35.今、顔を上げて
昨夜、ライナーの記憶が戻ったと、事情を知る面々にベルトルトから連絡があった。
ルーラがその時傍にいたから気にしてあげてほしいという内容も、共に添えられていた。
マルコがそれとなくルーラの様子を窺っていること、ルーラが、ライナーが気になってほとんど眠れなかったと目を擦っていることから、ジャンは、昨晩ルーラがマルコのところに行かなかったことを察した。
それが自分のせいであろうことも。
その日、ルーラは終始ビクビクしていた。
自身で意識してか否か、全身から緊張のオーラをほとばしらせていた。
教室に入ると、ハッと顔を上げたライナーが、顔を強張らせた。
名を呼んで駆けていくルーラを尻目に、ジャンとマルコはアニを見遣った。
アニは二人の視線を受け止め、どういう意味か、首を振ってため息をついた。
「ライナー!大丈夫なの?」
ルーラは真っ青な顔で問う。
ライナーはやっとのことでルーラに目を合わせ、ギクシャクと口を動かした。
「ああ。悪かったな、迷惑かけて」
「迷惑なんて思ってないよ。でも、ほんとに平気?まだ具合悪そうだよ」
ライナーはルーラを見つめている。
同時に、『ルーラ』を見つめている。
二人の間の差に戸惑っている。
どう向き合うべきなのか、戸惑っている。
ルーラだけではない。
自分を取り巻くすべての事象に戸惑っている。
「ライナー?」
ライナーは鉛のように重い頭を現実に引き戻す。
ああ、と短く相槌を打った。
「帰った方がいいんじゃ…」
心配そうなルーラの声に、大丈夫だと返すのがやっとだった。
その後も、ライナーは体を引きずるようにして過ごしていた。
その姿は、みんなが毎日少しずつ脱ぎ捨て、見ないふりをしている負の感情――それは、苦しみや憎しみ、罪悪感…様々だ――をすべて引き受けて背負っているようにも見えた。
普段の彼とのあまりの落差に、周囲も口々に帰宅を促したが、ただ一人、アニだけが、今日は死んでも帰るなと強い口調でライナーを叱った。
今日、家に逃げ帰ってしまえば、彼の中で重要な何かが失われる。
そうなってしまえば、それはもう二度と取り戻すことができない。
アニはそう思ったのだった。
その思いは、マルコとジャンも理解できるところだった。
しかし、事情を知らないルーラはひたすら混乱した。
アニと口論のようにもなった(口論とは言っても、一方的にルーラが食ってかかる構図だったが)。
マルコがなんとかルーラを宥めたが、ルーラは、全然わからないと肩を落とした。
どうして私だけ何も知らないの?
ポツリと声が漏れる。
そう、ルーラは自分だけが事情を把握していないことに気付いていた。
昼休み、気まずい雰囲気のまま、五人は机を囲んだ。
ライナーとルーラは黙ったまま俯いてしまい、アニは頬杖をついて明後日の方向を向いている。
ジャンは何かを言いたそうにしつつも口を閉ざし、さすがのマルコも弱り切った様子で頭を掻いた。
「私、図書室行ってくるね」
ルーラは早々に昼食を切り上げて、席を立った。
自分がいるとみんなが話ができないだろうと気を遣ったのが二割、その場の空気にいたたまれなくなったのが八割だ。
残された者は、逃げるように遠ざかるルーラの背中を眺める。
「スマン…」
ライナーが呟いた。
いつもの彼からは程遠い、か細い声だった。
「謝ることなんてないよ」
マルコが励ますように笑う。
「あいつに…悪いことしたな」
「ルーラなら大丈夫。ちゃんとわかってくれる」
「あいつ…覚えてねえんだな」
「ああ」
「俺は…」
ライナーは口を噤む。
自嘲の笑みを浮かべた。
「何でだろうな…」
「なあ、ライナー。お前、余計なこと考えるんじゃねえぞ」
ジャンが腕を組んだ。
ライナーはジャンを一瞥する。
が、視線を合わせていられないのか、すぐに机を睨んだ。
しばらくして、震える両の拳を握る。
「お前ら…俺を恨んでるか」
ルーラは図書室の戸に手を掛けた。
戸はいつもよりずっと重く感じられた。
心情は時に心を持たないものにも伝染するようだった。
いや、もしくは、図書室がルーラを拒んでいるのかもしれなかった。
そう思うと、図書室に入る気も失せた。
廊下を引き返して階段を上り、屋上へ続くドアの手前の一段に腰を下ろす。
ドアには鍵が掛かっている。
もちろん危険だからだ。
いや、もしかしたら屋上もルーラを拒んでいるのかもしれない。
ルーラは膝を抱えた。
ルーラは、ライナーの様子が変なのは、自分に原因があるのだと思っていた。
ライナーの体調が急変したのは自分といた時で、自分といるライナーを見てベルトルトは「原因が分かった」と言い、自分以外の人間には事情が知らされているようで、でも自分には何も話してもらえない。
そして、ライナーの体調はどう見ても悪いのに、帰れと言わない。
それは肉体的なものが原因ではないからだろう。
自分が原因なら、何故、誰もそれを自分に言わないのだろうか。
ルーラが傷ついているのはそこだった。
ルーラはライナーに何かをしてしまった。
そのことによってライナーは体調を崩すほどに動揺している。
にもかかわらず、ルーラは自身が何をしたのかわからずにいる。
それだけで充分情けない話だ。
だが、わからないのだ、どうしても。
わかりたいのだ。
けれど、まさか本人に聞けるわけもない。
なのに、事情を知っている周りはルーラを遠巻きに見た。
躊躇いと憐みの視線。
それはアニやジャンからすら感じられた。
ルーラには、それが諦めと侮蔑に通じる反応のように思われた。
相互理解の努力を放棄されたような気がして、悲しかった。
「だから、それが余計なことだっつってんだよ」
ジャンは大げさにため息をついた。
「オレらがお前を恨んでるか?会って間もない人間を恨む理由なんてねえよ。そこまで人間腐ってるってか、オレは」
ライナーは苦笑する。
が、表情は晴れない。
それを見て取って、ジャンは再びため息をついた。
「あん時はあん時、今は今だ。これはアルミンも言ってたことだが、ありゃあ、オレたちと顔や名前が同じだけの別人だ。オレたちじゃねえ。あいつらにはあいつらの人生があって、オレたちにはオレたちの人生がある。そうだろ」
僕にはそれが本当に正しいのかわからない。
というマルコの台詞が頭を過ったが、ジャンは知らないふりをした。
「そう言ってもらえると…助かる」
ジャンは眉を寄せた。
「はぁ!?助かるって何だよ。オレは別にお前を助けようと思って言ってるんじゃねぇよ。それが事実だからそう言ってるだけだ」
「ああ…」
「んだよ、ホンットにお前らしくねえな」
ライナーは力なくため息を落とした。
長いため息だった。
それは、器に入り過ぎた水をそっと外へ流す作業に似ていた。
「正直、急すぎて、どう受け止めればいいのかわからん」
「昨日の今日だ、無理ないよ」
マルコが頷く。
「でもね、ライナー。ライナーが思ってるよりもずっと、話はシンプルなんだ」
ライナーは視線だけ上げてマルコを見た。
「これは僕たちとライナーとの問題じゃない。ライナー一人の問題だよ」
アニが僅かに反応する。
「ああ、突き放してるわけじゃないんだ。僕らはライナーやみんなと仲良くやりたいと思ってる。それは心からの気持ちだよ。多分、ライナーもわかってくれてるんだろ?」
アニはライナーの横顔をしばらく眺めて、また視線を逸らした。
「それでもライナーが納得できないのは、自分の中で整理がつかないからだ。つまりね、ライナーが自分で気持ちにケリをつけるしかないんだよ。これはライナー自身の問題なんだ。ライナーさえ手を伸ばしてくれれば、僕らの答えは決まってる」
そうだな、とジャンは相槌を打った。
「ウジウジしてぇなら勝手にすればいいけどよ、過去は変えられねーんだぜ」
面倒臭そうに鼻を鳴らす。
「それでも納得できねぇってんなら…そうだな、これから返せ」
ライナーはようやく顔を上げた。
お、とジャンはマルコに視線を移す。
マルコはにっこり笑った。
「ジャン、それはいい考えだ」
アニの顔にも小さな笑みが浮かんだ。
アニは、ジャンやマルコのライナーへの反応を通して、自身への反応を見ていたのだった。
少しばかり卑怯だとは思ったが、自分はか弱い女の子なのだから仕方がないと開き直った。
今は本当に、ただのか弱い女の子だ。
そんなバカなという輩は、実力行使で黙らせればいいのだ。
(20140506)
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