ずるいおとこのひと
※黒尾大学3年、谷地専門学校1年です。
やわらかなメロディとともに聞き慣れないフレーズが耳朶を揺さぶる。
 普段、ラブソングはあまり聞かないのだが新曲の譜面に歌詞をつける作業が行き詰っていることもあって気分転換にかけていた。
 ノックが二、三度続き、控えめな声が扉の外から響いてくる。
「鉄朗さん、入っていいですか?」
「ああ」
扉が開き、お盆に黒猫のマークがプリントされたマグカップ二つとサンドウィッチを乗せながら慎重な足取りで入ってくる仁花を見遣り、ローテーブルの上を片付けはじめた。
赤ペンで走り書きされてある数枚の譜面をファイルに仕舞い、次いで転がっているペンをガイコツを象ったペン立てに直す。
「これで大丈夫だよな?」
「あっ、はい」
 黒尾の問いかけに、仁花はぱちくりと瞳を瞬いて小さく首を振った。テーブルの上にマグカップを置き、次いでサンドウィッチを、と考えをめぐらせばそれより先に黒尾の手がお皿を攫う。
「すみません」
「これくらいなんともねぇよ」
 律儀に頭を下げる目の前の少女に黒尾は微か苦笑し、クッションへ腰を下ろした。
「あの、ブラックでよろしかったですか?」
 そう問いかけてくる声に頷いて、口を開く。
「お前は砂糖とミルク両方いるよな?」
「は、はい!」
 さとうとみるく、そう口の中で反芻し黒尾は立ち上がった。つられるように仁花もあわてて後を追おうとするが視線で制する。
「わたしの分だけなので、とってきます…!」
「いいから座って、な?」
 付き合ったばかりの恋人ばかりにやらせるのは性に合わない、と言外に匂わせれば、ようやく察したのか大人しくなる。立ち上がるついでに頭を軽く叩くと、肩が揺れた。
 自分の存在を意識している、とはっきり見てわかる仕草に黒尾の口元が自然と緩む。


    ***

 黒尾がキッチンに牛乳パックと砂糖瓶を取りに行っている間、暇を潰そうと仁花は部屋をきょろきょろ見回した。
 ここで作詞をしたりするようで、スピーカーやエレキギターを弾くときに用いるアンプなどがところどころに置かれている。一見、無造作に置いているが、よくよく観察すればアンプから伸びているコードに足が引っ掛からないよう、ルービックキューブを模した黄緑の四角いケーブルホルダーに巻かれてあり、すっきりとした印象を与えていた。
 黒尾の部屋に入った回数は片手で数えるほどしかなく、人の部屋を不躾に眺めていれば気を悪くするだろう、と窓のそばに飾ってあるテディベアを見ていたため、大きいソファだな、敷いてあるラグふかふかで気持ちいいな、といったとりとめのない感想を抱いていた。
 けれど恋人になってから改めて入ってみると、まったく印象が違うことが分かる。
 たとえば、部屋の隅で焚きしめられているアロマデイフュザーから漂ってくる香りが、抱きしめられたときにふと鼻をくすぐるものと同じということ。自分の母親が香水を好んでつけることもあって、それなりにアロマオイルや香水の知識はあったが男物に関してはまったく分からず首をかしげる。
「……これ、何の匂いなんだろう」
 嗅いだ印象では柑橘系のフルーティーでさわやかな香りなのだが、そこにほろ苦さが混ざり、なんともいえない不思議な感じを漂わせていた。頭上にはてなマークを浮かべつつ、大学生でバイトもしているらしいということを踏まえると、そこそこ有名なブランドに絞られる。
 覚えのある香りだが、ブランドの名前と香水の名前両方がいっこうに出てこない。うんうん唸っていると、背後でガチャリというドアノブが回る音がし、黒尾が両手に牛乳パックと砂糖の入ったガラス瓶を抱え入ってきた。いきなりのことにアロマデイフューザーのすぐ側でしりもちをついてしまう。
「持ってきたぞ…ってなにしてんだ?」
 黒尾の訝しげな眼差しから逃げるよう、仁花は笑みを取り繕う。
「い、いえ!これ珍しいなーと思って見てただけで物色するつもりはなかったんで、」
 白い蒸気を吐き出している円筒形のアロマデイフューザーを指さすと、細められていた双眸が柔らかな色をまとった。テーブルに牛乳パックと砂糖瓶を置き、仁花の隣に並ぶ。
「ああ、これか。普段はつけねーけど、どうも部屋の匂いが気になってな」
 そう言って、頬をぽりぽり掻く黒尾に仁花は今こそ、チャンスとばかり口を開いた。
「このアロマオイルってどこのメーカーなんですか?」
「ん? ああ、これか」
得心したようにうなずいて近くにある黒を基調にしたチェストボックスをしばらくごそごそ漁っていたかと思うと、あったあったとちいさく呟く声と共に緑色の小瓶を取り出して掌に落としてくる。
 とっさに反射で受け止めるとそこには白いラベルシールが貼りつけられた小瓶が在り。白いラベルシールをよくよく見てみればベルガモットと流麗な筆記体で記されていた。
「ベルガモットですか?」
「オレもあんま詳しくないけど、木兎からもらったんだよね」
「木兎さんもアロマオイル詳しいんですね…!」
「いや、あいつの場合アレだろ。鎮静作用のあるアロマオイルを赤葦から勧められて知らないまま使ってるオチじゃね?」
「……それはいいと言っていいのか悪いと言っていいのか」
苦笑いに近い表情を浮かべる仁花を見つめているとアロマオイル効果なのか自然とリラックスできる。テーブルの上にコーヒーとサンドウィッチを放置したままなことに気づいた仁花が顔を青くしながらローテーブルに駆け寄るのに倣い、黒尾も立ち上がった。
冷めてしまいましたとしょんぼりする仁花に思わず笑みが込み上げてくるが今は空腹を満たすことが優先事項だとサンドウィッチへ噛り付いた。

お腹を満たし、食後のコーヒーをゆっくり口へ運んでいると隣から熱烈な視線を感じ黒尾はマグカップに隠れた口元を知らずの内につりあげた。
「あ、あの…!」
「ん?どした」
上目遣いでそう問いかければ、目の前で角砂糖を摘み入れようとした動きが不自然に止まる。おおかた自分の顔に見惚れているのだろう。黒尾自身、顔の造りに対しては無頓着な方だが今回ばかりは自らの顔がそれなりに整っていることに感謝したくなった。
 しばらく沈黙を守っていれば、ようやく話す気になったのだろう恐る恐るといった体で口を開く。
「ふと思ったんですけど、笑わないで聞いてくれます?」
「笑わないから安心して」
返事をすると、仁花はちいさく唸って言葉を紡ぎかけるが、やはり恥ずかしさの方が勝ってなかなか言い出せないようだ。望むなら彼女の口からききたいと思い、待っていたがこの様子だと日が暮れそうで黒尾はマグカップから唇を離す。
「ようするにオレの匂いが好きってこと?」
「うえっ!!!?い、いや、その…」
 正に図星だったのか仁花の受け答えにはこのうえない焦りが滲み出ている。その返事に何かを思いついたのか黒尾は近年、稀に見ないほど楽しそうに瞳をかがやかせ笑みを広げた。
 普通なら見惚れる状況だが彼の今、見せた微笑みの裏に隠されたものを読み取る術をこの数ヶ月で身につけ仁花は本能的な危険を嗅ぎとったようで後ずさろうとする。
 しかし、そこは残念ながら相手の方が上手だった。瞬きするかしないかの間に自分の方へ乗り出してきた姿に、仁花は茶色の瞳を大きく見開き距離を取ろうとするもテーブルの脚に当たってしまい、それは叶わない。
「ち、近いです…!!!!」
 半ば悲鳴に似たぴくりと腕が動くがそれも一瞬のことで込められた力が緩むはずもなく仁花は途方に暮れるしかない。
「じゃあ、逃げてみせてよ」
 男女の力の差を否が応でも思い知らされるのはこういう時だ。どうやって逃げようと考えを巡らせている間にいつのまにかラグを背に倒されたようだ。天井から吊り下げられている蛍光灯が目に眩い。
どくり、と胸が高鳴る。頭ではここからどう抜け出すかの算段でいっぱいだというのに、それに反し身じろぎひとつできなかった。
「………仁花」
 名を呼ぶ声色が優しいのが、どうしようもないくらい心臓に悪い。不意に息苦しさを感じた仁花は距離を取るべく黒尾の胸元を頑なに押しのけていた手を強く握りしめる。すると顔が近づいてきた。
 顔が鼻先と触れ合わんばかりのところに在り思わず息を呑む。
 美形と全く縁のない世界で生きてきたせいか、悔しいくらいに免疫がないのだ。たちまち耳まで真っ赤に染め上げ硬直した仁花の唇にやわらかなものが降る。唐突なことに双眸をこぼれ落ちんばかりに瞠る仁花のその様に押し殺したような笑い声が室内に満ちた。
「くく、っ…」
「!」
 ぼんっという音を立てながら仁花の頬が真っ赤に色づく。さすがにからかいすぎたと、思い直し拘束を解こうとする黒尾だが、次の瞬間、放たれた言葉に固まる。
「……ような気持ちになるんです」
 か細い声量で紡がれたそれに余裕綽々だった黒尾の耳朶にわずか朱が走った。仁花が不思議そうに見つめてくるのに低く呻いて、今度こそ華奢な体を強くかき抱いたのだった。