64.歩き出す(後日談 完)
私の鼓動はひどく穏やかだった。
一方で、胸はとても熱かった。
空を見上げると、突き抜ける青が眼前いっぱいに広がった。
そういえばいつか、遠い昔もこんな風にして空を見上げていたことがあったっけ。
あの頃の空は、今よりずっと遠かった。
小鳥たちも随分高い位置を飛んでいて、まるで、思うとおりにならないものの象徴のように感じられたものだ。
あの頃の私は、今よりずっと不自由で、今よりずっと苦しくて、今よりずっと、過酷な環境で生きていた。
視線を近くの景色に移す。
固い地面を切り取って人工的に埋められた木々が、それでも精一杯に枝葉を伸ばして、風になびく。
降り注ぐ陽の光を浴びて、一斉に揺れた。
私はベンチの背に体を預ける。
ざわざわと木々が呼吸している。
ふと、色濃い息吹の匂いがした。
木々があの頃の風を呼び、あの世界と今を繋いでいるのかもしれなかった。
微かに、あの頃の感覚が蘇ってくる。
身体の奥底で静かに煮立っているもの。
恐怖と、闘志。
それは血と共に巡る使命感と相まって、厳粛な高揚感をもたらす。
とはいえ、決して心を乱すものではない。
それは、毎日止めどなく心臓が脈打つのと同じように、身体に馴染み、自身の一部になっていた。
深々と灯る戦慄は、常に壁の外の存在を意識させた。
「いい天気だね」
滑らかに流れる声は、心地よく喉をくすぐっていく。
私は今、『どこ』にいるのだろう。
「うん。そうだね」
ただ、私が『どこ』にいようとも、ひとつ確かに言えることは、『今』、隣にはベルトルトがいるということだ。
「部活どう?」
「ハンド部?」
「空手部も、どっちも」
「空手は今度昇段審査があるよ」
「へえ、何段?」
「今は二段。三段の審査を受けるんだ」
「すごい。三段になると格段に難易度が増すんでしょ。がんばってね」
「ありがとう。ハンドはこの前試合があったよ」
「ホント?勝った?」
「うん。勝った」
「やった」
「うん」
「みんな運動神経いいもんね。あの頃から優秀だった。そういえば、ジャンもマルコもライナーも、みんな10番以内だったね」
「あ…うん」
ベルトルトは曖昧に笑った。
やっぱり反射的に罪悪感が湧くのだろう。
私は慰めるように微笑む。
「まだ会って一年も経ってないのにさ、色々あったよね」
ベルトルトは目を細める。
「うん」
「もうずいぶん長い間一緒にいるみたい。ううん、実際、いたんだよね」
ベルトルトはそっと窺うように私を見た。
私はそれに小さく笑い掛ける。
「ベルトルトが言ったこと、ずっと考えてたの。過去も含めて自分、って」
必死に過去を拒絶し、封印しようとしていた。
でも、今思えば、そんなの無理だったんだ。
だって、みんな引き寄せられるようにしてここに集まってきた。
過去を振り返れと言わんばかりに身近にいて、そして何より、ベルトルトがそこにいたのだから。
「私、ずっとベルトルトが怖かった。記憶なんてないのに、あなたはずっと優しかったのに、でも、怖かったの」
ベルトルトは黙って頷いた。
「なのに、話すとすごくドキドキした。ドキドキして、胸が熱くなった」
あの世界の私と、今の私は違う。
別人だ。
この気持ちは、過去の私の記憶が私に働きかけているだけなのかもしれない。
そうなのかもしれない。
でも、例えそうでも――
「記憶が戻ってからは、あなたが私のことをどう思ってるのかばっかり気になって、会いに来てくれないことが悲しかった。また普通に話せるようになってすごく嬉しかったし、あなたが好きだって言ってくれてからは、そのことばかり考えてた」
私たちが過去を思い出さなければならなかったのは、それが呪いだから?
そうかもしれない。
でも、それだけじゃないかもしれない。
だって、それを思い出した私たちを今、繋いでいるのは、絆だと思うから。
「ずっと、いつも、私の心を動かすのはベルトルト。私の感情の中心にいるのはベルトルトだった」
結局、そういうことだ。
そういうことなんだ。
「この気持ちがいつのものなのかはわからない。でも、ひとつ確かなのは――」
ベルトルトのつぶらな瞳がゆっくりと見開かれていく。
私の顔はくしゃくしゃに歪んでいく。
風が吹き抜ける。
草木を揺らし、過去を、今を吹き抜ける。
鳥がその風に乗って空を泳ぐ。
未来に向かって。
そう、世界はいつだって繋がっている。
ああ、長かったと、私は思う。
「私は今、ベルトルトが好きで、これから先も、ベルトルトが好きってこと」
感情が高ぶり、全身が震えた。
熱い涙が瞳を通過していく。
――好き。好き。好き。ベルトルトが好き。
あの世界で、慟哭とともに吐き出した感情――あの悲痛な叫びとは違う。
全然違う。
180度違う。
他の何にも阻害されず、自分の想いに素直に行動できる。
他の何ものも混じらない、純な想いをそのまま伝えられる。
この世界では、それができる。
それが、許される。
体を強く引かれて、視界が激しくぶれた。
次の瞬間、目の前が真っ黒になる。
そして、懐かしい匂いがした。
ベルトルトの匂い。
それは麻酔のように私の体を痺れさせていく。
背中に回された腕に力がこもる。
震えているようだった。
「ホントに…?」
絞り出された声も震えている。
私は頷く。
涙が、彼のシャツに染みていく。
「やった…」
腕に一層力がこもった。
「やった。やった!」
声が膨らみ、弾けた。
「ルーラ…ルーラ!好きだ!好きだ。好きだ。ルーラが好きだ!」
こんな彼の声を聞くのは初めてだ。
きっとこれが、彼本来の飾り気のない声なのだ。
知らなかった。
私は身じろぎして彼の拘束を緩め、彼を見上げる。
零れそうなほど大きな笑みがあった。
「私も、ベルトルトが好き」
きっとまだまだ他にも、知らないことがたくさんあるだろう。
それをこれから、知っていくのだろう。
あの世界では叶わなかったこと、あの世界ではできなかったことをたくさんしよう。
私たち、幸せになろう。
「一緒に生きて、ベルトルト。この世界で、今度はずっと一緒に――」
ベルトルトはもう一度強く抱き寄せた。
「うん。うん」
肩に水滴が落ちてきた。
ああ、彼も泣いているのだと、また涙が流れた。
私たちはしばらく、そのまま抱き合っていた。
色々なことに思いが巡る。
あの世界でベルトルトに命を救われたこと。
彼を好きになったこと。
彼の正体を疑った時の焦燥感。
それが事実だと知った時の絶望感。
同時に溢れ出してきた、どうしようもない恋慕の情。
彼と共に行くと決意した時の冷たい覚悟。
そして、私の意識はここで途切れた。
次に自我が目覚めた時、そこは平和な世界だった。
両親がいて、いつも守られていて、心穏やかに暮らしていた。
それが当たり前の世界。
そして、傍にはいつも、当たり前のようにマルコがいた。
チクリ、と胸が痛む。
記憶が戻る前も、記憶が戻ってからも、彼は私の隣にいて、いつも私を支えてくれた。
そして、私を好きだと言ってくれた。
でも、私は彼ではなくて、ベルトルトを選んだ。
気付くと、ベルトルトは私を解放していて、そっと私を覗き込んでいた。
「どうしたの?」
私は控えめに笑む。
「なんでもない」
ベルトルトはゆるりと柔和な笑みで応じる。
「ねえ、ベルトルト」
「なに?」
「私たち、幸せにならなくちゃね」
選んだ答えに責任を持つためにも。
ベルトルトは目を細めた。
「うん」
「いろんなところ、出掛けよう。遊園地に行って、映画館に行って、海に行って、山にも行こう。たくさん、いろんなことしよう」
ベルトルトは嬉しそうに笑う。
「楽しみだな」
ベルトルトの言葉に、私は笑み崩れる。
「ホントだね」
「うん」
私は今一度、空を仰いだ。
ああ、広い。
遮るものなんて、何もない。
「ベルトルト」
「うん?」
「ありがとう」
ベルトルトも空を見上げる。
「僕こそ、ありがとう」
自由の翼は、今は胸の内にある。
ベルトルトはゆっくりとベンチから立ち上がった。
そして、私を振り返り、手を伸ばす。
「そろそろ行こうか、秋祭り」
「うん」
ベルトルトが差し伸べた手を私はしっかりと握った。
――fin――
(20140927)
→あとがき
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