水泡に帰す


魚になりたと思ったの。

 承太郎にそう言うと、「そうか」とだけ言って私に見向きもしなかった。
 「そうだよ」と私も承太郎にならって目の前の水槽を見た。大きな水槽。その中には沢山の魚と珊瑚が詰め込まれている。窮屈そうな世界だね、と私の目の前にきた魚に言ってみる。もちろん伝わるはずもないけれど。
 この魚のように水中を自由に泳げたら、重力の煩わしさもなくなっていいのに。空を自由に飛べないのならせめて海の中で自由に飛んでみたい。一度だけ承太郎にそう言った事があった。海は泳ぐものだろう、と夢もロマンもない正しい答えがかえってきた。
 閉館間際の平日の水族館はとても静かだった。子供がいないから特に、あの独特な声の高いはしゃぎ声を聞かなくて済む。
 ねえ、承太郎。いつまで水槽を見ているの。そろそろ立ってるのも疲れたよ。そう言いたいのに、そう言わせてくれない雰囲気があった。多分、私の気のせいだけど。それでも私は言いだせない。
 自由に泳ぐ魚が少し恨めしくて人差指でこつんと水槽をつついてみた。魚は驚いて逃げるけれど、水槽は果てしなく狭い。少し離れただけで魚たちは落ちついた。逃げ場が少ないと、何処にも行けないんだ。
 「おい」承太郎が咎めるように言う。「ごめんね」と素直に謝っておいた。でもね、やっとあなたが私を見てくれて安心したんだよ。
 いつまでも水槽ばかり見ているから、その内水槽に入って行っちゃうんじゃないかって。バカみたいな事を心配していたの。こんな事を言ったら承太郎に鼻で笑われてしまうから言わないけど。
「もう帰ろうよ」家に。何処かに。私の所に。「もう帰るのか」貴方の所に。何処かに。貴方の家に。

 帰る場所もわからないのに。

「……琴葉?」承太郎が戸惑った声を出す。私は上手く答えられそうにない。答えなんて何処にもない。
 承太郎、帰る場所がわからないのは私じゃなくて貴方なんだよ。エジプトに行ってきてからずっと、貴方は迷っている。何処にも行けないような顔をして何処かに行こうとしてる。エジプトで何があったのか言ってくれないし、言いたくないのなら聞かないけれど。
 せめて、帰る場所は私であって欲しかった。
「帰ろう」何処かへ。或いは、海の中へ。
 魚のように自由で居られたら、きっともう迷子になる事はないから。重力なんてなければ、煩わしい事全部なくなってしまうから。
 狭い水槽じゃなくて、大きな海へ帰ろう。ふたりで、ずっと。

「わたし、さかなになりたかったよ」

 ずっと、ずっと。



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