――神の遣いは地に落ちた。
『もう罪は、遠の昔に許されたのですよ』
罪に塗れた人間は神の遣いの言葉を信じず、神の遣いを地下深くへと閉じ込めてしまいました。
神の遣いは悲しげな顔でずっとそこに居ます。
ただただ言うのです。
『もう罪は許されたのですよ』
早く気づいてください。
神の遣いは寂しげに苦しげに・・・
人間に自らの声が届くのを待っているのです。
「・・・・・・」
宮田医院には地下室が存在する。
それは、村の闇の部分。
けれどその地下の更に奥底に“ソレ”は存在した。
まだ幼い頃だった。
母親に恐怖し、何処か遠くへ逃げたいと思った俺の耳に、一つの声が聞こえた。
『もう罪は許されたのですよ』
その言葉は耳に直接響くようなものだった。
けれど俺は、それが何処から聞こえたのかが、ぼんやりとわかった。
当時は健在だった父親使う地下への通路。それを使って、夜中にこっそり地下へと忍び込んだ俺は、その地下には更に奥があると知った。
戸惑いながらもパジャマのまま下へと降りていく俺は、今からすればどれだけ浅はかだったことか・・・
けれどそのおかげで“彼”に出会うことが出来たんだ。
「・・・誰?」
『・・・・・・』
地下の更に地下。
薄暗いその場所に、壁から伸びた鎖に両手首を拘束された若い男がそこにいた。
薄汚れたコンクリートの床に付くか付かないかの状態で吊り下げられた彼は、俺の声に反応してゆっくりと顔を上げた。
・・・その時俺は確かに、自分の中の何かに熱が灯るのを感じた。
牢屋の向こう側の彼は俺を見るとふわりとほほ笑んだ。
まるで俺が此処に来ることを知っていたような素振りに、戸惑いつつも高揚を感じた。
鉄格子を両手で掴んで「ねぇ、誰なの」と問いかけた。
『私は神の遣いです。人に伝えに来たのです』
優しい微笑み。
それが自分に向けられていることが奇跡にも近いぐらいの驚きで、その微笑みに見入っていた。
子供ながらに相手は“美しいもの”だと理解できたし、何よりその声は俺の心を酷く落ち着かせた。
「何を?」
『もう罪は許されました。よもや生贄などいらないのです』
子供の俺には罪なんて何の事だかわからなかった。
「じゃぁ何で此処にいるの?」
『人は私の言葉を聞き入れず、私を此処に閉じ込めてしまったのです』
「何時から?」
『さぁ・・・およそ、100年は昔でしょうか』
「100歳には見えない」
『私は人ではないからでしょう。歳の取り方を知らないのです』
俺の質問に全て丁寧に穏やかな口調で答えてくれる彼に、俺はもう虜になっていた。
この鉄格子の向こうに居る彼に触れたい。
近くに歩み寄れば、きっともっと優しくしてくれるはずだと・・・その時の俺は信じて疑わなかった。
「ねぇ。どうやったら此処から出してあげられる?鍵は・・・お父様が持ってる?」
父が持っているのであれば、それを盗るのはきっと何より難しいことだと思った。
けれど彼は言ったんだ。
『時が来れば出られますよ』
「それまでは出られないの?」
『えぇ。そうですね』
「そうなんだ・・・」
じゃぁ触れてはもらえないのか。
そう落胆する俺に、彼は優しく微笑んで『けど・・・』と口を開く。
『100年以上も独りぼっちで、話し相手が欲しかったんです。君がなってくれますか?』
必要とされたことが嬉しくて・・・
“俺”を求めてくれることが嬉しくて・・・
「うん!」
幼い俺は躊躇なく頷いた。
それからだ。彼と、真夜中に会って話すようになったのは。
――・・・
カツンッ、カツンッ・・・
靴が薄暗い地下室に足音を立てる。
「こんばんは・・・名前さん」
『こんばんは、司郎』
名前というのはある日俺が付けた名前だった。
俺だけしか知らない、俺だけが呼ぶことを許された名前。
宮田医院の院長となった今でも、誰にも知られずに、此処に来ていた。
『血の臭いがしますね、司郎』
「・・・・・・」
ぴくりと反応する。
あぁ、やはり彼にはお見通しだったか・・・
「人を一人殺しました。いえ・・・それよりも、ずっと前から殺してます」
それが宮田になった俺の定めだから。
「貴方は、俺を軽蔑しますか」
『私は君を軽蔑したりなんかしませんよ。だから、そんなに悲しい目をしないで』
「・・・・・・」
穏やかに微笑む彼は、本当に神の遣いなのだと思う。
あの日彼を見つけた時と、彼の姿はまったく変わってはいなかった。
「・・・まだ時は来ないんですか・・・?」
『もう少し。もう少しですよ。けれど・・・本当なら、私は儀式を止めなければならないのです。けれど私は動けない。もう、歯車は回っているのです』
寂しげに微笑んだ彼に触れたくて、鉄格子の隙間に腕を差し込み、手を伸ばした。
「では、もう少しで貴方に触れられますか?」
彼が少しだけ動くのに合わせて、彼を捕える鎖が音を立てる。
『えぇ・・・きっと』
その言葉を信じ、俺は小さく微笑んだ。
「信じてます。貴方だけは・・・」
そう言い残し、俺はさっき殺した女――美奈を埋めに行くために、地下室を後にした。
――・・・
「・・・・・・」
美奈を埋めた直後、村に異変が起こった。
儀式は失敗したのだろう。
俺はすぐに病院に向かった。
名前さん名前さん名前さん・・・
「名前、さん・・・」
『・・・司郎』
名前さんは、牢屋から出てきていた。
両手首に付いていたはずの鎖は外れ、彼を閉じ込めていた牢屋の扉は最初から鍵がかかっていなかったかのように開いていた。
彼は小さな微笑みを浮かべながら『時が来ました』と言った。
そんなことはどうでも良い。
あぁ、名前さん早く俺に触れてくれ。
こんなに舞ったんだ。早く早く――
『私が天に帰る時が来ました』
・・・え?
『異界は廻る。次の世界では人々に罪が洗われたことを伝えられるよう、私は天に帰るのです』
か、ぇる・・・?
誰が?何処に?
『司郎。しばしのお別れです。次の世界で会いましょう』
「・・・――だ」
『司郎――』
「 嫌 だ 」
気付けば俺は手に持っていたネイルハンマーで名前さんの頭を殴っていた。
あぁ、鮮血が飛ぶ。
頬に着いた名前さんの血に、俺は口元に笑みが広がるのを感じた。
初めて触れた彼の身体はしなやかで美しく・・・
血を流しながら何処か悲しげな眼で俺を見つめる彼に深く口付けた。
『司郎・・・』
「貴方を何処へも行かせない・・・」
俺はそう呟き、彼を元いた牢屋の中へと運ぶ。
そして、俺が初めて見た時のように、彼を鎖に繋ぎ・・・
「もう、何処にも行かせませんよ・・・名前さん」
最後に、牢屋の扉をガシャンッと閉じた。
神の遣いは囚われた
『・・・・・・』
宮田司郎によって牢屋に再び閉じ込められた神の遣いはその口元に寂しげな笑みを浮かべて、言いました。
『・・・“また”君は私を閉じ込めるのですね』
神の遣いは、何十回何百回とも受け続けた感覚を思い出し、
『・・・次の世界では、どうか人の罪を洗い流せますように――』
そういって目を閉じた。