小さい頃、頭をぶつけた。
年上の女性に突き飛ばされた。
年上の女性――父の再婚相手の女性に突き飛ばされて倒れ込んだ先は、コンクリートの硬い地面だった。
ゴンッだったか、ゴシャッだったかは覚えてない。ただ、突き飛ばされたことは覚えてる。
父の再婚相手は俺の事がそこそこ嫌いだった。
俺は父親似じゃなくて母親似だったから、俺を目の前にすると嫌でも前妻の面影を見てしまったのだろう。
突き飛ばしたのは突発的。悪気はなかった。
泣きじゃくって父に謝る再婚相手の女性。もちろん、俺には一度たりとも謝ってはこなかった。
病院では異常なしと言われたが、あれから大分経った今では明らかに“異常あり”だとわかる。
俺は――痛覚が他の誰より劣ってしまっていた。
あの日から、怪我をしてもそれがあまり痛いと感じなかった。
もちろん多少は痛いのだが、その痛みが苦痛だと思うことはなかった。
だからだろうか・・・
「・・・ぅ、ん?」
目の前のクラスメイトに刺されたって、大した反応が出来なかった。
クラスメイトの手にある包丁が、俺の腹に深く深く刺さっている。
俺の腹から出た血で手を汚しながらも更に深く傷つけようとするクラスメイトの名は確か・・・
「ぁ、らい?」
そう、荒井だ。荒井昭二。あまり喋ったことはないけれど、確かにクラスメイトだったと記憶している。
そもそもこの荒井が俺に用事があると言うから、こうやって放課後の薄暗くて不気味な学校に居残っていたのだ。
それがどうだ?
あれよあれよと知らぬ生徒に囲まれ、殺されたくなければ逃げろと言われ・・・
意味もわからず逃げていたら、荒井に出会った。
あぁこんなところに居たんですねと笑う荒井に、やっぱり性質の悪い冗談かと安心しかけたあたりで・・・刺された。
何の迷いも感じられない一撃。
俺、荒井に何かしただろうか。
理由なんてわからないが、きっと大したことじゃないんだろうなぁと何となく思った。
「ひひっ・・・痛いですか?痛いですよね?叫んでも良いんですよ?」
興奮しきったような荒井の顔を割と冷静に眺める。
腹を刺されたから、腹からも口からも血が流れ出てくる。
口の中が血の味でいっぱいになって、何だか不快だ。
ぐちゃぐちゃと音を立てている腹。荒井が包丁を捻ったりしているせいだ。
「どうしたんですか?痛くないんですか?」
あまりに俺が無反応だったからか、荒井が不審そうな顔をする。
痛くも無いのに叫ぶことは出来ない。演技力なんて、俺にはない。
荒井は首をかしげながら包丁をもう一度突き立ててきた。俺は何も言わない。無言のまま、口からこぽっと血を流した。
「何で何も言わないんですか?何で何で何で・・・」
折角楽しそうだったのに、俺の反応がイマイチだったせいで気分を悪くしてしまったようだ。
イライラしたように包丁を何度も何度も突き立ててくる荒井。
あ、何だか目の前が霞む。
俺を一生懸命刺す荒井をじーっと見つめながら目を擦ろうとしたが、手の力も入らない。今立っているだけでもきっと奇跡だ。
クラスで見る荒井は物静かで何時も一人で本を読んでいたけれど、荒井もこんなに声を張り上げるんだな。
有り得ない話だが、荒井は口が利けないヤツだとばかり思っていた。だから何だか、今の光景は非常に新鮮だ。
激しい運動とかも嫌いそうだったのに、こうも一生懸命俺を刺している。
あぁ何だか・・・
「・・・かわいぃ」
つい、目の前にある頭にぽんっと手を置いた。
手に力が入らないとしても、それぐらいは出来るようだ。まぁ、置く程度しか出来なかったけれど。
自分より低い位置にある丸っこい頭が何だか愛おしく思えた。
殺されようとしているのに可笑しな話だ。
痛みを感じぬままに瞼がどんどん重くなってくる。
どうやら血が足りなくなってきたらしい。
痛みを感じないことは、生物としては欠陥品だ。
痛みを感じることが出来なければ、自分の生命の危機を把握出来ない。
出来ないからこそ、今俺は死にかけている。
瞼が重いし、酷く眠い。成程、これが“死”なのだろう。
痛みを苦だと感じない身だから、その死はあまりに緩やかで・・・
「な、んで・・・」
目の前の荒井が大きく目を見開いて俺を見つめているのも気にせず、俺はゆっくりと目を閉じた。
最期に見えた荒井が、何故だかショックを受けた様な、焦ったような顔をしていた。
けれどそんなこと、もう俺には関係のないことだ。
俺は眠る様に死んだ――
始まらなかったラブストーリー(殺した相手に今更恋したって遅いのです)