あまやかな衝動
※谷地さんがメイドになっています。
小説内設定は明治時代にしております。

世は、明治時代。
十年を一昔とするならば、およそ五つ昔に徳川幕府が瓦解してからというもの、新政府の掲げる殖産興業のスローガンのもと、この国は急速な文明開化と産業革命を経験した。
 なかでも、ここ帝都トウキョウは人々の暮らしぶりの近代化が著しい。
 町を行き交う人の多くが和装から洋装となり、山高帽に三つ揃いの背広姿の紳士はモダンボーイ、略してモボ、髪を短く切ってスカートで颯爽と歩く女性はモダンガール、略してモガと呼ばれている。
 使用人もその例外ではなく、最近は洋装を取り入れているところが多いため月島伯爵もそれに倣って一から変えさせた。
 そうといっても、単に小袖と袴を身に着けるのでは粋とは言えない。レースやリボンといった洋装のおしゃれをさりげなく取り入れた和洋折衷の着こなしにこそ、キラリと光るセンスがあると思われているからだ。
 様々な理由を踏まえ月島家の使用人は皆、外国で今、流行している燕尾服やメイド服といったものに身を包んでいる。
「そろそろ蛍さまがお目覚めになられる時間ね」
 壁に掛けられている柱時計に視線を遣りメイド長が呟いた。皺ひとつない糊の利いたスカートが彼女の仕事ぶりを敬虔に表していた。
物憂げにため息を吐くその姿に他の使用人達も大げさといってよいほど、顔をこわばらせる。
 どうしてそこまで起こしにいく役を頑なに拒否するのか、といえばここ月島伯爵家の長子――月島蛍に原因があった。
 月島家というと帝国陸軍で優秀な隊員のみが集められる精鋭部隊、いわゆる特命部隊の一員ばかりを輩出することで有名な家系である。
 また一族、親戚と美男美女揃いで名高く懇親会や舞踏会などに引っ張り出されるくらいであった。本家の長男の月島蛍は相当の美形であり年齢を問わず帝都中の女性が熱を上げて夢中になっている。
 けれど、美形には弱点があるというように、彼もひとつだけ欠点があったのだ。
 それは一人の使用人に熱を上げていることだった。
 使用人の名前は谷地仁花。蜂蜜色の透き通るような淡い髪に茶色の瞳を持つ女性である。元々は下流家庭の出身であり日雇い労働をしていたが、その儚げな容貌と楚々な振舞いが伯爵の目に止まりこうして働いている。
 初めは不慣れな仕事の連続に不安を感じていたが数をこなすにつれ出来ることが段々と増え先月はついに奥方の衣装合わせに同行するようにもなった。
 しかしそんな彼女にも尽きない悩みはあった。最近は考えるだけで頭痛がするくらいに。
 それを理解しているのかいないのか、今日も厳格な声音が非情に紡ぐのはやはり自分の名前だ。
「では谷地さんお願いしますね」
「はい、了解いたしました」
 がっくりと肩を落としたくなるが自分より年若いメイド達が見ているのに無様な姿を晒すわけにもいかない。

 朝は主人を起こすことから始まる。
 眠気覚まし用の木綿で出来たおしぼりを準備し喉を潤すレモン水を硝子製の水差しに入れ、それを華美な装飾が施された台車に載せる作業を済ませ部屋へ向かう。
 どこまで続くのか錯覚してしまいそうなほど、長い廊下を足音一つ立てず歩みを進めた。
 十分は歩いただろうか、ようやく目当ての扉が見えてくる。
 扉から少し離れたところに台車を止め、服に皺がないかどうか確認してから扉の前へ立ち控えめにノックをした。
「蛍様、そろそろ朝食の時間が差し迫っていますので起こしに伺いました」
 なるべく刺激しないようにと声量を絞り扉越しに言葉をかける仁花。
待つこと数分、微かな物音と衣擦れが聞こえ明らかに寝起きと分かる気だるげな声が聞こえてきた。
「いいよ、入ってきて」
 その返事から許可を貰ったと判断し、仁花は手を獅子頭の意匠が刻まれている取っ手に添え後ろ向きへ開いた。人工的な光が入らないようにとの気遣いだ。
 毛足の長い絨毯を踏み潰さぬよう細心の注意を払って台車を寝台の近くへ寄せた。
「おはようございます、昨日はよくお休みになられたでしょうか?」
 言葉をかけつつ、湯気を仄かに上らせているおしぼりが熱くないことを確認し未だ夢の中にいるだろう寝ぼけ眼の月島の掌へ載せた。
 突如、感じた熱に驚いたのか睫が微かに震えるがあまり頓着していないようで顔を丁寧に拭き始めた。その間、仁花は繊細な透かし模様が入った硝子の細長い器にレモン水を注ぐ。
 天蓋から差し込んでくる陽光にきらきらと反射して輝くそれにすっかり目が覚めたのか先ほどより幾分かすっきりした顔つきで手を突き出してくる。
「少々、温いかもしれませんが大丈夫でしょうか」
恐々といった様子で問いかけてくる声に月島は首を振って承諾の意を示す。その拍子に蜂蜜をそのまま溶かし込んだ乱れ一つない髪が揺れ見事な陰影を作り出した。
「ちょうだい」
 なみなみと注がれたレモン水が飲み干され、あっという間になくなっていき最後には一滴すら残さず空になった器と満足げに目を細める彼だけが残った。
一言のみの催促に仁花は心得たとばかり器へまた注ぐ。水差しの中身が半分に減った頃には完全に意識が醒めたようで大きく伸びをした。
 明け八つを告げる鐘が高らかに鳴り響いたのをきっかけに仁花はてきぱきと台車に水差しやおしぼりを載せ身を翻そうとした刹那、腕をぐいと無造作に引き寄せられた。
 視界が反転し、いきなりのことに抵抗する間も与えられず気づけば端正な顔立ちが間近に在り。とっさに踏ん張りきれなかった仁花は当然、月島の胸へ飛び込む形になる。
「いっ、いきなり何をなさるんですか…!」
 息巻きながら逃れようと身を反らせたがそこは歴然とした男女の力の差に敢えなく封じ込まれてしまった。
頑丈でいくら押してもびくともしない逞しい腕によって枕を背に押し倒される。
 それでも懸命に抵抗しようと行儀悪くばたついている足に苛ついたのだろう、膝裏へ強引に足を割り込ませ身動き出来ないようにしてしまう。
当の本人はスカートが大胆にも捲れあがりドロワーズが見えていることすら気にかける余裕がないくらいの焦りようだった。
「大目に見てあげるけど、僕も気がそこまで長くないし大人しく言うことを聞いた方がいいと思うよ?」
にっこりとそれはそれは綺麗な笑顔で囁かれた言葉に何らかの意思を読み取ったのか激しい抵抗が嘘のように大人しくなる。
 あまやかな蜜は時に猛毒を孕むこともある。その例えを表すが如く、月島の眼差しはどこまでも優しく甘い。
「ど、どうしてこんなことを…っ!」
 今の自分の置かれている状況が信じられないと言いたげな茶色の瞳に月島は、ふっと頬を緩ませた。
「きみが可愛いから。これが理由じゃ納得できない?」
「いいえ、納得できません」
 劣勢な状況に陥っているにも関わらず真っ直ぐこちらを見上げてくる眼差しの鋭さに月島は一瞬、困ったように眉を寄せた。しかし仁花と目を合わせた時には、すでに消え去っており情欲の色を纏っていた。
「思ったより強情だからこれは直接、体に返事を聞くしかないかな」
 気を抜けば聞き逃してしまいそうな微かな呟きに仁花は首を傾げる。
 その瞬間、ひたりと触れるものがあって身を固くした。覚えのあるその濡れた感触が首筋をたどって降りてくるが、突然すぎてわけがわからない。鎖骨を甘噛みされる痛みでようやく我に返った。
「やっ…!」
 絶え間ない愛撫の数々に普通の女性ならば享楽の声をあげ、ねだるのだろうが、そういった男女の睦事を知らない仁花は嫌悪感しか感じられず幼い子どもがいやいやをするよう、首を横に振るが月島の足が絡みつき逃げることを許さない。
「蛍さま、ご気分でも優れないのですか?」
 月島の男にしてはしなやかな指が背中へ回り、緩く蝶々結びにされたリボンをほどこうとするそのとき、高らかなノックが部屋中へ響いた。
 はじかれたように月島が意識を向けた隙を逃さず半ば這い出るような格好で寝台から下り、そのまま扉へ脱兎のごとくひた走った。彼が答えるより先に口を開いた仁花。
「今日は寝覚めが悪かったため朝食に遅れるとの言伝てです」
 仁花の返事に疑いを持たず、それが主人の言葉だと思ったのだろう足音が遠ざかる。
 口を挟む隙すら与えずに強引に間を取り持ったという、下手すれば首になりかねない行為をしでかしてしまった、と気づいて普段から白い顔を更に蒼白にさせて、すぐさま頭を地に付けんばかりの勢いで下げ始める少女に対し月島は、暫しぽかんとしていたがやがて肩を小さく震わせた。
「出すぎたことを言ってしまい本当に申し訳ございません、この件に関しては如何なる罰も受ける覚悟でいますのでどうか首だけは、」
 見ていてこちらが可哀想になるほどの勢いで謝り続ける仁花。月島からまだ何の反応も返ってこないことに訝しく思ったのか恐る恐る、頭を上げるとそこにはくつくつと低く喉を鳴らして笑い続ける月島がいた。
「さっきから我慢してたけど、もう無理、くくっ」
「………………」
 未だ笑い止む兆しの見えない月島に先ほどまで心配そうな顔で右往左往していた仁花は、ふいと顔をそむけそれから無言で扉を閉めた。樫の木から作られた重厚な扉がぎしぎしと悲鳴を上げ、強く揺れた事から彼女の怒りが深いことが分かる。
仁花が完全にいなくなったことを気配で察した月島は、ぴたりと笑い止んだ。
「益々、屈服させたくなったんだけどどうしようかな」
愉悦すら滲んだ言葉と同時に形のよい唇が酷薄に歪む。金色の双眸に映るのは愛情か、それとも執着か。
どちらにせよ匙は投げられた。あとは転がるのを待つのみだ。