「ナマエ」
真っ白な部屋。
その部屋にたった一つだけある扉から中に入ったウェスカーは、部屋の隅で丸くなっていたソレの名を呼んだ。
塊はウェスカーの声にぴくりと反応すると、ばっ!と勢いよく顔を上げた。
「パパ!」
嬉しそうな声と共にソレがウェスカーに飛びつく。
自分よりも小さなソレを難なく受け止め、腹のあたりにある頭に手を置いた。
「パパ、パパ!パーパ!」
「騒がしいぞナマエ。静かにしろ」
嬉しそうな声を上げていたソレはその言葉にぴたっと声を止める。けれどその顔には押し殺せない程の笑みがあった。
愛嬌のある笑みを浮かべウェスカーの腹に顔をぐりぐりと押し付けるソレは見た目こそただの小さな子供であるが、実際はただの小さな子供とは異なる。
研究員たちはソレを『実験動物』と呼ぶ。
実験動物の名はナマエ。彼を作り上げた研究員が名付けた。
彼に親はいない。女の腹から生まれたのではなく、培養液の中から生まれた。
その培養液には複数のウイルスが混在しており、ナマエと同じように培養液の中にいた実験動物たちはたちまち異形と化して死んだ。たった一匹、ナマエは成功例として生き残ったのだ。
知能はそこまで高くはない。身体能力は高く、身体の小ささから小回りが利く。ウイルスの影響からか、時折身体の一部が“変異”するが、それは時間を置けば元に戻る程度の問題だった。
ナマエという成功例を元に、元々身体にウイルスを持つ生き物の培養を目指す研究員は、定期的にナマエの健康チェックや新薬の投与を行っていた。
出会いはその頃。
「パパ!」
検査の為に車椅子で運ばれていたナマエは、偶然にもその場を通りかかったウェスカーを見て言ったのだ。
自分を見て突然「パパ」などと呼んだナマエに、当然ウェスカーは脚を止めた。
そして気まぐれに数歩だけ近づいてみれば、車椅子から立ち上がり、ふらふらしながらもしっかりとした足取りで自分に近付き・・・ぎゅっとしがみ付いて来たのだ。
研究員たちが慌てた様子でナマエをしかりつけたりウェスカーに頭を下げたりするのにも目もくれず、ウェスカーはナマエの首根っこを掴んで持ち上げた。
近付いた顔には、にっこりとした笑み。満面の笑み。
「パパー!」
ぎゅっとナマエの腕がウェスカーの首へと絡みつく。体温は健康な子供よりは随分低いが、それでもじんわりと温かかった。
その日はそれでおしまい。ウェスカーはナマエを少し乱暴に研究員へと押し付け、何事も無かったように去って行った。
ナマエの事は、当然ウェスカーも知っていた。常人では生きられないような量のウイルスを抱えながらも、何の問題も無く成長している異端児として。
けれども凶暴性が足りない。従順なのは結構だが、使えない道具にはあまり興味がなかった。なかったのだが、ナマエの方は違った。
初めての邂逅以来、自分を作り上げた研究員よりも自分に食事を持ってくる研究員よりも、ウェスカーに懐いてしまった。
研究員の誰かが目の前に来る度に、ナマエは言うのだ。
『パパ、パパ・・・?』
パパは何処?パパは来ないの?と言っているようなナマエに、研究員は困った。何がどうしてウェスカーをパパと呼んでいるのかは知らないが、今まで何の我が儘も言わなかったナマエがパパを繰り返すばかりになってしまった。
これでは正確なデータを取れないと判断した研究員は、ウェスカーにナマエにもう一度だけでもあってはくれないかとお願いをした。いや、お願いというよりはもはや懇願だった。研究を失敗させないためにも、どうか協力して欲しいという、懇願だった。ウェスカーはそれを気まぐれに了承した。
そうして出来上がった二度目の対面。今度は二人きりだった。
ナマエは「パパぁ!」と歓声を上げ、ウェスカーへと抱きつく。
鬱陶しく思って突き飛ばしてみても、再び笑顔で飛びついてくる。
ものは試しにと手持ちの銃を向けてみても同様の反応。危機感が無いのではなく、ウェスカーに対し絶対の信頼を置いていた。
それからも幾度となくウェスカーの気まぐれは続く。
そうして分かったのは、ナマエはウェスカーに対し何処までも従順であるということだ。
別にそう言うプログラムが埋め込まれているわけでもなく、ただウェスカーに従順だった。
出会いから変わらず、自分に抱きついてくるナマエをウェスカーは抱き上げる。
一気に近くなった距離にナマエは嬉しそうに笑い、ウェスカーの首に腕を回した。
「パパぁー」
「パパじゃないと何時になれば理解するんだ、お前は」
そう言いつつも、ウェスカーは別段それを不快には思っていない。呼びたいように呼ばせれば良いのだ。
しばらくナマエの好きなようにさせ、ウェスカーは「もう帰るぞ」と背を向ける。
何時も長居はしない。
「パパー」
背後から少しだけトーンの下がった声と、くいっと引かれた服。
振り返れば、ナマエがウェスカーの服の裾を掴んでいた。
顔はにこにこ笑ってはいるが、ウェスカーが行ってしまうのを残念に思っているのはその声のトーンと行動から丸分かりだ。
「ナマエ、俺の傍にいたいか」
こくこくとナマエが頷く。それを見て、ウェスカーは嗤う。
「じゃぁ、――」
ウェスカーの言葉をナマエはにこにこと笑みを浮かべながら聞いている。否、ナマエはウェスカーの前に居る時は決まって笑顔なのだ。まるでウェスカーが傍にいるだけで幸せとでも言うように、混じり気の無い純粋な笑みを浮かべるのだ。
「わかったか?」
こくこくとナマエが勢いよく頷いた。
ウェスカーはそんなナマエの頭を一撫ですると、そのまま部屋を去って行った。
それからしばらく。
ウェスカーは再びナマエのいる部屋の前に来ていた。
そして何の躊躇もなくその扉を開けた。
――惨状はそこにあった。
真っ白だった部屋は真っ赤に染まり、その部屋の中央に居たナマエはウェスカーの姿を捉えるとにっこりと笑った。その顔にも赤がある。
「パパぁ!」
たたたっと走るナマエ。素足が赤――血だまりを踏み、ぴしゃっと血が舞う。その直後に踏みつけたのは自分を作った研究員や自分に食事を持ってきてくれていた研究員。どの研究員も、他の研究員と比べればナマエに愛着を持って接していた。ナマエもそれに多少なりと懐いていた・・・筈だった。
「あぁ、本当にやったのか」
「パパ?」
「・・・まずはシャワーだな。付いて来い」
前を歩くウェスカーにナマエは笑顔で付いていく。中の惨状には最初から興味などなかったかのように、すんなりと。
「何故お前は、そんなにも俺に懐くんだろうな」
「パパぁー」
「・・・ふっ、まぁ良い。ちゃんと付いて来るんだぞ」
満面の笑みを浮かべるナマエをちらりと見た後、ウェスカーは歩調は早めた。
ナマエはそれを、にこにこ笑いながら付いて行った。
付いておいでひよこちゃん
あとがき
本当は、そんなひよこちゃんがウェスカーの右腕になって「パパぁー!」って言いながら頑張ってる話にしたかったけど、道のりが長すぎて挫折。←
最初はペットとか道具扱いだったけど、地味に絆されていくウェスカーパパ。←