name change


※I love you.シリーズver.跡部景吾の続編となっております。



「ウィーンに…?」
「うん、ウィーンに。」

卒業式の前日だ。
そんなタイミングでいきなりこんなことを告げられて、はいそうですか。とはとてもじゃないが言えなかった。
本場でちゃんと音楽の勉強をしたい。というその気持ちは流石だと思うが、急すぎて頭がついていかない。

「アイツは知ってるのか?」
「勿論最初に話したよ」

『行ってこい。それがお前のやりたいことなんだろ』と言われたらしい。アイツらしいムカつくほどに潔い返答で、自分が情けなく思えた。

「…そうか」


期限は特にないらしく、納得できる成果が得られるまで帰ってくるつもりはないらしい。語学の方もどうやらきちんと勉強しているらしく心配はいらないようだ。出発は卒業式から1週間後で、もうほとんど時間は残されていない。

「向こうでちゃんと演奏できるようになったら、報告してもいいかな?」

いつもの席に腰掛けて、話をしながら窓の外を眺めていたらそんなことを言われた。

「好きにしろ」
「じゃあ連絡するね」

顔を見なくても微笑んでいるのが分かる。

「氷帝とも明日でお別れかぁ…」

何気なく呟かれた言葉で卒業が迫っていることを改めて感じると同時にこれまでの日々も思い起こされた。
名字と出会ってからこんな時間を4年近く共有してきたのだと気付く。中等部から高等部に上がってからも音楽室での時間は消えなかった。名字がアイツと付き合い始めてからも消えることなく続いたこの時間が、明日でついに終わるらしい。

それは即ち、日常から名字が消えるということだ。俺の生活の中でこの空間、時間以外に名字は存在していない。そんな日がその内に来ることはとっくに分かっていたはずなのに、目前にした今でもまだ実感は沸かない。明後日からのその世界にどんな感情を抱くのか未だ分からない。


「跡部くんは…どうするの?」
「何がだ」

聞かなくても分かってはいるが、敢えてそう返してみる。

「…卒業後のこと、まだ聞いてないなって」

少し言いづらそうなところから、俺が今まで言ってこなかったことを気にしているのかもしれない。どうせ噂で聞くだろうと思っていたし、別に言いたくなくて言わなかったわけではない。名字が自分のことを言わなかったように、聞いてこないから俺もそうしていたにすぎない。

「今のところ氷帝の大学部に進むことになってる」
「そう…」

一度キャンセルしたこともあり、留学をどうするかまだ決めかねているらしく一先ずはそういうことになるらしい。自分の将来を人に任せているような状況に何も感じないわけではないが、これまで散々好きにしてきた分のツケだ。

「跡部くんのことだからてっきり留学でもするのかと思ってた」

何気なく言ったことなのかもしれないが、その言葉が突き刺さる。もし留学することになっていた過去のことがなかったとしても同じ感覚を覚えていただろう。

「…悪いが、1人で行ってこい。」
「残念、ちょっと期待してたんだけどな…」

思わず舌打ちが漏れた。
軽率すぎる言葉に心臓が跳ねる。分かってやっているのだとしたら相当タチが悪いことになるが、他意はないのだろう。
さすがに1人で外国に放り出されることへは自分が決めたことでも不安がある。ただそれだけのことだ。頼れるところに知り合いがいるとなれば、いくらかは心強いのだろう。それだけのことなのだ。


「今日で最後だし、跡部くんの好きな曲何でもリクエストしてよ」


鍵盤に向き合う彼女の横顔はいつもと変わらない。"今日で最後"という言葉に躊躇いも、寂しさも、悲しさも何も感じられなかった。いつも通りの凛と澄ましている柔らかいその表情でいる。


「名字が1番印象に残ってる曲なんてのはどうだ」
「1番印象に残ってる曲か…難しいなぁ…」

そう言って困ったように微笑ったが「じゃあ…」とすぐに演奏を始めた。

彼女が弾き始めた曲に息を呑む。
忘れもしない、ヴェートーベンの『月光』。音楽室に通い始めたあの日に聴いた曲だ。

初めて出会った日のことも鮮明に覚えている。
『月光』を聴いた日のことも。
アイツのことを追いかける目線も、風で髪が靡く彼女の横顔も、アイツと付き合うことになった時のことも、忘れるわけがない。残念ながら全て鮮やかな状態で記憶に刻まれているため、目を逸らしたい現実を嫌でも思い知らされる。


『月光』を弾くその凜としてそれでいて柔らかい表情の名字を視界に捉える。
彼女が見つめるのはピアノとアイツだけだ。視界に入ることしかできない俺とは違い、感情も愛情をも占領し手に入れることができる。



まだ冷たい春の風が窓から流れ込み、出会った頃より長い彼女の髪を揺らす。


思わず手を伸ばしそうになり我に返る。
今はもう、彼女の頭に手を置くことさえ難しい。


「初めて跡部くんがあの音楽室に来た時、すごく驚いて、話す時ずっと心臓がドキドキしてたんだよ。まさか、あの跡部くんと話すことがあるなんて思ってもなかった」

演奏を終え微笑って言う彼女に、そうか。とだけ返す。

「…でも、跡部くんのおかげでこの4年間楽しかったの。ありがとう」
「…そうか。」

口元が少し緩むが、それ以上に切なさに埋め尽くされた身体の中が苦しくて仕方ない。
今日初めて見せる少し切なさを含んだ微笑が心臓を締め付ける。
今日でこの時間は終わる。それが急にリアリティを帯びてくる。

「…ワーグナー」

俺の声に彼女が首を傾げる。

「最後はワーグナーで頼む」

意味を理解した彼女は微笑って「分かった」とだけ言うと目を閉じた。
鍵盤に向き合って目を閉じ、静かに息を吸いながら指を鍵盤の上に載せると、ゆっくりと息を外に出してゆく。4年間変わらないその流れを終えると懐かしい曲を奏で始めた。


『ピアノ・ソナタ 変ロ長調op1 第一楽章』


ワーグナーを最初にリクエストした時に彼女が弾いた曲だ。


些細な抵抗。
アイツしか見ていない名字の目を、意識を、俺に向けさせるために度々リクエストしてきたワーグナー。恐らく名字の中では俺はかなりのワーグナー好きになっているのだろうし、ワーグナーと言えば俺を思い出すくらいには印象に残っているだろう。
それに対して満足感を覚えるなんて、どうかしているのかもしれない。




最後の一曲の終わりが近づく。
あっという間に最後の音の響きが消える。


「やたら懐かしい曲ばかりだな」

静かな空間に声だけが響く。

「やっぱり、出会った頃のことって忘れられないし印象に残ってるのかな…」
「…そうだな」



斜陽が差し込む室内で、静かな空気が少しずつ重みを増してゆく。


「終わっちゃったね…」
「あぁ」

明日は恐らくまともに会話をすることもないだろう。




「名字、」

俯いた顔が上がり彼女の目が俺の目を捉える。

「行ってこい。お前ならできる」

いつもの席から離れ彼女の後ろに回ると、いつかの様に名字の頭に手を載せる。


「今まで最高の演奏を聴かせてくれたこと、感謝してる。俺は間違いなく名字名前のファンだ。やれるだけやってこい。」


それだけ言うとそのまま彼女を残して音楽室を後にした。


これ以上は痛みに耐えられそうになかった。抱き締めてしまいたかった。この感情を全て吐き出してしまいそうだった。

締め付けられるような痛みが、身体中を埋め尽くしてどうしようもない。


壁に凭れた背中がズルズルと落ちる。

これで全て終わった。
彼女と過ごす時間はもう二度と俺の日常になることはない。
もうあの音楽室で過ごす時間は二度とやって来ない。
彼女と俺の関係に未来はない。


滲む視界と、痛みと、苦しさと、全身が悲鳴をあげる様な感覚と、俺の全てが物語っている。







俺はずっと、
名字が好きだったのだと。







凛とした涼し気な表情も、柔らかな微笑みも、彼女の奏でる音色も、生み出す空気も、何もかもが愛おしくて大切で仕方がない。風に靡くその髪に、笑いかける頬に、何度も触れたいと思った。何度も抱き締めたいと思った。触れてしまえば、隠してきた全てが伝わってしまう気がしていたが、いっその事伝わってしまえばいいとさえ思う。

どうしようもないくらい、好きなのだと痛感させられる。




『跡部くん』



耳に残る彼女の声に思わず手を伸ばす。
何も触れることができないまま、空中を彷徨うその手の平に残る温もりを握り締める。



最後に彼女に触れられただけでも、もう十分だ。
それだけで、十分だ。





story






人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -