めじるしになればいい
海上は大雨で、潜水艦であるこの船は海深くへと潜っていた。
普段は甲板で絵を描いている○○も、今日は甲板にはいない。部屋の中。
○○に与えた部屋は与えてすぐにもう絵の具のにおいで溢れかえった。
アクリルだか油だからからない臭いで一杯のその部屋は、実はそこまで嫌いじゃない。
そこらかしこに絵の具が散って、散らかっているようにも見えるが・・・
実はその散った絵の具でさえ、○○の作品なのだから。
「・・・相変わらずだな」
○○は基本部屋に鍵をかけない。
開けっ放しの部屋の中は、すでに散らかっていて、嫌がらせで荒らされることはまずないだろう。
俺はその部屋に何の戸惑いもなく足を踏み入れた。
ペタリッと、○○が油絵具をキャンバスに塗りつけているのを見る。
甲板の上だろうが室内だろうが、何も変わらない。
きっと○○なら、牢獄の中でも絵を描き続けるだろう。
キャンバスがないなら地面に。絵の具がないなら己の血で。
○○の目に映る世界が汚い程に、キャンバスの中の世界は美しい。
命の恵みとばかりに草花に降り注ぐ雨粒の絵を描く○○は、雨も嫌いなのだろう。
甲板でも室内でも変わらず、○○は振り返らない。
○○はあまり食事を取らない。
見かねたコックが部屋の前に置いた料理が時折少しだけ食べられているのを見て、ひとまずは安心しているが・・・
「何よりも絵を優先するんだな」
他人よりも自分よりも、キャンバスの世界を優先する。
ちらりと見えたのは○○の手元。
パレットの上には色とりどりの絵の具が出されていて、なかでも目立ったのは真っ赤な絵の具だった。
不意に俺はその絵の具に指を伸ばす。
○○が全く反応しないのを良いことに、俺は人差し指で掬った赤い絵の具。
それをしばらく見つめてから、部屋の壁にツゥッと線を引くように絵の具を付けた。
完璧な色合いで散らかっていたこの部屋が、俺の投入した“赤”によってそのバランスを一気に崩す。
○○は怒るだろうか。いや、きっと無視するだろう。
けれど今はそれで満足だ。
○○のテリトリーに俺を刻んだ。
俺が印をつけたんだ。
餓鬼みたいな考えかもしれないが、それでも良い。
「これが、お前への俺の目印だ」
だからどうか・・・
早く俺をその視界の中で見つけてくれ。
今日も俺どころかキャンバス以外の何もみない○○の耳に、俺の声の少しでも届いていれば良いのに。
めじるしになればいい
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