日野貞夫には苦手なヤツがいる。
「日野ちゃーん」
「っ、おい、突然抱きつくな」
帰宅部の癖に新聞部に入り浸っては日野にちょっかいを出してくる、同級生で同じクラスの名字名前という生徒だ。
出会う度にこうやって抱きついてきては日野のことを『日野ちゃん』などと呼ぶ。
その度に止めろと言うのだが、名前には一向に進歩がみられない。それどころか、最近はスキンシップがより多くなった気さえする。
今だって、抱きつくなと言われているにも関わらず、一層日野に抱きつく腕の力を強めている。
後輩である坂上は今運動部へ取材に行っているため不在。よって今は名前と二人きりだ。
坂上がいる時でさえ激しいスキンシップ。坂上がいない今、日野は名前が何をしでかすかとひやひやしていた。
「んー?日野ちゃん、なんか良い匂いー」
「なっ!?」
ほら、しでかした。
「この匂い好きかもー」
日野の首筋に顔を埋めてすんすんと鼻を動かす名前に、日野はぴくっと震えた。
「こ、ら・・・やめっ、ろ」
「えー?何でー?」
意味がわからないと言う風にすりっと日野に頬擦りをする名前。
「良いからっ、やめろ!」
日野はもう限界だと言わんばかりの勢いで名前を自分から引きはがした。
きょとんとする名前。日野は若干息を切らせていた。
日野貞夫は名字名前が苦手である。
が・・・嫌いではない。
それどころか、彼は――
「日野ちゃん、何で顔真っ赤なの?」
「っ・・・ぅるさい」
「暑苦しかった?扇いであげようか?ジュース飲む?」
うちわ代わりに下敷きを取り出したり、ジュース代であろう小銭を取り出したり・・・
日野が赤い理由を“暑さ”だと認識にした名前は日野を労わるように「平気?」と声をかけた。
そんな名前がついつい犬に見えてしまうなと日野は思う。
犬は犬でも大型犬だ。自分の大きさに気付かずに、そのまま思いっきりじゃれ付いてくる大型犬。じゃれ付かれるこっちは、たまったもんじゃない。
「ごめんね、日野ちゃん・・・」
しょんぼりしている名前。日野の目には、垂れ下がった犬の耳と尻尾が見えてしまう。
「・・・お前の、せいじゃない」
そんな姿を見れば、自然と口はそう言っていた。
名前はその言葉にぱっと顔を輝かせ「日野ちゃんは優しいね」と満面の笑みを浮かべた。
日野貞夫はそう・・・名字名前が好きだった。どうしようもないぐらい好きで、好き過ぎて・・・その感情も持てあましていた。
自分に何時もじゃれ付いてくる名前。酷く愛おしい。
けれども心臓が持たない。愛しい人が抱きついて来れば、身体は敏感に反応する。
バレちゃいけない。引かれて、離れられたら困る。困るどころか悲しい。
「ちょっと、吃驚しただけだ・・・こっちこそ、悪かった」
感情を押し殺しながらそう言えば、彼は「日野ちゃんは悪くないよ」と言いながら笑った。
あぁ、明るい彼には笑った顔が良く似合う。日野はついついその笑顔に見惚れる。
「・・・で?」
「んー?」
「何か用があって来たんじゃないのか?」
「用事なんてないよ」
それは何時ものことだ。
帰宅部の癖に新聞部に入り浸って・・・
いっそ新聞部になれば良いのに。
いや、そこまで考えて日野は内心首を振った。
今でさえ心臓が持ちそうもないのに、名前が新聞部になったら、それこそ日野はいろいろ我慢できなくなるだろう。
なにせ名前は、日野を期待させるようなことばかりするのだから。
「あぁでも、あえて言うなら・・・日野ちゃんに会いたかったから、かな」
ほら、また。
名前は何でこうも自分を期待させるようなことを言うのだろうかと、日野は不思議でならない。
心臓は痛いぐらいに高鳴っている。
頭の中では名前への想いやその想いが遂げられないことへの深い深い悲しみでぐちゃぐちゃになりそうで・・・
名前は日野のそんな気持ちに気付いているのかいないのか「日野ちゃんに会いにきたんだよー」と笑いながら言っている。
「まったく・・・冗談も休み休み言え」
呆れている風を装ってはいるが、その仮面はすぐにでもずれ落ちてしまいそうだ。
「日野ちゃんが部室にいるって思うから来るんだよ」
「坂上がいても来るだろう、お前は」
「坂上君とは日野ちゃんの話をするために来てるんだから、目的は日野ちゃんで間違いない」
屁理屈にもほどがあるが、自信満々に言われてしまえばそれ以上追及する必要もない。これ以上追及すれば日野の自滅だ。
叶わぬ恋だとわかっていても、自ら傷つくような道を選択する気にはなれない。
今はまだ、このぬるま湯のような緩い優しさに触れていたいのだ。
「ねぇねぇ日野ちゃん」
にこにこと笑っている名前。
きっとまた、日野を期待させる言葉を口にするつもりなのだろう。
「俺ね、日野ちゃんのこと大好き」
「・・・・・・」
あまりに酷い男だと、日野は思う。
自分を期待させるようなことばかり言って、期待させては落ち込ませて・・・
だから勝手な期待を日野はしない。
先程の言葉に対しても、自分もだとは絶対言わない。
名前が言う“大好き”と自分の思う“大好き”は、大きな大きな違いがある。日野はそう思っているから。
「・・・そうか」
「あれ?日野ちゃんは?日野ちゃんも俺の事好きでしょ?」
「煩い。くだらないことを言ってる暇があるなら、何か手伝いの一つでもしたらどうだ?」
「うん。わかった、何か手伝うことある?」
「・・・そっちの記事に誤字脱字がないか調べてくれ」
「わかった」
素直に頷き記事が書かれた原稿を手にする名前に日野の口からため息が零れそうになる。
けれどため息を出したら、次には涙が零れそうで必死に抑える。
内に秘めた感情は、一つでも零れ出たら全部がぶちまけられてしまうのだから。
仕事を与えたことにより静かになった名前。
ぺらりと紙を捲る音だけが響く。
これで少しは落ち着けるだろう。そう安心した日野に、名前は「ねぇ」と声を上げる。
ほら・・・名前はそうやって、日野に安心する暇さえ与えない。
見れば名前は新聞から顔を上げてふわりと微笑んでいる。
その笑みは何処までも優しく、何処までも酷い言葉を日野へと向けるのだ。
「ね。好きだよ。本当に好きだよ、日野ちゃん」
「・・・・・・」
今度こそ、日野は何も言えなかった。あまりに辛すぎた。
名字名前は、日野が知る中で最も残酷な男だと思う。
真綿で首を絞める
(俺は日野ちゃんの事が好きなのに、何で日野ちゃんに通じないんだろう)
本当に日野を愛してる彼と、そんな彼を信じきれなくって一人勝手に苦しむ日野の話。