないが土方課長は花火などを好むのだろうか。という部分が大いに気になったが、そうでなくとも総司がいつになく可愛げのあることを言うので、改めて彼を見返してみる。
小さな内心の変化が見てとれる斎藤の様子に、総司の笑みは深くなった。
斎藤は目立たないよう控えめにオフィスを見渡した。少し離れた席にパソコンに向かうみょうじなまえの真剣な表情が見える。つい見つめてしまったが、はっと我にかえり視線を下げた。
斎藤の答えを聞く前に「6時半に一階のエントランスロビーね」と決めつけた総司は既にどこかへ消えていたが、問題のそれはそのまま置きっぱなしにされている。
斎藤はそれを見るのが、実は初めてではなかった。それどころか現在彼のビジネスバッグの中に全く同じものが入っている。
自治体の発行するこのリーフレットは、会社から比較的近い彼のマンションにもポスティングされていた。内容は花火大会のプログラムであり、彼は昨日のうちに隅々まで確認済みだった。
ここから目と鼻の先の河川敷では、毎年盛大な花火大会が行われる。その行事に自ら積極的に出かけたいと思ったことはこれまでにない。斎藤が今年に限りそうしたのには理由があった。
昨日からのことを思い返し、彼はまた小さくため息をつく。




昨日の退勤後のことだ。いつもの道で、同僚と何やらお喋りをしながら前を行くなまえの姿を目にした。帰宅の駅に向かうところなのだろう。普段通りの速度で歩けば彼女達を追い越すことになる。彼はわずかに逡巡した。
そんな斎藤の気配を悟ったかのように二人が振り返る。
「あ、斎藤さん」と一人が斎藤に呼びかけ、なまえも気づいて微笑みながら会釈をした。
「お疲れ様です。夕方になっても暑いですね」
「ああ、そうだな。では、お疲れ様」
彼は平静を装って挨拶を返し、その実心臓を痛いほどに波打たせ彼女らの脇を通過する。
なまえは小さく目を見開き、ひととき斎藤の横顔をじっと見て、そしてまたふわりと笑った。
今の自分の言葉や態度が不自然ではなかったかと気になった斎藤は、目の端に見えたなまえの笑顔に心中で安堵する。
そして彼の耳は、背後となった彼女らのやり取りを無意識のうちに拾った。
「明日の花火大会は彼と行くの?」
なまえの声は高すぎず低すぎず、いつも心地よく彼の心をくすぐる。その声を聞くのが斎藤はとても好きだった。

断じて、ぬ、盗み聞きではない。みょうじの声を好きなのは確かだが、だが違う。わざとではなく、ただ、聞こえてしまうだけで……脇を過ぎった故、これは本当に致し方のないことで……。

自分で自分に無意味な言い訳をしつつ、耳はしっかりとダンボ化した。結局は盗み聞きである。
「うん。なまえも誰かと二人で?」
「残念ながらわたしは今年もお相手なし。彼のいる人はいいな」
「単なる腐れ縁だけどね」
「そんな贅沢なこと言って」
そこまでをしっかりと聞きとった斎藤の足はいきなり速まった。それまでも決して遅いと言えない歩調だったため、もはや競歩と見紛うばかりの速さだった。なまえ達は早くも遥か後ろになり、それ以上の会話はもう聞こえない。
彼の心を占めたのは、なまえに決まった相手がいない、この一点だった。
なまえ達よりもさらに後方、やり取りを観察していた人物がいたことに斎藤が気づける道理などなく、脳内は今や絶賛多忙中だった。傍から見れば特に表情の変化は表れていないが、実際その頭の中はめまぐるしく回転していた。
自宅のデスク付近、本棚、マガジンラックなど思いつく場所が思いつくままに、さながら監視カメラの映像のように脳内モニタに次々と映し出される。
まだどこかにあるはずだ。捨てた覚えはない。必ずあるはずだ。

自宅マンションに帰りつくなり慌ただしく鍵を開け部屋に入り、上着も鞄もソファーに放って目的物を探す。
斎藤の部屋は整然としている。しかしデスクにも本棚にもマガジンラックにも見当たらず、じわじわと焦り始めたころ、明日の朝に出そうと玄関にまとめておいた古紙の束の一番上にやっと見つけた。
括っていたビニール紐を解き手に取ったそのプログラムは、少し前までの彼にとってただの広告チラシの一枚でしかなかったのだ。
危なかった。資源回収が明日でよかった。
斎藤は胸をなでおろす。エアコンをつけることさえ失念していた彼の額には薄っすらと汗が滲んでいた。
彼のいる人はいいな、となまえは言った。
なまえには特定の相手がおらず、恋人のいる友人を羨ましいと思っている。そして彼女はきっと花火大会に出かけたいと望んでいる。
結果的に盗み聞きとなった点は不行き届きと言わざるを得ないが、これは自分にとって非常に重要かつ有益な情報であった。
ならば。ならば、俺が誘ってみてはどうだろう。
いつになく気が逸った彼は勢いに乗り、ソファーに置いたビジネスバッグからスマートフォンを取り出す。画面を開いて操作をしようとし、すぐさま絶望的な事実に気づいた。
俺はみょうじの個人的な連絡先を知らないではないか。
しかし彼は気丈に思い直す。
いや、まだ諦めるのは早い。花火大会は明日の夜に行われるのだ。明日の出勤後に誘っても十分に間に合う。
しかし、明日のいつ、どのようなタイミングで?
自分と彼女は恋人どころか、同僚という以外の特別な関係はない。あるのは長い間秘めてきた一方通行のこの想いだけだ。
誰にも洩らしたことはないが、斎藤はなまえの愛らしい声以上に、なまえ本人のことを好きだった。
突然に誘ったりしては驚かせてしまうかもしれぬ。やはり先に好意を伝えるべきか。そこまで考えて身体も頭も熱くなった。
だがいったい、なんと言えば良いのだ。
順序が少々おかしかったが、改めて考えてみれば問題はそこであった。
斎藤は女性に想いを伝えたことが生まれてこのかた一度もない。何故ならなまえが彼の初恋の人なのである。
かつて見たことのある映画やドラマのその手のシーンを思い浮かべようとするが、そもそも恋愛ストーリーを特に好むわけでもない彼にそんなものは浮かんでこなかった。
気の利いた言葉一つ知らぬ自分には洒落た真似など出来ない。となれば、正攻法でストレートにいくしかない。
悩んだ挙句、そう結論を出してからもまだしつこく迷い、惑い、堂々巡りをし、ろくに眠れぬ一夜を明かし朝を迎えた。

会社への道を歩きながら、頭の中で斎藤は考え抜いた台詞を繰り返す。考え抜いた割にはかなりシンプルな台詞だ。

ずっとあんたを好きだった。共に花火を見に行かないか。

簡単だ。ただ、言えばいい。
会社に着きセキュリティーゲートを通過するときも、エレベーターの中でも、幾度も幾度もこの台詞を脳内リハーサルした。
簡単ではないか。何も考えずにただ言えばいいのだ。
だが果たして、実行する段になるとそれは全く簡単なことではなかった。総司ならばこの程度は朝飯前だろうが、斎藤にとってはとんでもなく難しい試練だった。
オフィスドアを開けるなり、既に出勤していたなまえといきなり顔を合わせた。緊張し、鼓動が早まる。
「斎藤さん、おはようございます」
「あ、ああ、おはよう。みょうじ、すまんが、その、今、少し良いだろうか」
「はい?」
なまえはいつもの通りに朗らかな笑顔で、彼の好きな心地の良い声で応える。斎藤の心臓はいよいよ早鐘を打ち始めた。
「き、聞いて欲しいことが、ある」
「なんでしょうか?」
「急に、このようなことを言っては……お、驚かせてしまうかもしれぬが」
「……はい」
要点だけを言うつもりが、くどい前置きをしてしまった。昨夜あれほど考えたというのに、やはりまだ逡巡があるせいだ。内心で自身を叱咤激励する。
余計なことを言うな。目的を伝えろ。早く。

ずっとあんたを好きだった。共に花火を見に行かないか。

あんなに練習をしたではないか。早く言うのだ。
焦り始める己を落ち着かせようと、斎藤はひとつ深呼吸をする。
なまえが斎藤を見上げた。再度息を吸って言葉を押し出そうとした彼は、なまえの瞳をうっかりと正面から受け止めてしまった。濡れたような黒い瞳がじっと自分を見つめている。その瞬間彼の頭には全身の血がいっぺんに上った。刹那くらくらとした。
しかし心の表れにくい斎藤の面差しは、なまえの目にはいつもと全く変わりなく映った。少々上ずった声にさえなまえは気づかぬままだ。
「俺は」
「はい」
「俺は……っ、ずっと」
「はい」
「ずっと花火を好きだった」
「…………」
「…………」
「…………花火を?」
「…………」
なまえの笑顔が一瞬固まって「は?」という顔になった。
斎藤は激しく動揺した。動揺のあまり次の言葉を失った。全身の毛穴が開いた気がした。
わずか間をおいて、再びなまえが笑みを浮かべる。
「そうなんですか」
「いや、ち、違……」
「そんなに花火がお好きなら、今夜は楽しみですね」
「そ、そうでは……」
「じゃ、わたし仕事始めますね。ちょっと今日は立て込んでるので、すみません。失礼します」
彼女はそう言って小さく頭を下げ、踵を返した。
そうではない。言葉を間違えてしまったのだ。正しくはあんただ。俺の好きなのは花火ではなく、あんたなのだ。
そうすらすらと言えたならばどんなによかっただろうか。
だが彼にはもう何も言えなかった。
なまえは急ぎの仕事を抱えていると言う。超個人的なこのようなことで、これ以上彼女の時間を奪ってはならぬ。すっかりと気落ちした斎藤に、なまえを引き留めることなど出来ようはずもなかった。
その場に屈み込み頭を抱えて髪を掻きむしりたくなった斎藤だが、実際には立ち尽くしたまま、遠ざかるなまえの背を切なく見つめた。
悲しいかな彼の薄い表情は、放った言葉の意味のそれ以上も以下もなまえに伝えることが出来なかった。
一部始終を総司が見ていたことには全く気づかずに、ただただ己の滑稽さに打ちひしがれていた。
万策尽きて撃沈した斎藤は、午後になってもリベンジの機会など到底得られないままに、そうして話は冒頭に戻る。



***



総司が斎藤に花火の話をするすこし前、それは斎藤が肩を落とし時々ため息をつきながらパソコンに向かっていた頃のことであるが、大量の書類を両手で抱えコピー室に行くなまえを目ざとく見つけた総司が追いついて声をかけていた。

「それ重そうだね。少し持ってあげようか」
「あ、沖田さん」
すみませんと恐縮すれば、いつにない優しげな笑みで「なんならコピーも手伝うよ」と調子よく続ける総司に、なまえは不思議そうな顔をする。常日頃総司とそれほど親しくしているというわけでもないのだ。
「ごめんね。実は朝の話、聞こえちゃったんだ」
「朝の話……?」と思案するように宙に目線をやったなまえがつぶやけば「一君と話してたじゃない」と言われ、思い当たったように目を見開いた。
「ああ、……あのこと」
「そう、そのこと」
「斎藤さん、すごく花火がお好きなんですってね。でも、どうしてそれをわたしに教えてくださったのか、それがよくわからないですけど」
なまえの考え込む顔は困惑げで、半分受け取った書類を落としそうになりながら総司は思わず吹き出した。一度起こった笑いは治まらず、涙目になった総司をなまえが怪訝そうに見返す。
「君ってさ、物事をなんでも額面通りに受け取るタチなの?」
「え?」
「もしかして、君達って似たもの同士……」
昨日の帰り道でのやり取りを見ていた総司は、以前から薄々感じ取っていた斎藤の、なまえに寄せる気持ちを確信した。そして昨日に引き続いての朝の挙動不審ぶり、あのぎごちなさ、あれが溢れるほどの好意からくることも可笑しいほどによくわかった。
興味のない相手、特に女性に意識を向けること自体、斎藤には元よりあり得ないのだから。表情に出なくとも、長い付き合いの総司から見れば、斎藤は実にわかりやすいのである。
俺はずっと花火を好きだった、だってさ! そんな面白すぎる告白しちゃう人なんて、世界中どこ探しても一君くらいしかいないよ。
なおくすくすと思い出し笑いを続ける総司を、なまえが不審げに見つめている。
「ところでなまえちゃんは花火、好き?」
「それはもちろん、好きですけど」
「そう。で、君、彼氏いないんだったよね」
「はい、まあ……」
なんで沖田さんがそんなこと知ってるんですかと言わんばかりのなまえの疑問は無視して、総司はたたみかける。
「なら、今夜は空いてるよね」
「……え?」
「花火の大好きな一君といっしょに、花火大会に行くってのはどうかな?」



***



午後6時45分。律儀にエントランスロビーに佇む斎藤のスマートフォンが鳴った。苛つき始めていた彼は画面を見る。案の定総司である。ムッとしながら通話ボタンをタップする。
「何をしている。遅い」
『ごめんごめん、一君。悪いけど僕、抜けられない用が出来ちゃった』
「自分から言い出しておいてあんたと言うやつは、そもそも15分も人を待たせて……」
『だから、ごめんてば』
「土方課長も現れないが、彼はどうしたのだろうか」
『土方さんなんか来るわけないじゃない』
「なに?」
『あの人と花火見て、何が楽しいのさ』
「なんだと! あんたは俺を騙したのか!」
『人聞きが悪い。だいたい土方さんが来るなんて、僕は一言も言ってないから』
「な…………」
更に沸騰しかけたところで、その怒りがいきなり空中分解した。
斎藤は薄く唇を開いたまま、前方を凝視する。
このあたりから、総司の声が耳を素通りしていた。
あれは。
あれはまさか……みょうじ、だろうか……まさか。
目を瞬いてみる。
少しだけ迷う素振りを見せつつ、こちらに向かってなまえが真っ直ぐに歩いてくる。彼女はこちらを見ているようだ。何故だ。何故俺を見ている。
斎藤は当惑し、また瞬きをする。
ややあって斎藤の前まで来た彼女は立ち止まり、小さく会釈をした。小さな頭のてっぺんのつむじまでが可愛らしい。
顔を上げたなまえの頬がバラ色に染まっていた。そして小さな小さな声が彼の名を呼んだ。
「あの、斎藤さん」
「……みょうじ?」
斎藤はもう二度三度、瞬きをした。
目を見開いてよくよく見ても、目の前のなまえは幻覚ではない。
「あの、花火……ですけど」
なまえの声が聞こえた。いつもの彼女の声で間違いない。これは幻聴でもないようだ。
「……は、花火」
だが不器用にオウム返しをしただけで、斎藤は言葉につまる。幾度もリハーサルした台詞など、とっくの昔にどこかに飛んでしまった。
仕事を含め日常の大抵のことは予定通り計画的に行うのが彼の常だ。つまり予測にない状況というものに斎藤は非常に弱かった。
『僕の代わりを派遣してあげたからね。あとは自力で頑張ってよね』
斎藤のすっかり下がった手にあるスマートフォンの向こうで総司がまたくすくすと笑っていたが、無論それは全く耳に入らなかった。




二人並んで歩き出したものの、斎藤にはわけがわからなかった。何故なら花火大会に誘うことに彼は完全に失敗しているのだから。だというのに現在自分の隣に彼女がいる。
何故だ。
いくら考えても答えは見つけられないが、だが彼女は確かに自分の隣を歩いていて、そうして周りの流れに乗るかのごとく、駅とは反対方向の河川敷方面に二人肩を並べ向かっているのだ。
当然ながら嫌なわけがない。むしろ、嬉しい。嬉し過ぎるほどだが、いったいこれからどうすれば良いのか。何を言えば良いのか。彼は焦燥にかられた。
何か、何かを言わなくては、彼女の気が変わって、悪くすれば彼女は帰ってしまうかもしれない。
俺は総司のいう通り、ほとほとつまらない男だ。だがとにかく、今、何かを言わねば。
表情は静謐に見えていながら、脳内がまたしても忙しく働き始めた斎藤である。
一方、なまえはなまえで、コピー室での総司とのやり取りを思い出していた。
「む、無理です。嘘です。あり得ません!」
真っ赤になって叫べば、総司は両の手をそれぞれ自分の左右の耳に押し当てて言った。
「嘘でもないし、無理でもないから。君、そんな大きな声出せるんだ……?」
「だって! 斎藤さんがわたしなんかのこと、いやいや、嘘です。絶対に嘘です! 沖田さんたら、わたしのこと担ごうったって無駄ですからね!」
「はぁ……、君達って……すごくめんどくさい……」
一君が君と花火に行きたいらしいよ、などと言われても全く信じられないという顔のなまえに、とりあえず総司は昨日からの斎藤の様子について懇切丁寧に説明をした。
なまえは聞きながら目を丸くする。
「わかった? それに、君も一君のこと、前から好きだったんでしょ」
「え、どど、どうしてそれを!」
「だから、声のボリューム少し下げてね。そんなのちょっと見てればわかるから」
総司は呆れて笑う。総司の知る限り、これまでになまえが笑顔を向ける社内の男性は斎藤一人しかいなかった。つまりはっきり言って一目瞭然だったのだ。




河川敷で行われる花火大会は、毎年多くの人で賑わう。
会場に近づくに連れだんだんと見物客が増えてゆき、歩道も車両規制のかかった車道まで、仲間同士のグループや浴衣姿のカップル、親子連れなどでみるみる混み合ってきていた。暮れはじめた空に、通りがかりの店や幾つも出ている屋台の灯り。人々の笑いさざめく声やはしゃぐ声。誰もが楽しそうな顔をしている。
なまえはそっと隣を仰ぎ見た。
しかしいつもと変わらない端整な斎藤の横顔からは、特に何もうかがい知ることが出来ない。斎藤は前を向いたまま何も喋らない。彼の脳内がどうなっているかなど知る由もないなまえは、俯いて視線を足元に落とす。
やっぱり……沖田さんにからかわれたのかも知れない。沖田さんはあんなこと言ってたけど、やっぱり信じられない。だって、斎藤さんだもの。
仕事を無駄なく正確にきっちりとこなす彼は上長や同僚の信頼も厚い。それでいて容姿は並外れて整っている。そして斎藤は社内の女性にひそかに人気がある。女性との噂は聞いたことがないが、そういうことにまるで関心のなさそうなその佇まいが孤高過ぎて、恐らく誰も彼に近づけないだけだとなまえは思っている。
そういう斎藤さんだもの。
勢いでここまでなんとなく一緒に来ちゃったけど、ほんとにいいのかな。斎藤さんは拒絶しないでくれただけで、ほんとは迷惑に思ってるかも知れない。だからさっきから黙ったままなのかも。
どうしよう……。
「みょうじ」
「はっ、はい!」
いきなり名を呼ばれ、なまえは俯いていた顔を弾かれたように上げた。見れば斎藤は困ったような目をしてあたりに視線を彷徨わせていた。
「人が、多いな」
「はい……」
「それで……、それで、だな」
「はい? あ……っ」
その時、後ろからやってきた少年が二人を追い越そうとしてなまえの肩にぶつかった。なまえの身体がぐらつくがそれは一瞬のことで、斎藤が咄嗟に彼女の手首をつかみ自分に引き寄せる。少女を伴った少年はすぐに人混みに消えた。中学生くらいであろう彼らが手を繋ぎあっていたのが見えた。
「このようなところで走るなど」
斎藤は顔をしかめたが、すぐに気遣わしげになまえに視線を当てる。
「大丈夫か、みょうじ」
なまえの手首は依然、斎藤の手につかまれたままである。
「だいじょ……、ぶ……で……」
それを見下ろしてなまえの声が途切れる。
「すまん……」
「いえ、あ……あの、」
斎藤の手はまだ離されない。
花火の会場はもうすぐ目の前だった。空はすっかりと暮れて、大きな堤防の向こうは既にかなりの人出だろう。道にも堤防の上へと続く階段にも人、人、人の波。人で溢れかえっている。
「暗くなって来た上にこの状況では、その、はぐれてしまう恐れが」
「あ……そ、そうですね」
「いや、その……、そうではなく、俺は」
と、斎藤がなまえに向き直り口を開きかけた、その時。
ひゅるる……という音、続けてドーンと鳴る大きな音が響いた。
「あ、斎藤さん! 見てください!」
花火の打ち上げが始まった。みればなまえの指さす空に、最初の花が大きく開いた。そうして続けざまにすぐ、また鮮やかな花が夜空を飾る。儚く散っては、幾つも幾つも新しい大輪の花が美しく咲き乱れた。
「綺麗……!」
なまえは、その胸の高鳴りさえ伝わってきそうなほど嬉しそうに、まるで涙ぐんででもいるかのようにきらきらと瞳を輝かせ、花火を夢中で見あげている。斎藤は彼女の横顔をじっと見つめた。
見つめたまま、彼女の手首をつかんでいた自分の手をそっと滑らせる。
斎藤の指がなまえの指に触れた。
ふと気づいてこちらを向いたなまえが目を瞠った。彼女から瞳を逸らさずに見つめ返し、斎藤は持てる勇気のすべてを振りしぼった。この努力は彼にとって一世一代に近い。

「はぐれてしまう故、だけではなく」
「え、」
「俺はみょうじと……正直なところ、手をつなぎたいと思っている」

斎藤の五指がなまえの指にそっと絡む。
大きな音とともに次々と花火が咲きほころぶ。
なまえの頬が紅潮していた。
絡み合った彼女の指先にきゅっと力がこもった気がして、斎藤には自分と似た彼女の想いがほんのりと伝わってきたような、それはもしかしたら自惚れかもしれないが今はそれでもいいと思った。
もう一度しっかりと彼女の手を握り直し、斎藤は切れ長の目元を薄く染め、夜空に咲く花を見上げた。




MATERIAL: textear /よふかし DESIGN: 睿鑒

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