存在未完成
その子と目が合って、私は微笑んだ。
別に何か魅力を感じたからとかじゃない。誰もいなかった夜に、誰かに会って安心したからとかじゃない。何か感情を動かされたわけじゃない。感動らしきものなんてそこにはなかった。
だからといって、何か形式的に作り物の笑顔を浮かべるということができるほど、その頃の私は大人じゃなくて。
今なら分かる、あのとき微笑んだのは私じゃない。
「わたしはなちる」
はじめましてのひとには自己紹介から。
そう思い出して名乗ったら、その子も名前を教えてくれたっけ。
「オレは光政、だよ」
どうして自分の名前を言うのにそんなに自信なさげなの。
つい私は教えてもらったばかりの名前をなぞるように唇を動かした。私の口から出た声で名を呼ばれた"光政"は、そこでやっと笑った。
(おかしい。わたしはこのひとのこと、知っているのに)
そんなことを思いつつ、私たちは、よろしくね、仲良くしてね、なんてぎこちない握手を交わした。

憶えていない、忘れてしまったことなんて誰にでもあると思う。まっさらな記憶。だから私は他の人よりも少しばかりそんな部分が多いだけだと、幼いながら簡易な暗示をかけて不安感を押しやっていた。
不安感どころの話じゃなかったわけだけど。十歳に満たないような子どもの前に、バラバラの人体が転がっている。たまに血の痕なんかも散らばっている。意識が混濁し訳も分からない実体のない波の中でもがいてやっと目が覚めた私が立っていたのは、そんな惨状に囲まれた場所だった、こんなのはザラ。
無意識の波の中で意識を保つことができるようになったのは案外最近のこと。中学を卒業しようかという年頃。色々なことに勘付いてしまって、一番不安定だった頃。
光政に"異性"として正式に想いを伝えられて、自分も少し前からそう意識していたから肯定の返事をして、照れくさい気持ちを払えないまま誰も見ていない帰り道だけ手を繋いだり……そんなことをし始めて、それから一年が経とうとしていた頃。
どきどきして、きゅんとして、何となく浮き足立つ日々だった。普通なはずなのにどこか素敵な毎日だった。なのにそんなふわふわの道から、私は転落した。
自分の勘の良さを呪いもしたけれど、これまで勘付かないように鈍感を貫いてきた自分は凄いなと感心する気持ちの方が大きかった。不都合なことを回避してきたのが悪かったというのだろうか。周りが普段と変わらず喜怒哀楽に富んだ表情を見せる中で私の時間だけが止まっていた。少し前までなら意識をどこかに飛ばしてしまっていた月の時さえ、波間から動き続ける時間がのぞいて、見たくもないものをたくさん見る羽目になった。古い記憶の中の面影を残して成長した姿に、実体のない腕を伸ばして謝り続けた。この事態を引き起こしたのもみんなを現状から救えないのも私のせい。
消えてしまえれば、と思った。一度皆の記憶から存在を抹消されたのと同じように、また、肉体共々消えてしまえればと。今でも思っている。でも光政の何を知って何を知らないのか全く読めない深い目を見るとそんな気が湧かなくて、何も行動に移せなかった。そうしてずるずると、黒幕に操られるだけ。何より自分で自分を殺せるほど、私は勇敢じゃないのだ。
だから周りに勘付かせればいい。
それは周りに罪を擦り付けるということ。
私という人間だったものに手をかけたという罪を、擦り付けるということ
――……。
涙は出なかった。大切でかけがえのない友達は皆殺伐とした非日常じみた日常を笑って怒ってふざけ合って乗り切っていて、私はそんな彼らに自身の心の中身を吐き出したりしなかったから。黒く汚れた確信を誰かに伝えた時、私の感情の波も荒れるのかもしれない。涙くらい出るのかもしれない。普段冷静と思われる私がそんな取り乱す姿、自分でも想像できないけれど。

皆に気付いてもらうしかない。こんなのはせこいかな。
まあいいや。
たとえたったひとりを殺めてしまったとしても、
皆は勝つよ。

頭の中で書き並べた取り留めもない文章、もう冒頭のほうは忘れてしまった。短期記憶にも残りやしない。当然ね。紙に記述して残そうとも思わなかったのだから、忘却してしまっても何ら問題はない。
――三時か。光政が今日も間抜けな顔晒して寝てる。わたしもそろそろ健康と今日の授業に支障が出そうだから寝ないと。
深夜にぼんやり考え事なんて変な癖、直さないと、ね

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