あの世界とは全く異なる空の色に目眩がした。少女は素肌を柔らかく撫でてゆく温度を取り払うように何度も何度も若干の力を込めて擦る。
此処は彼処とは違う。毎朝目が覚める度、毎夜目を閉じる度、一体自分は何処にいるのだろうと、考え込んでしまうことがなかったわけではない。それほどあちらの世界での体験と其れを通して得た感覚は少女の体は勿論のこと、心の奥底まで深い根を張っていた。濁りきった空を浮かべ季節など忘れ去ってしまったかのようなあちらの世界は、確かに少女が存在する世界とは異なったものではあったけれど、それでも少女にとっては真実だった。そこに愛と呼ぶには少しばかり歪な感情を抱えた男がいたから、間違いかもしれないと思いながらもその男を愛しく思ってしまった自分がいたから、たとえ異質で存在することさえ許されない世界であったとしても、少女には拒絶するという選択肢を持つことは不可能だった。
――この世界に彼はいない。
分かりきっている事実を思い返す度に、何度も胸の内で反芻した疑問をまた胸の奥底で反芻する。これでよかったのだろうか、あの時した選択は本当に正しかったのだろうか。彼を置いて還ってきてしまうことは、本当に是とされることだったのだろうか、と。
最後に見た男の両目には深い悲しみの色が浮かんでいた。その色が少女にはひどく不吉だった。まるでその瞳に自分はもう二度と映らないような気がした。
「…しこ…撫子!」
「えっ、あ、」
ちゃんと前を見て歩けよ、窘めるように続いた言葉にようやく自分が物思いに耽りながら歩いていたのだと知る。目前には微動だにしない電柱が静かに呼吸を続けている。少年の言葉がなければぶつかっていたのかもしれない。ありがとう、呟いた五文字は、長い間仕舞い込んでいて黴が生えてしまったパンのように耳障りな音を立てた。
「別に、お礼を言われるようなことじゃない」
空に広がった青も肌を撫でる温度も、無意識を刺激するかの如く少女が焦がれた世界とは異なる。あちらの世界へ足を踏み入れる術を少女はもう二度と持たない。たとえいくら願ったとしても与えられることもない。嗚呼、これを絶望と呼ぶのか、しかし絶望と呼ぶには少しばかり生ぬるい。
「なあ、お前さ」
「え?」
「最近…いや、」
三歩後ろを緩慢な動作で歩む少年は、何か言いかけて、けれどその言葉を口にすることはあってはならないのだというように途中で口を閉ざした。生まれてから殆どの時間を共に過ごした少年の考えなど、悲しいかな、少女は簡単に把握できてしまう。
「言って」
「え、」
「理一郎、言ってよ。言ってくれなきゃ、分からないわ」
その言葉は、掠れざらついた言葉は、本当は少女が男に言いたかった言葉だったのかもしれない。言葉なんて所詮意思の伝達機能だ。口にしなければ生涯伝わることはない、伝えてもらわなければ把握する術を持つことも出来ない。男はその機能を最後まで少女に対して用いることはなかった。あの世界で、最初から最後まで一貫して味方で在り続けた男は、いくら少女が乞おうともその口を開くことはついぞなかったのである。少女は神ではない、人知を凌駕した存在ですらない。何処にでも存在する、しかし男にとってはたった一人の、普通の女だ。伝えられなかった言葉は、教えられなかった言葉はこの先一生涯知らぬままである。知り得ぬままである。
少女の真摯な瞳に少年は少したじろいだようであったが、その光が一歩も引くことはないと伝えているのを見て取ると、小さく溜息を一つ吐いた。
「最近、お前ずっと何か悩んでるみたいだから。そんな悩むくらいなら俺に話せばいいと思ったんだ。俺じゃなくても、課題の奴らとか、教師とか親、とか。誰でも良い、お前が選んだ奴に話せばいいって。解決は出来なくても一緒に悩むことは出来る、話を聞くことは出来る、だから」
懸命に言い募る文字列を少女はどこか泣き出しそうな心持ちで聞く。まさしくそれは少女が男に言おうとして言えずじまいになってしまった文字の羅列であったから。
言いたかった言葉は、伝えたかった言葉は、最後まで胸の奥で燻ったままだ。男の言うように何時か少女はその燻りさえも忘れ去るのだろう。あなたと生きたかったと、向かう先が破滅しかなかったのだとしても、何処までも一緒に行きたかったのだと。
「――別に悩んでいるわけではないの、本当よ。悩んでいるわけではないの、理一郎が心配するようなことは何もないわ。ごめんなさい、心配を掛けて」
悩みではない。悩んでももうどうにもならないことは悩みにすらならない。ならば、この一種の虚無感にも似た思いは何なのだろう。もう何処にも男はいないというのに。
ひどく耳障りな音を立てて胸が軋む。悲鳴を上げることすら忘れた感覚を飼い慣らして、少女は少年に向かって悠然と微笑んでみせた。嗚呼、これが、恋だ。
「謝ることじゃない――お前が大丈夫だというなら、俺はそれを信じたいよ」
「ありがとう、理一郎は何時もそうやってわたしを信じてくれる。それがわたしは嬉しいのよ」
「な、何だよいきなり…」
「言いたいことは伝えておかなくちゃ。伝えられなくなる前に」
蛇足のように付け足された言葉に少年が訝し気に眉を寄せる気配がした。きっと少年には分からないであろう、一生伝わることもないだろう。それでいい、と少女は思う。
毎分毎秒、記憶の中の男の姿が揺らぐ。春の陽射しに似た柔らかな金髪、ルビーの如き鮮明さを宿しながら果ての世界まで照らす優しさを内包した赤瞳、愁いを帯びながらたった一つの名前を呼ぶためだけに存在するような声音。好きだった、間違いなく、どうしようもなく。向かう先が地獄でも破滅でも構わないと思う程度には。
――たかと、わたし、あなたのことがどうしようもなくすきだったのよ。ねえ、きづいていたかしら。
少女はもう思い出せない。男の指先がどのように頬を滑ったか。どのような表情でこちらを見ていたか。男が望んだとおり全てを忘れ、何もかもなかったことにして、正しい世界で生きていこうとしている、少女が望もうと望まないと。忘れたくない、と思える今はなんて贅沢なのだろう。
「なでしこ、」
「行きましょう、理一郎。遅刻してしまうわ」
少年が言い終わる前に少女は前を向いて歩み始める。忘れたくない、他に何を犠牲にしてもいいから、記憶の片隅に男の存在を永久に刻みつけておきたかった。けれど其れすら許されぬというのなら。
「風が暖かい…もう、春なのかしら」
一度きりの忘却なら耐えてみせよう。だから、それがこの先二度と与えられぬものだと約束してくれる?
「素敵な春が、くるといいわね」
青く澄んだ空が何処までも広がっていた。その青さの向こうに揺らぐ記憶の中の幻を見たような気がして、少女は目を細める。



//有海
∴しょうがないなあ、一度きりだよ
(あなたをわすれることは)
「愛と恋の狭間で」さまに提出させて戴きました。素敵な企画をありがとうございました。