プルプルッ
「ぇ、ぇと・・・名前、君・・・」
私は目の前で小刻みに震えている名前君に恐る恐る声をかける。
大学で同じコースを選択している彼とは、時折会話をする。
けれど彼自身から話しかけることはなくて、私が時折話しかける程度。
なのに今回彼は、突然私の目の前に立ちふさがり、少し俯き、小刻みに震えだしたのだ。
まるで感情を抑えるみたいに。
「・・・佐隈さんっ、どうして教えてくださらなかったんです?」
押し殺したような声に「ぇーっと・・・何を?」と尋ねる。
普段は丁寧な話し方で、紳士的な名前君が、何処か声を荒げそうになっている光景は珍しい。
「あんなっ・・・」
「ぇ?」
「あんな・・・――あんな素晴らしい上司の方がいらっしゃるなんて!教えてくだされば、僕もバイトを希望したのに!!!!!!」
その言葉に、私はついつい唖然としてしまう。
「ば、バイトっ?」
ま、まさか・・・
「芥辺さんの、こと・・・?」
「そうですっ、その方です!!!!!」
えぇーっという顔をしてしまった私は悪くないはず。
だって、芥辺さんは、“素晴らしい”上司とはっきり言うには、ちょっと難が多すぎて・・・
「というより、何で名前君が芥辺さんのこと知ってるの?」
名前君とは友達だけど、悪魔の話とかはもちろんしていないし、探偵を必要とするような風には見えない。
「佐隈さん、ノートを講義室に忘れたことがあったでしょう?」
「ぁ・・・そういえば、事務所に届いてた気が・・・って、名前君が届けてくれたの!?」
まぁ、はい。と頷いた名前君。・・・全然知らなかった。
「事務所の場所、よくわかったね」
「佐隈さんの友達に事務所の場所を聞いたんです。家に届けてもよかったんですけど、流石に男が突然女性の家に出向くのは失礼かと思って」
佐隈さんも女性ですから。と小さく微笑んだ名前君は、やっぱり紳士的だった。
「事務所までの道順は大丈夫だったのですが・・・その事務所に入った瞬間、突然変な現象に襲われたんです・・・」
「ぇ?ど、どんな?」
「はい・・・突然肩のあたりが重くなり、耳元で『童貞か?お前、童貞なんか!言ってみぃ!』とエンドレスで囁かれ続けました」
「・・・・・・」
十中八九アザゼルさんだ。
「僕が困り果てていると、事務所の奥から人が歩いてきて、こう・・・何かを呟いたんです。その瞬間、肩の重みどころか、その謎の声の気配が吹っ飛んだ気がしました」
・・・それ、絶対に物理的に吹っ飛ばされてるよ。芥辺さんに。
「謎の声から助けて下さった方に佐隈さんのノートを届けに来たと言えば、快く受け取ってくださって・・・本当に良い方でした」
快くっていうのは、きっと名前君の主観的なものだと思う。
「お若いのに、探偵事務所を営んでいるなんて・・・あんな素晴らしい上司の方がいる職場、きっと楽しいでしょうね」
「そ、そう・・・だねぇ」
渇いた笑みしか浮ばない。
楽しい・・・確かに、退屈はしないけど・・・ぅーん・・・
「僕なんかでも・・・アルバイト、雇ってくれますかね・・・」
「へ?」
まさか、本気でアルバイトをする気・・・!?
「丁度、アルバイトを探していたところだったんです。以前働かせていただいていた喫茶店が、どうやら近々営業を停止するらしくて・・・困っていたんです」
名前君が本当に困ったような顔をした。
ぅっ・・・そんな顔されるとこっちが困る。
断ろうにも、名前君にはノート写させてもらったり、レポート手伝ってもらったり、その他もろもろ手を貸してもらってるし・・・
しかも、その全てを名前君は「良いよ。佐隈さんも大変なんだから、僕に頼ってくれても平気だから」と言ってくれる良い人だし・・・
あ゛ぁ・・・!断れない・・・――!!!!!
「・・・で。連れてきたのか」
事務所の椅子に腰掛けていた芥辺さんがこっちをジッと見てきて、つい目を逸らした。
「お久しぶりです。先日は、有難う御座いました」
「・・・あぁ。あの時の」
「はい」
物腰柔らかに芥辺さんに声をかける名前君。
さながら、名前君は天使で、芥辺さんは悪魔だ。・・・どうしよう、そのままだったかも。
「バイトは、今のところこれ以上取る予定はない」
「・・・そうですか」
困ったような顔をした名前君。
ぁ・・・名前君の足元にアザゼルさんが近づいている。
名前君には見えないから、全然気付いていない。
「この間の童貞野朗やないの!その後どう!?女の味知ったんか!?」
無駄にフレンドリーに名前君の背中によじ登ったアザゼルさん。
「ん・・・なんか、背中が重い・・・」
「・・・――」
「グボファァァァァアアアアアアアアッ!?!!!???!!!???」
アザゼルさんは、芥辺さんによって一瞬で鎮められた。
「あ・・・重みがなくなった・・・また助けてくださったんですね」
ふわっと綺麗に笑みを浮かべた名前君に、芥辺さんはピクッと肩を振るわせる。
「アルバイトの件は、諦めます。あまり無理なお願いをするわけにもいきませんし。けど・・・何かお礼をさせてください。2回も助けていただいたんです。何かお手伝いできることはありませんか?」
「何この子!めっちゃ良い子やん!!!!!わし、この子気に入ったで!!!!」
何時の間にか復活したアザゼルさんが名前君を気に入ったらしい。
「僕、これでも力あるんですよ。雑用ぐらいなら出来ると思うので、何かあったら言って下さい。無償で手伝います」
「けど名前君、大丈夫なの?生活とか・・・」
心配になってつい声を上げてしまう。
「まぁ・・・他のアルバイト探してみるよ。ごめんね、わざわざ無理言って連れてきて貰って」
「ううん。何時もお世話になってるし」
「そう言ってもらえると嬉しいよ。有難う」
小さく微笑んだ名前君は、ポケットからメモ帳を取り出し、そこに何かを書き込むと、ビリッとその部分を破り取る。
「これ、僕の連絡先です。良ければ、何か雑用でもあるときに呼んでください。喜んでお手伝いしますから」
芥辺さんの目の前にそっとそのメモを置いた名前君は「じゃぁ、僕はそろそろ」と言い、私と芥辺さんに頭を下げてから、事務所を出て行こうとする。
「待て」
「はい?」
「何でもすると言ったな」
「?えぇ、まぁ。言いました」
にこっと微笑んだ名前君は、芥辺さんが言ったことを何でもやってしまいそうな感じさえする。
友達ながらに、ちょっと心配。
「だったら、明日からこの事務所に来い」
「ぇっと・・・それは、雇ってくださると?」
どういう風の吹き回しなのか、芥辺さんは「そうだ」と頷いた。
「何をすれば良いですか?」
「・・・俺の手伝いでもしろ」
「はい。喜んで」
微笑みながら頷く名前君。
「これから宜しくお願いしますね。芥辺さん」
芥辺さんに向かって優しく微笑んだ名前君に、芥辺さんは「・・・・・・あぁ」と少し間を置いて、短く返事をする。
あれ・・・?
「なんや、なんや!アクタベはん、何か顔が赤――」
「――」
「ギィヤァァァァァアアアアッ!!?!??!!?!?!??」
グシャッと潰れたアザゼルさんが視界に入る。
「こんな素敵な上司の方がいる場所で働かせてもらえるなんて、嬉しい限りです」
にこにこと笑っている名前さんと「そうか・・・」と言いながらそっぽを向いている芥辺さん。
何だか・・・
異様な組み合わせにみえて、何故かしっくりきている気がしたのは、私だけだろうか。
紳士的な彼の目には悪魔も優しく見得るらしい