はじめてのおんなのこ
※合宿中です

毎年、恒例の夏合宿。
 梟谷学園を中心にグループを組んでいる関東近郊の学校―森然高校、生川高校と五日間、練習試合を行うのがいつもの予定になっていた。
 今回はそこに烏野高校も加わるとあって研磨のテンションはこころなし高めである。
  五月の遠征の試合を通じて、仲良くなった鳥野の選手、日向に再会することができるため、テンションも自然と上がるというものだ。
 幼なじみのクロに何故か生暖かい目でよかったな、と言われ無性に腹が立ったので足の小指を思い切り踏んづけてやった。
 しかし大して痛くもなかったのか表情は涼しげなままだ。
「なに、おまえイライラしてんの?カルシウムとっとけよー」
「もういいからどいて」
 そっけなく言い放ち目の前に立っている青年を横へぐいぐい押しやる。もうすぐ午前中最後の試合が始まるのに絡んでこないでほしいと軽く睨めば、手をひらひら振って上手く躱された。
 半分、八つ当たりに近いそれはバレーボール部の現主将で三年という黒尾に対していささか礼儀に欠ける振る舞いに映るが、十年来の幼なじみで腐れ縁の仲なので、とっくの昔に遠慮という言葉は自分の中ではなかったことにされていた。
 チームメイトもそういった事情を理解し、注意してくることもないので公式戦のみ態度と言動を改めている。
 三時間続けて試合を行い、うち二試合は勝利したが最後の梟谷には接戦の末、負け越してしまった。ペナルティとして課せられている坂道ダッシュ二往復を終え、体育館の昇降口にへたり込む。
 クールダウンしろよ、とクロが声を張り上げていたが聞かなかったことにして額から滴る汗を手の甲で無造作に拭う。
「けんまさーん!」
 突如、耳に響いてきた甲高い声に研磨はのろのろと顔を上げた。とめどなく滲んでくる汗で髪の毛が張りついて鬱陶しい。
「…なに、リエーフ」
 つい先ほどまで梟谷のエースである木兎のスパイクをブロックするために何度も飛び、そのうえ息も整わないうちに走らされたからてっきり疲労の影が濃いと想像していたが、まったく逆で自分を覗き込む深緑の双眸はぎらぎらと輝いていた。
その顔が思ったよりずいぶん近いことに条件反射でのけぞる。
「少し離れてくれない」
「あっ、すんません!」
 不機嫌そうに眉を寄せる研磨にようやく思い至ったのかリエーフと呼ばれた少年は、慌ててぱっと飛び退く。
「おれに用でもある、」
「梟谷の四番、すげぇっスね!あの肘伸ばして打ってたスパイク!」
 こちらの問いかけに被せるよう興奮冷めやらぬ様子で叫ぶリエーフに一瞬、眉間を寄せたが、深々とため息をついて会話の主導権を譲る。
「ズバーンって!ドスーン!っていきましたよね!?」
 相変わらず単語と擬音語で話すリエーフにちいさく相槌を打つ。
 ウイングスパイカーに限らず猪突猛進型の人間はなぜ、会話を単語で済ませるのか。ひょっとすると彼らにしか分かり得ないテレパシーみたいなものが備わっているからか、とこの場に山本や日向がいたら怒りそうなことをつらつら考え、リエーフを横目で見遣る。
「目標を高く持つことはべつに悪くないけど、その前にリードブロックなんとかしなよ」
「………」
 淡々と事実を告げれば、図星だったのかそれまで意気揚々と語っていたのが嘘のようにしゅんと肩を落とすリエーフ。その頭に大きく垂れ下がった虎の耳が見えたような気がして研磨は込み上げてきた笑いを噛み殺した。
 さすがにかわいそうだと思い直し、試合で個人的によかったところを言おうとした刹那、背後から鋭い叱責が飛んできた。
「クールダウンさぼってんじゃねーよ!バカリエーフ!」
「げっ、夜久さん」
「あ?」
頭上がふいに暗くなったかと思うと、リエーフの背中へ見事なタイキックが炸裂する。
ごっと鈍い音がし、次の瞬間、地面に巨体を蹲らせるリエーフが視認できた。横に誰かが立つ気配がし、ふと視線を向けると黒尾が呆れたように目を細めやり取りを眺めている。
「夜久の血管切れねぇか心配だわ」
「心配してるなら止めればいいのに」
「ああなった夜久に声かけたらオレ、生きて帰ってこれないから遠慮しとく」
「いっぺん死んで、その厨二思考リセットしてもらったら?」
「ずいぶんな言い草だなオイ。最近、流行りのツンドラってやつか?」
「そもそも間違ってるし…ツンデレだよ」
にやにやと口元を緩ませ、肩に体重を掛けてくる黒尾に低く舌打ちを漏らし、その腕を勢いよく払いのけた。
「……ウザい」
刺々しさを前面に出している口調に黒尾は慣れたもので、動じた風もなくのんびりと口を開いた。
「今年のマネージャーは美人揃いだな…お前は誰が好み?」
脈絡のないその問いかけに、無視を貫こうと聞こえないふりをするが完全にお見通しだったようで、晩飯大盛りにするけどいいのかなーと鼻歌交じりに呟かれ、仕方なく話に乗っかる。
どうやら今は生川と鳥野が試合を行っているようだ。スコアボードの近くとウォーミングアップゾーン近くにそれぞれ鳥野と胸元にプリントされているTシャツを着ているマネージャーらしき少女が一人ずついることが分かる。
「黒い星のゴムしてる…子かな」
周りに聞こえないよう声を潜めて言ったそれに対する返事はなく研磨は首を傾げた。
その眼差しを追うとコートを三つ挟んだ向こうでスコアを繰っている黒い星のゴムで髪の毛をサイドテールにしたマネージャーに据えられていた。
「…クロ?」
何度か呼びかけると、ようやく我に返ったのかぱちくりと瞳を瞬いた。
「…ん…ああ」
妙に歯切れが悪く、なにかを気にしているのか、そわそわと落ち着きなく視線を彷徨わせる姿。
「………ここでは話せないこと?」
黒尾はしばらく黙り込んでいたが、やがて意を決したように息を大きく吸い込んで、ちょいちょいと手招きしてきた。普段は気にしないが余裕のない表情によほど切羽詰まっているのだろうと内心で逃げることを諦めた。
「もっと寄れ」
「え、」
上体をさらに自分の方へ傾けてくる黒尾に意図がまったく掴めず、固唾を飲んで待つしかない。耳に息がかかって気色悪いと不満をぶつけようとしたが、ぼそぼそと囁かれた内容に大きく目を見開いた。
自分達の周囲に人がいないことを確かめてから再度、聞き直す。
「それ、ほんとなの」
「ああ、透けてる」
スコアボードのある位置はもう一つの昇降口近くで陽射しがきついため、試合をしているメンバーより汗を大量にかきやすいのだ。ここからだと遠く、はっきりと見えないが白いシャツの胸元あたりが見事に透けていた。本人は気づいていないのがまだ救いだがこのまま放っておくわけにもいかない。
「で、どうすんの?」
 若干の焦りを滲ませ、問うと黒尾は変な方向にあちこち飛び跳ねている髪をがりがり掻き回した。その仕草は小さい頃、大事にしていたゲームソフトのセーブデータを手違いでうっかり消してしまい拗ねた自分に謝りたいけれどどう謝ったらいいか迷っているときによく見せたそれで。
「チビちゃんと目つき悪いセッターには刺激が強いから無理だろ」
 目つきが悪いセッターという語句に誰だっけ、と記憶を辿れば五月の練習試合の時、やたら自分のことを見ていたあの日向語に言い換えれば、グオーって感じのセッターかと納得する。確かにクロの言うとおり女の子に対する接し方は合格点にはほど遠く、直球で指摘してしまう恐れがある。
「じゃあ、眼鏡かけてるひとは」
「あ、あいつが一番まともそう」
 メガネ、メガネときょろきょろ辺りを見回す黒尾は傍から見ると挙動不審だが現在の状況を鑑みると自分も同じ括りに入っていることは変えようのない事実だ。
「……でもいないよ」
「はっ!?マジかよ…」
 くそぉ、と唸る黒尾をよそ目に研磨の視線はオレンジのユニフォームを着たリベロに吸い寄せられる。未だ諦めきれていないのか背伸びをしている黒尾のジャージの裾をくいくい引っ張った。
「あれは」
「いやダメだ。ボーズとリベロは山本と同種だから望みは薄い」
「……ああ」
「主将に言えば解決するんじゃねーのか」
 たったいまその事実に気づいたのか、得心したよう頷く黒尾との遣り取りにだんだん飽きてきたので、言葉を紡ぐ。
「クロが言えばいいじゃん」
「いや、オレは無理だわ」
 軽薄そうに見えて実は思慮深く常に周りへの気配りを忘れない黒尾が赴いて、こっそり指摘すれば丸く収まるだろうと提案すれば、頬をぽりぽりかいて首を横へ振る黒尾。これでは堂々巡りだ。
「赤葦にお願いすればいいじゃん」
「赤葦に押し付けたいのはやまやまだけどな。そしたら木兎が自動的についてくる」
 当の本人がいれば、他校の後輩に面倒事押し付けないで下さいよと非難めいた言葉を投げてくるのだろうが、暑いから水道で涼を取りたい!と駄々をこねた木兎と共に外へ連れ立ってしまったため、それはかなわない。
「お前が行ってこい。身長も近いしそんな怯えねーだろ」
黒尾が放った言葉を噛み砕くのに一分を要した。
「は?」
「はやく行かねぇと、周りが気づいちまうだろうが」
 男は女性の下着をふとした拍子で見てしまうと良心より性的興味の方に傾き、あわよくば眺めていたいから敢えて注意しない生き物である。
 鳥野は今回、初めて加わったばかりだ。これが公になれば間違いなくあのマネージャーは肩身の狭い思いを合宿中、ずっと味わう羽目になるだろう。
知っていて放置していたのであれば梟谷グループのマネージャー達に顰蹙を買うことは必至だ。噂になり目立つことと、早急に伝えて誰にも悟られず穏便に済ませることの二つを天秤にかければ後者を選ぶ方が被害は少ない。
コンマ五秒で結論をはじき出し、のそのそと立ち上がる。
「………アップルパイ三週間分」
 おお、と鷹揚に頷きかけた黒尾だが三週間分というとんでもない数字に気づいて、ぎょっと目を剥きつつ研磨に向き直るがとっくに行ってしまった背中を見つめ今月の雑誌はあきらめるかと哀愁漂う様子で呟いた。すたすたと迷いのない足取りで鳥野と生川の試合が行われているコートへ赴く。歩いている途中、誰かについてきてもらえばよかったと気づくが、いちばんリアクションの薄い福永に声をかければ芋づる方式でリエーフや山本、犬岡が興味を示すだろう。
 ついてこないよう説明を一からしなければいけないと思い直し一人で行くことに決めた。
 コートでは接戦になっているようで掛け声が耳に届く。試合終了後に行くよりも多少、騒がしい方がいい。スパイクを打ち込む音やレシーブ時のシューズと床が擦れて起こる摩擦音にまぎれて会話があまり聞こえなくなるからだ。
 目当ての彼女はすぐに見つかった。驚かせないように、とスコアボードの反対側に回り込み研磨はそっと声をかける。
「…あの、」
 コートにすっかり夢中になっているとわかる横顔に、今ので気づかなかったらどうしようという不安が頭をもたげてくるが次の瞬間、ぱちっと視線が合う。
「ふ、ふぁい!」
隣から呼びかけられたことに仁花は清水先輩かなと何気なく顔を向ければそこにいたのは見事な金髪に真っ赤なズボンを履いている少年でパニックに陥りかける。
(キンパツ!真っ赤!プリン頭!)
 ふ、不良だ!なにか粗相でもしてしまったのだろうか、そうでもなければ不良に絡まれる心当たりはまったくない。ああ、コンクリートで固められて海に沈められるんだ…短い人生だった。と脳内で昇天する。
「ひい、コンクリート詰めはやめてください!腹を切ってお詫びするのでコンクリート詰めだけはぁ!!」
ぶるりと全身を震わせ涙目で訴えていると、どこからともなく控えめな笑い声が聞こえてくる。素早く見回すと笑い声の正体はあっさり分かった。
「…っ、おれはやくざじゃないから安心して」
 くっくと喉を震わせ笑みをこらえているらしく、きつめの三白眼だった双眸がきゅっと細まる様子に猫みたいだなあとぼんやり考えを巡らせた。
「うえっ!?まさかいまのきいてたりしないデスヨネ?」
 脳内のことを口に出していた覚えはないが笑っているということは間違いなく筒抜けだ。顔色を真っ赤にして両手をぶんぶん振る。
「おはずかしい限りです…」
がっくりと項垂れる仁花にプリン頭の少年が慌てたように言葉を紡ぐ。
「…笑うつもりじゃなかったんだけどつい…、」
 そう言い困ったような表情で向こう側に視線を逸らす姿に、それまで感じていた恐怖はすっかり消えてなくなっていた。
 真っ赤なジャージは確か、音駒高校だ。日向から教えてもらった情報と照らし合わせてみても合っている。その音駒の部員が自分に何の用だろう。首を傾げているとぼそっとちいさな声で呟かれる。
「その…ちょっとこっちきて」
「は、ふぁいっ!」
 敬礼の姿勢をとり、向き直ればどうしてか顔をそむけられる。もしかすると初対面での敬礼がいけなかったのか、と自己嫌悪に陥りそうになるがこれは癖なので直しようがない。
 言われたとおりに隣へ並ぶと何故か顔を耳元に近づけられる。一人パニックな仁花に気づくそぶりすら見せず、あろうことに唇を寄せられ囁かれた。
「…………てる」
「えっ?」
「下着が透けてる」
「!!!」
 あまりにも衝撃的な一言を投下され仁花はここがどこなのかを失念し、思わず悲鳴を上げかけた。その瞬間、目に見えない素早さで口がなにかに塞がれる。
 いきなりのことに思考が追いつかず歯を立ててしまった。あ、と思った時にはもう遅い。
「いてっ、」
 少年が確認するよりはやく仁花はひとさし指を握りしめた。そして涙目になりながら、抉れていないかどうか血が出ていないかどうか視線を走らせ、足元にあった救急箱を引き寄せる。
「す、座ってください」
「…えっ、うん」
 大して痛くもないし大丈夫と言おうとしたがあんまりにも必死な形相で頼まれるものだから、断りづらい。研磨はおとなしく腰を下ろした。
「すこししみるかも…です!」
 そう前置きされ消毒液を染み込ませたガーゼをやさしく当てられ、ばんそうこをくるくる巻かれた。手際のいい動きに感心しながら星のゴムがぴょこぴょこ動くのを眺めていれば、消え入りそうな声音で謝るのが耳に入って、ふるりと首を振った。
「ご、ごめんなさい!怪我させてしまって…なんとお詫びすればいいのか…!」
 ぺこぺこと頭を下げ続けるちいさなマネージャーに研磨は言葉を探そうとするがなかなか出てこず、そのかわり頭にそっと手を乗せ口を開く。
「…はっきり言わなかったおれがわるいんだし別に気にしなくていい」
「っ、でも!」
 納得がいかないのか、なおも言いつのろうとする彼女に先回りして悪戯っぽく微笑みかけた。
「じゃあ名前教えて」
「うえっ!そんなことでいいんですか」
「うん。おれは孤爪研磨…きつねにつめって書いて研究の研に磨くの磨」
 そっちは?とやわらかく促せば大きな声で「谷地仁花です!仁に花びらの花です!」と返ってきた。仁花と話し込んでいる間に試合が終わったようだ。
案の定、日向がなんでけんまがいんだ?と首を傾げるのにひらひらと手を振って誤魔化し、それまで腰に巻いていた長袖のジャージを肩に羽織らせる。
「気づかれたら困るしこれ羽織ってていいよ」
「えっ、」
 いきなりの行動に目を丸くする仁花に研磨はちいさく笑って、コートにぺこりと頭を下げそそくさと三つ離れた音駒のコートへ移動する。あとには顔を林檎のように染め上げ立ち尽くす仁花だけが残された。
 このジャージ騒ぎをめぐって山本になにしてたんだ?教えろよと詰め寄られ、なんでもないよと逃げ回る研磨と潔子を含む梟谷マネージャー達になにがあったのか教えてくれない?と笑顔で問い詰められる仁花の光景が合宿の名物になった。