その手をつかんで | ナノ

61.深く望めば叶う


ベルトルトとマルコは、今しがた生徒たちがいなくなったばかりの教室の一つにいた。

人こそいなくなったものの、そこにはまだ生徒たちの喧騒の名残が色濃く漂っている。

耳を澄ませば、その残響が聞こえてくるような気がした。

夕方に移り変わる直前の強い日差しが、二人と向かい合い悠然と笑みを浮かべる人物を照らす。

エルドはおもむろに口を開いた。

「で、何だ?」

ベルトルトは小さく喉の奥を鳴らした。

マルコは姿勢を正し、顔を上げる。

「どういうつもりなのか、確かめに来たんです」

ベルトルトは無言のまま頷く。

エルドはふうんと鼻を鳴らした。

「何を?」

「ルーラのことです」

エルドは更に口端を上げる。

「それなら俺にもあるな。そっちのでかいの…フーバーだっけか?はともかくとして、お前はクローゼをどう思ってるんだ?屋上へ向かうフーバーを目の前にして、お前は引き返したな。あれはどういうことだ?」

ベルトルトは驚いてマルコを振り返った。

瞳があの時の情景を探るように揺らぐ。

マルコは淡々と応じた。

「僕はもう、伝えることは伝えましたから」

その返答にベルトルトが更に動揺する。

「ずいぶんと余裕だな」

「まさか。ただ、僕はもう待つことしか出来ないだけです」

エルドはもうひとつ鼻を鳴らす。

「まあいい。じゃあ、そっちの話を聞こうか」

エルドは二人に視線を遣った。

二人は真正面からエルドを見据える。

マルコがおもむろに口火を切った。

「ルーラをどうしたいんですか。僕はあなたに恋人がいることを知っている」

エルドはルーラがその事実を知っていることを知っている。

が、敢えて口にはしない。

「もし、ただの興味本位でルーラをからかっているなら――」

エルドは否定の言葉を述べない。

そして、肯定の言葉も述べなかった。

ただ、黙ってマルコの反応を見ている。

「僕はあなたを許さない」

言葉が途切れると、放課後の校内特有の静寂が辺りを包んだ。

気だるさと興奮と、訳もないもの懐かしさをトロトロに煮溶かして空気に流したような、飴色の静寂だった。

マルコの思慮深くて穏やかな瞳が、今は険しく顰められている。

ベルトルトの表情もきつく引き締まっていた。

三人はしばし沈黙の中に身を置く。

沈黙を楽しむかのように、エルドは笑みを浮かべている。

が、やがてそれにも飽き、笑みを貼り付けたまま問い掛けた。

「どう許さないんだ?」

マルコは普段、負の感情は出来る限り慎重に処理していたが、この時ばかりは苛立ちを隠さなかった。

相手が挑発しているということが明らかだからだ。

しかも、ルーラのことで。

マルコが怒鳴りつけるつもりで吸い込んだ息に、ベルトルトの声が被った。

「必要以上にルーラに近づかないでください!」

お、とエルドの顔に面白がるような表情が浮かぶ。

そしてそれをニヤリとした笑みに変えた。

「必要かどうかは俺の尺度でいいんだな?そして、それを受け入れるかどうかはクローゼの意志次第だ」

「今はそういう話をしてるんじゃない!」

今度はマルコが声を荒げた。

エルドは驚くこともなく、激昂することもなく、相変わらず笑みを浮かべている。

「いい顔だ」

マルコはグッと口を結ぶ。

と、エルドは台詞を読み上げるような口調で言った。

「幸せになりたかった」

マルコとベルトルトは意表を突かれて咄嗟に警戒を忘れる。

「って、言ってたな」

エルドは続けた。

「クローゼがあの世界でそう言ってたんだ」

エルドは視線を泳がせる。

遥か彼方、あの世界へ辿り着く。

「見掛けるといつも泣いてたよ。同じベンチに座ってな。友人と仲違いしたって言ってた」

ベルトルトはハッと肩を強張らせる。

エルドはその反応を見逃さなかった。

「そうか。お前がその『友人』か」

ベルトルトは視線を伏せる。

「始め聞いた時は正直おめでたい悩みだと思った。けど、ああいう環境だからこそ、それが妙にきつかったりするんだよな」

誰にも相談はできない。

どれだけくだらない内容であるかは、当人が一番意識しているから。

そして、そんなことに煩わされている自分に、一層落ち込むのだ。

「けど、最後に会った時はさっぱりした顔しててな。もう大丈夫だって笑ってたよ。なのに、いやに悲壮感が漂ってるように見えた。ポロッとクローゼが零した言葉の印象が強かったんだろうな」

マルコが問う。

「それが、『幸せになりたかった』?」

エルドは頷く。

――もしこんな世界じゃなかったら、もっと堂々と悩めたかもしれません。

――幸せってあまりに薄っぺらい言葉ですよね。まるで価値なんてないように聞こえるし、実際きっと、ない。だって、不可能と同義だから。でも私、ちょっと思ったんです。幸せになりたかったなって。

――ありがとうございます。もう大丈夫です。私、覚悟を決めたんです。だから、大丈夫です。

「大丈夫だって笑ってんのに、幸せになることはないって確信してた」

ベルトルトの顔が歪む。

「ベルトルト」

マルコはゆるゆると首を振った。

「もう十分苦しんだだろう、いいじゃないか」

マルコの言葉を汲んでか、エルドは続ける。

「クローゼだけじゃない。あの当時、あそこで戦う者は誰もがそうだった。俺はあの時、その事実を強く意識させられたんだ。幸せって言葉を思い浮かべたことすらなかったってことにもな。俺たちはあの頃、幸せを考えられるような状況になかった」

マルコは答える。

「――そう、かもしれません」

エルドはマルコに視線を合わせた。

そのままそれをベルトルトに移す。

そこには、先程までの人を食ったような笑みはもうない。

ただ、穏やかで、大人びた笑みがあった。

「あの会話は俺の中で尾を引いた。一度我に返って立ち止まれたことは、俺にとって大きかった。当時、幸せについて考えてもみた。まあ、答えが出る前に死んじまったがな。この世界で記憶が戻ってからも、時々ふと思い出したよ。で、その度に実感した。俺は今、幸せだ。そこそこ――いや、かなり幸せだってな。気になるんだよ。じゃあ、クローゼはどうだ?あいつはこの世界では幸せにやれてるのか?」

エルドは窓際に寄って外を見上げた。

「ずっと、頭の隅に引っかかっててな。だからあいつが入学してきて、部活に顔を見せた時は驚いた。それから何となく気にしてる。俺がクローゼに持ってる感情も、お前らに持ってる感情も、そういうことだ」

わかったか、と振り返って笑うエルドに、二人は自然と頭が下がった。

「はい」

三人の間の緊張感は取り払われていた。

「俺たちはいい時代に生まれた。きっと幸せになれる。あの頃は、届かなかったものだ」

二人はもう一度頷く。

「大丈夫、だな?」

「はい」

室内は薄墨色に染まりつつあった。

最後の朱が一筋の光を投げて、やがて消えていった。





(20140911)


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