その手をつかんで | ナノ

34.剥がれ落ちていく


今日は日直だった。

授業後の黒板消しやプリントの配布は、お隣さんでペアのライナーがやってくれた。

だから、日誌は私が書いておくと言ったのだが、律義な彼は、それなら終わるまで待っていると自席に腰を下ろした。

そして、私がペンを動かすのを眺めている。

今日は木曜日で部活が休みだから、ゆっくり書き上げられそうだ。

「で、どうなんだ?」

唐突なライナーの振りに、私は顔を上げる。

「え?どうなんだって?」

「ジャンとは仲直りできたのか」

私は言葉を詰まらせた。

「えっと…た、多分…」

「多分、か」

ライナーは苦笑する。



ちょうど一週間前のあの日の翌日、やっぱり私とジャンは、端から見て明らかにわかる程ギクシャクしてしまった。

私はジン先輩のアドバイスをできる限り実行しようと努力したが、果たしてどこまで効果があったのかはわからない。

ジャンはその日、とうとう挨拶以外、口をきいてくれなかった。

その事実は想像以上に私を落胆させた。

翌日の私は、前日より臆病になっていた。

めげるな、とは言われたものの、冷たい態度を取られればやはり堪えた。

そんな私たちをマルコは当惑した様子で見守っていた。

アニをはじめとする数人の女子たちが話を聞いてくれて、男子たちは男子たちで話をしたようで、その結果、最初に介入してきたのが、ライナーだった。

ライナーは自分が間に立って、何とか私とジャンを会話させようとしてくれた。

それを見た周囲の人間もそれを真似るようになり、おかげで私たちは今ではだいぶ会話を取り戻していた。

マルコのホッとした表情が忘れられない。

マルコはなんとなく、自分に一因があることを察しているようだった。

私はこのことをマルコに相談しなかったし、ジャンもおそらくそうしなかったからだろう。



「ライナーのおかげ。ありがとね」

「いや。やりにくくてかなわんからな。お前とジャンの小競り合いが見られないと、こっちも調子が狂う」

私は思わず吹き出した。

「そんなに言い争いばっかりしてたかな」

ライナーも笑みを浮かべる。

「ああ。それがないと物足りないと思うくらいにはな」

数秒の間の後、教室に二人の笑い声が響いた。

「大丈夫だ。あいつの性格からして、ただ素直になれないだけだ。もう少し我慢してやれ」

「うん…へへ、ありがと」

「お二人さん、いい雰囲気だなぁ!」

突然、第三者が割って入ってきた。

誰かと振り返れば、クラスに一人はいるであろうお調子者A、Bだった(そう、うちのクラスにはそれが二人いるのだ)。

「二人っきりで何してるんだよ?怪しいなぁ」

ライナーと私は顔を見合わせる。

うんざり、と顔に書いてある。

多分、ライナーも同じ言葉を私の顔から読み取っている。

「お前らは知らんかもしれんがな、俺たちは今日、日直だ」

へえ、とA、Bは声を揃えた。

「だからこうして、二人で愛の日誌を綴ってるってわけか」

Aが言う。

「上手い!」

Bが笑う。

何がどう上手いのかは全くわからない。

「もう、用事がないならさっさと帰りなよ」

私は、苛立っているとアピールするために眉を顰めた。

二人は何故かわっと盛り上がる。

「クローゼ恐ぇ!」

「おっかねぇ!」

そして、掛け合いのように続ける。

「でもそう簡単には引き下がれないね」

「そうそう、引き下がれない」

「何故なら、オレたちは戦士だからだ!」

「そう、戦士だ!」

芝居がかった口調でAが問う。

「何の?」

「そう、愛の」

同じようにBが答えた。

「オレたちには重大な使命があるのだ!」

「そう!重大な使命だ!」

「迷える子羊たちの恋を成就させるのがオレたちの仕事さ!」

「そうさ!だから子羊たちよ、遠慮せず我々に身を委ね給え!」

私は長い長いため息をついた。

ここ最近で一番大きいやつだ。

一刻も早く追い払おう。

すっくと立ち上がる。

「あんたたちのせいで全然進まないでしょ!!さっさと帰って!!」

お調子者コンビは、ひとしきり騒いで満足したのか、奇声を上げながら教室を飛び出していった。

教室には、騒動の余韻と脱力感が残される。

私は疲れ切った表情でライナーを振り返った。

「まったく、小学生かっての…」

そして、ライナーを目にしてハッとした。

彼の様子がおかしかった。

目は驚愕に見開かれ、その瞳は、どこかわからない場所に一心に向けられている。

「ライナー…?」

ライナーは、突然短く唸ると、頭を抱えて机に崩れ落ちた。

肘を強打する鈍い音がしたが、痛がる余裕もないようだ。

「ライナー!?」

ここで私は、事態が尋常ではないことに気付いた。

荒い息が聞こえる。

椅子に座っていることもままならないらしく、彼は床に倒れ込んだ。

私は慌てて駆け寄り、自分の体で彼を支える。

「ライナーどうしたの!?頭痛い!?気持ち悪いの!?」

床に水滴が落ちる。

大量に汗を掻いていた。

体中の毒素が濃縮されたような、嫌な汗だ。

いつの間に、こんなにたくさん――

せ、先生を――!

私は立ち上がりかけたが、また彼が呻き声を上げたのに反応して、身体を震わせる。

このまま彼を一人にして大丈夫だろうか。

どうしていいのかわからず、大きな背中をさする。

泣きたくなってきた。

いや、でもこのままじゃまずい。

やっぱり誰かを呼んでこないと。

そう思った時、ライナーが荒い息の合間から言葉を絞り出す。

「何なんだ…これは…」

私は弾けるようにライナーに顔を近づける。

「なに?どうしたの!?」

満身創痍の状態のライナーと目が合う。

ライナーは苦しそうな顔をさらに歪めた。

「お前…『ルーラ』か…?」

「え…?」

背筋が凍った。

ライナーは何を言っているのだろう。

私のことがわからないほど意識が混濁しているということだろうか。

だとしたら先生を呼んでいる場合ではない。

救急車だ。

だが、違う、と直感が言った。

今、ライナーが呼んだのは、私ではない。

別の――

私はパニックに陥った。

ライナーの動揺が自分にも伝わってくる。

それに同調しないように必死に心を閉じようと試みる。

しかし、胸を叩く力はあまりにも乱暴だった。

私は半狂乱になって声を張り上げた。

「誰か!助けて――!!」

荒い呼吸が響く。

呻き声が漏れる。

大きな背中が揺れる。

脂汗が流れる。

床に染みができる。

ヌラヌラと濡れている。



ドアが乱暴に開いた。

駆け込んできた人影に、私は崩れ落ちそうなほど安堵する。

大きな体。

普段、気の弱そうな顔には緊張感が顕れている。

「何かあったの!?」

「フ…フーバーくん…」

フーバーくんは、床にぐったり蹲るライナーを見て、サッと表情を険しくした。

「ライナー!どうしたんだ!?」

「きゅ…急に、倒れちゃって…すごく苦しそうなの…席にも座ってられなくて、あ、汗が…」

「落ち着いて、大丈夫。ライナー?意識はしっかりしてる?」

ライナーはひどく重そうに頭を上げる。

「ああ…。頭が…割れそうだ…」

頭に手を押し付ける。

「一体…何が、どうなってるんだ…。お前…『ベルトルト』なのか…?」

フーバーくんは瞠目して、その表情のまま固まってしまった。

ライナーは、また苦しそうに呻く。

私は慌てて立ち上がった。

「あた、あたし…先生呼んでくる!」

駆け出そうとした背中に声が掛かる。

「待って!」

フーバーくんだった。

「大丈夫。先生は呼ばなくても平気だよ」

その声は、先程までと打って変わって落ち着いていた。

「で、でも…」

「大丈夫。原因がわかったんだ。あとは僕に任せて」





(20140504)


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