その手をつかんで

56.温かな涙(完)


「私、ベルトルトに言いたいことがあるんだ。どうしても伝えたくて、いても立ってもいられなくなった。だから来たの」

今、ルーラとベルトルトの距離はたった一歩ずつしかなかった。

ルーラはベルトルトを振り仰ぎ、うららかに笑う。

ベルトルトもそれに応えるように目尻を緩めた。

日がずいぶん高くまで昇ってきた。

二人を労わるように、暖かな光が降り注ぐ。

「なに?」

ベルトルトが問うた。

特に答えを求めているわけではない。

こうしてルーラと自然に会話していることが、ただただ嬉しいのだった。

「私、決めたんだよ。ちゃんと選んだの」

ルーラは、言葉には実際に重みがあるのだと、今感じていた。

体内に溜め込んでいた積年の想いが零れ落ちていく分だけ、ルーラの体は――心は、軽くなってゆく。

記憶が戻ってから、ルーラはずっと自分を責めていた。

最期の時まで、すべき選択から逃げたままの卑怯者であったと。

でも、違った。

最期の最期、ルーラは決断したのだ。

――私は、決めた――

それを思い出した。

ベルトルトには、伝えることができなかったということも。

「でも、伝えられなかった。あなたには、届かなかった」

答えを出したのに、伝えられなかった。

その事実は、ルーラの胸をひどく締め付けた。

あの時、言えなかった。

伝えたかった。

伝えなきゃならなかったのに。

もう二度と、あの時には戻れない。

戻れないんだ。

胃がよじれるほど、感情が蠢く。

伝えたい。

伝えたいんだ。

あの時には、もう二度と戻れない。

でも――

今、ここには彼がいる。

あの時の彼ではない。

ルーラも、あの時の少女ではない。

だが、それでも、ルーラは彼に聞いてほしかった。

伝えたかった。

あの頃の二人とは違う。

けれど、でも。

聞いてほしい。

ずっと抱えてきたこの想いを。



だって、あの頃の自分たちと今の自分たちは繋がっているから。



今さら、いや、ようやく、伝えられるんだ。

ルーラは感極まった。

水位を増した感情は、やがて瞳から溢れ出す。

大粒の涙が、いくつもいくつも流れ落ちた。

ベルトルトは驚いてあたふたとルーラを窺う。

「ルーラ!?どうしたの!?」

ルーラは泣きながら笑みを浮かべる。

「あの時は届かなかった。あの頃には、もう戻れない。でも、今でも、遅くないよね」

――私は決めた。あなたと一緒に行く――

ベルトルトはうろたえながらもルーラの話に耳を傾けた。

「あの時――ウォール・ローゼの壁上で、ベルトルトは私に決断を求めたよね」

ベルトルトは顔を強張らせた。

ルーラは彼の頭に過ったであろうことを否定するために首を振る。

「違う。言ったでしょ?あなたは私を突き放さなかった。ちゃんと向き合って、私の意志を尊重しようとしてくれた。私はそれに応えたかったの。でも、できなかった」

でもそれは僕のせいだ、ベルトルトは言おうとした。

あの時、ルーラはミカサの斬撃からベルトルトを庇ってそのまま息を引き取った。

ルーラはそれをそっと遮る。

「でもね」

涙が頬を滑る。

日の光を受けて、波打つように輝く。

「聞いて、ベルトルト。私ちゃんと決めたの。言えなかったけど、でも、ちゃんと決めたんだよ。遅くなったけど――今更言っても仕方ないかもしれないけど――でも、聞いてほしいの」

嫌?

ルーラは問う。

ベルトルトは表情を和らげた。

どんな結論でも、受け入れられる気がしていた。

「ううん、聞きたい」

ルーラは破顔した。

ありがとう、そう言って涙をぬぐう。

しかし、すぐに新しい筋が頬を伝っていった。

ルーラは口を開いた。

ずっと前から知っている、見慣れた口の形。

頬の膨らみ。

目尻の皺。

ベルトルトには、ルーラの顔がダブって見えた。

「私も連れて行って。私も一緒に行く。ベルトルトと一緒に。決めたの。もう迷わない。だから――」

ベルトルトは目を一杯に見開いた。

「一緒に生きて」

ベルトルトは堪らず呻き声を漏らした。

臨界点を超えた感情に咄嗟に対応できない。

濁流と化した感情は体内で収まりきらず、堰を切って流れ出した。

震える口元に手を遣る。

その手も、震えている。

後悔しかなかった。

自身の立場を蔑ろにし、彼女を巻き込んだこと。

彼女に身を裂くような思いをさせてしまったこと。

残酷な選択を迫ったこと。

それでも、彼女は共に生きることを選んでくれた。

嬉しかった。

彼女の決断を聞いて当時の自身がどう思ったのかは、今となってはわからない。

だが、今、彼女の答えを聞いて、ベルトルトはどうしようもなく嬉しかった。

「あの世界は残酷だったけど、私、その中でもちゃんと幸せだった。あなたを好きになったこと、一度も後悔なんてしなかったよ」

更に嗚咽が激しくなった。

何も言えずにしゃくり上げるベルトルトとの距離をルーラがゆっくりと詰める。

何かの大切な儀式のように、ベルトルトの手に触れ、頬に触れた。

神聖なものを扱う、繊細な手つきで。

そして、躊躇いがちに背中に手を回す。

自分を受け入れてくれるかどうかを確かめるように、そっと。

ベルトルトがピクリと反応する。

しかし、拒否する様子がないのを感じて、ルーラは彼の胸に頭を預けた。

ルーラはしばらくベルトルトの体温を感じている。

知っている。

懐かしい、彼の体温。

彼の感触。

彼の匂い。

きっとこれは、魂の匂いなのだろう。

ルーラは彼の胸に顔を埋めたまま呟く。

直接心に語りかけるように、魂に語りかけるように。

「私たち、さ…辛かったね」

ベルトルトの魂は震えた。

固く縮こまって身体の奥深くに籠っていた魂は今、熱を帯びてほぐれてゆく。

「うん…」

やっとのことでベルトルトは頷いた。

「もう…いいよね」

「うん…」

ベルトルトも、ルーラの背中に手を回した。

そしてきつく抱きしめる。

ルーラも返すように腕に力を込めた。

二人はそうして、ずいぶん長い間泣いていた。

けれどそれはもう、今まで何度も流した悲しい涙ではなかった。

――やっと救われた。やっと、やっと――

――長かった――本当に――

がんじがらめに縛られていたしがらみから解放された、温かで希望に満ちた涙だった。





――fin――
(20140810)



≫後日談予告

「あのままくっつくかと思ったんだがな」

ライナーはポツリと漏らした。

アニはライナーをチラリと見上げて、しかしそのまま逸らす。

休み時間、二人は教室のベランダの手すりに身をもたせていた。

「本人たち同士のことを私たちがどうこう言っても仕方ないでしょ」

「それはわかっているが…」

あの日から一週間が経っていた――


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