紳士だって詐欺師
カツカツ、と黒板にチョークが擦り付けられ、文字が書かれていく。
先生が説明を交えながら問題の解説をしていて、答えの合っていた私はそんな様子をぼんやりと見ていた。
チョークが黒板の桟に置かれて、先生は次の問題を解くように指示を出した。私は視線を次の問題に移した。
「じゃあ、この問題を…」
生徒が解き終わるのを見計らって先生は、誰かに解かようと、当てる人物を探す。
そうすると、
「はい」
私の前の席でまっすぐと右手が上がった。教室によく通る声は、私の耳に心地よく落ちていった。
「なら、柳生。前に出て書いてくれ」
先生の指示を聞いた柳生は片手に教科書だけを持って席を立ち上がった。そして前へ出ていく。
柳生がいなくなった私の前の席には彼の万年筆やらノートがよく見えた。ノートには何も書いていなかった。
前に視線をあげれば教科書片手にまったく止まることなくすらすらと解答を書き入れる柳生。
なるほど、答えはノートじゃなくて脳に書き込んであるわけだ。
数学のノートは提出の義務がないから、模範生の柳生が使わないのも納得できる。
カツカツ、と黒板に書かれていく解答と自分のものを見比べてみる。彼の持つ徳から来るものなのか、微妙に表現が違う。もちろん柳生の方が丁寧という意味でだ。
最後の一文字を書き終えた柳生はチョークを元の位置に置いて、席に着こうとする。
けれど、そんな柳生を先生は引き留めてこっそりと何か耳打ちした。耳打ちされた内容に柳生は一瞬驚きはするも、すぐに緩やかな笑みを浮かべて、承知しました、と先生に返した。
「今日は時間があるということなのでこの問題の解説を私がやらせていただくことになりました。
僭越ながら、私の拙い解説に耳を傾けて頂けると幸いです」
丁寧な挨拶はまるで教師のようで、私はその声を目を閉じてうっとりと聞いた。
私は柳生の声が好きだ。落ち着いていて乱れることのない低音。でも嫌味な感じはまったくしなくてむしろ心地よささえ感じられる。それは柳生の温厚で人柄から来ているものなんだろう。
でも、彼はただ優しいだけじゃない。風紀委員として校内の乱れを正す立海の模範生。紳士な振る舞いとは別に情熱的な面も持ち合わせている。ほら、今だってあんなに熱心に、楽しそうに教鞭を奮っている声が聞こえる。本当の先生みたい。柳生が先生だったらいいのに。
*
「オホン、みょうじさん?」
ぼんやりと柳生の声を反芻していた私はその張本人に話しかけられてやっと授業が終わったことに気付いた。
「…私の授業はそんなに退屈でしたか?」
「え?」
柳生に話しかけられるのも、そんなことを聞かれるのも驚きだった。
「全然。むしろすごくわかりやすかったと思うよ」
「でも、ずっと寝ていらっしゃいましたよね?」
「寝てないよ?」
「目をつぶっていたじゃないですか」
「それは…」
あなたの声を聞いてました、なんて絶対に言えない。
「すみません」
「え、なんで謝るの?」
「私がつまらない授業をしてしまったばっかりにあなたの気に入らない思いをさせてしまって」
そうだ。彼、柳生比呂士は紳士なんだ。だから律儀に謝ってくる。柳生は何も悪くないのに。
「ほ、本当に私寝てないよ?」
「ですが…」
「本当に起きてたって! あ、ほら。確かyが2x-13になるところとか。あそこは式を展開させるために2つの公式を合わせて使わなきゃいけないって言ってたよね?」
「…えぇ、確かに言いました。……、良かったです」
「うん、よかったよ。起きてたって信じてもらえて」
「それもそうなのですが、あなたに聞いて頂けなかったのなら、せっかく私が力を入れて解説をした意味がなくなってしまいますから」
「え?」
おっと口が滑りましたね。
そう言い口元を押さえた柳生はにっこりと綺麗な笑顔を顔に貼り付けた。
「発表の場で特定の誰かを意識してしまうのは中学生特有の行為なのでしょうかねぇ」
およそ中学生とは思えないその艶やかなその笑みに私は柳生比呂士の新たな一面を見た気がした。
そしてだんだんと言葉の意味を理解して頬はぽってりと熱を帯びていく。
「…本当に柳生なの?」
私は今の柳生が彼のダブルスパートナー仁王なのではないかと疑ってしまう。
「えぇもちろん。仁王くんなどではありませんよ。――それとも詐欺師をご所望ですか?」
艶麗な彼の微笑は今までの彼のイメージを大きく覆すものだけれど、私はそんな彼のことが気になりだしていることに、そしてそれがもうすぐ恋になることになんとなく気付いていた。
「紳士さんの方が私は好きだよ」
だから私も今の精一杯の気持ちを伝えてみた。そうすれば柳生は心の底から嬉しそうに顔を綻ばせた。
―――――
20120607
20120617.修正
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