長年連れ添った彼女に、自分の故郷で一緒に住んでほしいと言われた。
医師免許を持っていた俺は、彼女の故郷だという羽生蛇村という場所の医師として雇われ・・・彼女と共にその故郷で暮らすこととなった。
お互いに故郷での生活でなれたら、故郷の教会で婚礼を上げよう。そう約束をして、今日まで過ごしてきた。
けれど・・・彼女の故郷での生活は、俺にとって良い物ではなかった。
彼女の故郷は外部とのつながりがあまりない村で、そういう村というものは、どうにも余所者を嫌うらしい。
早く周囲の人間と打ち解けようと努力をしても、あちらはそれを良しとしない。
ひそひそと囁かれる俺の噂。
常に気になる他人の視線。
日に日に疑心暗鬼になっていく自分。
このままでは自分が可笑しくなってしまうのが容易に想像できた。
彼女に相談しようにも、彼女はこの村を愛していたし、今更この村から出ていきたいとも言えなかった。
我慢しよう。
これから妻となる彼女の愛する村だ。俺も精一杯、此処が愛せるようになろう。
その頃はまるで聖人君子のような考えで、耐えていた。
だが・・・
俺の限界は、婚礼がすぐに迫った時に来た。
「――本気なのか」
村に構えた、俺と彼女の家。
その家からは彼女のご両親の家も近く、俺が病院の仕事でいない間はよくご両親が家にやってきていたことは知っていた。
ただいま、と声を上げながら家に入っても、何時もは笑顔で迎え入れてくれる彼女はやってこない。
その代り、部屋の奥から何かを話す声がした。
それが義父と義母の声だと気づくのはすぐだった。
何の話だろうと思いつつ、彼等の声がする部屋の襖の前まで来た。
「あんな、村の仕来りも何も知らない男と結婚しても良いことなんてない」
襖に伸ばした手がぴたりと止まる。
「そうよ。余所の人なんかと結婚しないで、村にも良い人はいるでしょう?」
「中谷さんのところの息子さんと、見合いの話が来ているんだ。婚礼はまだなんだから、一度そっちと会ってみたらどうだ」
「とっても良い人なのよ。あの余所の人とは大違い」
ドクンドクンッと、心臓の鼓動が激しくなる。
彼女のご両親に良く思われていないのは知っていた。
彼女のご両親はあくまで俺を『余所者』と称していることだって、知っていた。
だが、まさか婚礼も後少しだという今になって、そんな話を持ってくるなんて・・・
「ちょっと母さん・・・名前さんだって良い人よ」
彼女の反論の声に、一瞬だけ俺の心が落ち着きかけた。だが――
「あら。けど貴女、この間愚痴ってたじゃない。あの人は全然村になじんでくれない。あの人は昔から協調性がないから、きっとそのせいだって」
その言葉にずきりと痛みが走った。
「医者だという部分ぐらいしか、あの人が自慢できるところもないでしょう?何を考えてるのかわからないし、やっぱりやめておきなさい」
「確かに何を考えてるのかわからない時もあるけど――」
何だか頭がぼんやりとしてきていた。
頭の中で甦るのは、この村での日々。
辛くて、楽しいことなんてほんの僅かしかなかった日々。
村に馴染めなくて悩んでいる俺に、彼女は何時も『大丈夫よ。きっとすぐ仲良くなれるわ』と慰めてくれた。
俺のせいじゃないのだと、一緒に頑張ろうなどと・・・そう言っていたはずなのに。
俺がいない間には、そんな風に言っていたのか。
本心では、全て俺が不甲斐無いからだと、そう思っていたのか。
「・・・・・・」
スパンッと、目の前の襖を開けた。
中にいた三人が、驚愕の目で俺を見る。
俺はそんな三人を無視しながら、その部屋にあった俺名義の通帳と判子を手にし、歩き出す。
「ちょ、ちょっと!ど、何処行くの?」
「出ていく。荷物は引っ越し業者をよこすから、そのままにしておいてくれ」
「ま、待ってよ!どうしてそうなるの!?」
焦った彼女の声を無視して、俺は玄関へと歩いていく。
帰ってくれば彼女は温かく迎えてくれる。
帰ってくれば彼女が俺を慰めてくれる。
けれどそれは全て幻想だった。
「俺はどう頑張ってもこの村になじめそうもない。君のご両親も、俺と君の結婚には反対しているし・・・君だって、俺との結婚、決めかねているんだろう?」
「・・・・・・」
何も反論しない、か。
それじゃぁ仕方ない。
俺は靴を履き直し、外に出ようとする。
「まっ、待ってよ名前」
そう言って俺の服の裾を掴もうとした彼女の手を振り払う。
呆然とする彼女に、俺はくしゃっと顔を歪めた。
「余所者扱いはもう沢山なんだ」
今の俺は、きっと酷く失望した顔をしているだろう。
俺の唯一の味方であったはずの彼女は、やはり他の村人と同じだったのだから。
俺は呆然とする彼女を置き去りに、もう真っ暗な道を歩き始めた。
・・・と言っても、羽生蛇村から出て、次の街にたどり着くまでどれぐらいかかるだろうか。
バスだって、きっと朝にならなければ来ない。
ともなれば、何処かで朝を待つしかない。
空腹で、本当なら泣きたいぐらいで・・・
「・・・あぁ、馬鹿みたいだ・・・」
今思えば、俺は彼女に依存していただけで、愛していたわけではなかったのだろう。
一緒に村に来てほしいと切に願った彼女。
長年恋人同士で、どうにも情のようなものが湧いていた俺。
村で独りぼっちになった俺は、彼女しかいなかった。彼女に依存するしかなかった。
それはけして愛ではなかったのだ。悲しいことに。
「・・・少し肌寒いな」
夜風は俺を責めたてるように冷たく吹き荒れる。
「・・・ぁ」
気付けば、病院に戻ってきていた。
宮田医院という文字が掲げられたその病院の入口の前に立っていた俺は、何だかどうしようもない気持ちになった。
仕事中は良い。仕事に集中していれば、現実を忘れられるのだから。
「・・・村を出るなら、まずは宮田先生に言わないとな・・・迷惑かけちゃうし」
「――村を出る?」
背後から聞こえた声にビクリッとして振り返ると、暗がりで表情こそよく見えないが、自分が世話になっているこの宮田医院の院長である先生がいた。
「ぇ、ぁ・・・まだいらしたんですか、宮田先生」
「・・・今日までに終わらせておきたい仕事があったので。先ほど上がったところです」
「そうですか。それは・・・お疲れ様です」
宮田先生は良い人だと思う。
俺を雇ってくれただけではない。
この人は、俺を余所者だからとか、そういう扱いはしなかった。
ただ一人の医師として、医師としての扱いをしてくれた。
この医院で・・・宮田先生の傍で働くことは、そう悪い気はしなかった。
「・・・この村を出る、ということは」
「ぇ?ぁあ・・・えぇ。お世話になった癖に薄情かもしれませんが、此処を辞めて、都会に戻ろうかと」
「・・・・・・」
気まずい沈黙。
まだ目が生れていなくて、宮田先生の表情はよく見えないが、笑っていないのは確実だ。
「彼女に・・・あぁ、その・・・婚礼間近の彼女がいたんです」
「知っています。確か小林さんのところの一人娘でしたね」
「はい・・・その彼女のこと、俺は精一杯愛していると思っていました」
「過去形ですね」
「はい。けど・・・この閉鎖された村で、俺は彼女に依存していただけだった。確かに昔は愛していたのに・・・何時の間にかただただ依存していて・・・」
泣きたい気分になった。
何のために、俺は彼女と共にこの村に来たのだろう。
愛していたはずの彼女は本当は俺の味方なんかじゃなくて・・・
結局俺は“独りぼっち”
「・・・・・・」
「誰でも良かった、と言ってしまえばそれまでなんです。誰でも良いから、俺の味方で・・・俺の傍にいてくれる・・・そんな人が欲しかった」
口にしてみれば、自分の愚かしさがわかってくる。
「自己中心的で我が儘な考えだとわかっています。だから・・・誰にも迷惑をかけないように、俺はこの村を出て――」
ガッと・・・腕が力強く掴まれた。
「み、宮田・・・先生?」
「・・・依存する相手がいれば、良いんですか?」
「え?」
「その相手は――俺じゃ駄目ですか?」
夜目が利いてきて、次第に宮田先生の表情が見えてきて・・・驚いた。
宮田先生は・・・
「何で・・・そんなに、辛そうな顔を?」
「・・・・・・」
酷く辛そうな顔で俺の腕を掴んでいる先生を見ていると、何だか傍にいなければならないと思ってしまう。
何故だかこの人を置いて行ってはいけないような、そんな気が・・・
「宮田先生・・・」
捕まれた腕が痛い。
相当強く握られているのだろう。
「宮田先生・・・俺は、余所者なんです。此処じゃ、俺は必要とされていない」
「・・・必要じゃない?馬鹿な・・・」
彼が顔を歪めた。
握られたままの腕を引っ張られ、気付けば宮田先生がすぐそばにいた。
じっと見つめられる。
その顔が、次第に泣き出しそうな顔に歪んでいくのがわかった。
その彼の目の中に映る俺の顔も、泣き出しそうだった。
「俺をっ、置いて行かないで・・・名前」
その言葉は・・・
彼女の『待ってよ名前』という言葉よりも、確実に俺の中に響き渡って・・・
「何で・・・俺を、引き留めるんです?宮田先生」
「貴方は知らない・・・俺は、この村であまり良い印象を持たれていないことを」
「そんな・・・貴方はこの村の大事な医者だ。それに、貴方は優しい良い人だし・・・」
とんっと・・・宮田先生の頭が、俺の胸に押し付けられた。
少しだけ震えているその肩に、つい手を添えてしまう。
「そう思うのは貴方だけだ」
「そんなわけ・・・」
「だから嬉しかった」
顔を上げた宮田先生。顔が近い。
「先生・・・」
ほんの少し宮田先生が笑っていることに気付き、驚いた。
宮田先生は良い人だけど、あまり表情を表に出す人ではなかったから。
「貴方は俺を差別しない。貴方は俺自身を見てくれる。それが嬉しかった」
「・・・・・・」
「俺は貴方に依存している。それに、貴方のことを・・・」
最後まで言わずとも、言いたいことはわかってしまった。
「彼女と別れ、この村に居場所がないというなら・・・どうか、俺の所に来てくれっ・・・そうじゃないと、俺は・・・」
「宮田先生・・・俺は、余所者です。宮田先生に、迷惑がかかる」
「余所者?そんなの・・・俺は一度たりとも気にしたことはありません」
先生が酷く泣きそうな顔で俺を見てくるから・・・
いや、それは言い訳か。
俺は俺を酷く欲してくれる先生に惹かれ、こくりと了承の意を示すようにうなずいていた。
彼女はきっと驚くだろう。
自分と別れれば村から出て行くだろうと思っていた男が、その後もいるのだから。
「荷物・・・先生の家に移しても良いですか?」
「部屋なら余っている。だから・・・」
ぎゅぅっと握られた腕をちらりと見て、俺は小さく笑った。
「・・・じゃぁ、御言葉に甘えて」
その後しばらく、宮田先生は俺の腕を離したがらなくて・・・
そのまま二人、暗い夜道をまるで手でもつなぐように歩いて行った。
余所者の依存性