初恋
※突然の死ネタ警報





目の前が真っ白になった。





その日、俺は掠り傷ひとつ負うことなく帰投した。
疲れてしまってベッドに身体を預けてから、何気なしに明日の支度をしないとなんて思い立って、身を起こして鞄の中身をベッドに散らかしていた。時間割通りに揃えるだけなのにその日はその作業にひどく時間がかかった。
カーテンレールに掛かったブレザーを下ろし、ベッドに座ってため息をついた。時計に目をやれば時刻は午前零時十二分。廊下はひどく静かだった。部屋にいる俺の耳に入ってくるのはアナログ時計の秒針が動く音くらいで、手元のエチケットブラシが一切捗っていないことに気付いて俺はさっきのことが気掛かりなのかと他人事のように思った。

廊下を出た俺は沈み切った空気にどこか不安感を覚える。眠気などどこかへ消えていた。いつか、昔も組織がこんな空気に包まれたことがある。冷たく寂しい、嫌な思い出だ。
まさか今回は違うだろう、それを確かめたかったのか俺の足は勝手に階段を下りていた。

前回ここにきたのは何年昔だっただろう。泣き腫らした目の先輩に連れられて、この地下二階に広がった薄暗い場所に踏み入ったのだ。そのときは既に十数人の仲間たちが黙祷を捧げていて、俺は当時黙祷の意味も知らずにただ周りに倣って目を瞑って……そこに何があったのかとか何が起こっていたのかなんて何も知らないまま、そこを後にした。
今となって分からないはずはない。あのとき、仲間のうちの誰かが命を落としていたのだ。

だから、俺は今回確かめなければならない。あの日と同じことにはなっていないということを、確かめる。
(何も知らなかったあの頃とは違う。俺はここで過ごすうちに色々なものを知ったし把握した。メンバーの顔も)
(悲しい気持ちになるのは、いやだ)
ドアノブに伸ばした手が酷く震えて、何を緊張しているんだと俺は自分を笑った。
そうして、他のどの部屋のものよりも厚い扉を肩で押し開けた。





目の前が真っ白になった。
三人の女子が泣き崩れている。
ぺたんと力の抜けた格好で床にへたったままの彼女たち。あいつと親しかった、子たち。四人でつるんでいるのを時々見掛けた。不安感に飲みこまれてしまう前に、何かリーダーらしい一言くらい掛けてやらないと。しかしそのとき真っ先に浮かんだ言葉はそんな奮い立たせるためのものとは程遠かった。
何故、三人しかいないんだ。





「夜が明ける前に医療班に捜索させてみたところ、無惨な姿で見つかった」
聞き流したくなるような内容に限って、しっかりと耳に入り込んでくる。残酷だと感じた。こうして別のことを考えよう考えようとしていても無駄だというのは。
「その場に放っておけば闇の者に遺体を利用されちまう危険もあった。今は埋葬するまでの短い間だが、地下室の木箱に安置してあるからな。……渡良瀬」
亮先輩は俺を咎めなかった。何があったかも訊かなかった。
「……つらかったな」





「種谷にももうちょい可愛げがあればなあ」
「なっ……! オイ、失礼じゃないか!」
光の組織ではそんなやり取りは日常茶飯事で、年長のグループたちの視線は大抵、騒いでいる二人に集まっていた。ほほえましく見守る目。いい加減にしろよと呆れる目。様々だった。
「大体っ、渡良瀬こそぐずりまくりだし優柔不断だし、男らしさの欠片もないじゃんか!」
「ぐずってなんかないだろ……」
「春に中学入ったらぜってーいじめられるって! 渡良瀬みたいなのは!」
「はっ、お前みたいな言葉遣い雑の暴力女なんてそれこそ絶っ対、モテないだろうな!」
「何ぃ〜」
はいはいそこまでだ、と先輩らにたしなめられる回数も慣れるほどにまでなった。このままでこれから先、更に年下のグループを引っ張っていけるのだろうか……どうにか落ち着いた後で、俺は子どもながら不安でいた。
「さすがに言い過ぎたよなごめん。……種谷、打ち合いしようぜ」
「あたしこそ悪かったよ! いいぜ! 久々にやるか」
さっきまであんなに顔真っ赤にして怒っていたのに今じゃ竹刀片手に上機嫌で屋上へ上がっていく種谷は単純だ。
そんな彼女に少し呆れて笑いながら後をついて行く俺もまた、単純な奴だ。

種谷貴美。
彼女は何年も前に、二つ歳の離れた姉を闇の組織にさらわれていた。
周りに同じ目に遭った仲間がいなかったこともあり、彼女はその事件のことを誰にも言い出せずにいたという。幼い頃の何年間も。
幼年期の数年というのは気の遠くなるほど長い時間。自身を宥める術さえ知らない正直な子どもが、つらい経験を誰とも共有できず独りで抱え込んでいくことの大変さは、普通なら想像に難いことだろう。
仲間との喧騒を楽しんでいるときさえきっと、種谷は、寂しい思いをしていたのだ。俺も、そうだったから。偶然種谷の過去を知ることになったときの俺は驚いていた。驚くと同時に安堵もしていた。不謹慎なことを言えば、嬉しかった。

思えば自分と似た境遇に立っていることを知ったあの日から、俺は気付かぬ間に種谷を気に掛け、そして彼女に惹かれていた。
……顔を合わせれば喧嘩ばかりだったけれど。

種谷とは良いライバルだった、と俺は思っていた。もっとも、手合わせをして一度も勝ち本を取れない俺を種谷がライバルとして認めてくれていたか怪しいところではあったが。

俺たちはいつもふたりで動いていた。戦闘時もよくペアを組まされていた。やはり喧嘩ばかりではあったけれど、それでもいつしか互いに信頼しているということが周囲にもよく伝わるようになっていたらしい。
互いの過去を知ってしまった時点から、それまでよりも種谷が一層近しい存在に思えるようになっていたのは確かだった。
渡良瀬が組織のリーダーを任されたとき、誰よりも、本人よりも喜んでくれたのは種谷だった。
「すっげえ! すっげえよ渡良瀬!」
「や、やめろよ……自信ないのにそんな」
「……」
「……なんだよ」
じとーっとした視線に怪訝な顔で対応。
「バーカ。自信ないとかそんな理由で努力しねーってのは、誰にも認めらんないかんな?」
「いや別にそう思ってるわけじゃ」
安心しろ。遮るように種谷はそう言った。
「あたしが付き合ってやるよ……渡良瀬が誰より強くなるまでは」
意味が違うと分かっていても、付き合ってやるよなんて。年頃の少年の心を揺さぶるには充分な言葉選びだった。
「あ、ああ……サンキュ」
そう返すのが精一杯だった。

どうにかリーダーとして機能するようになってきたある日も、俺は種谷と戦闘に出た。俺の希望と、亮先輩からのアドバイスが一致したためだった。
中心戦力の片方が亮先輩たち、もう一方が俺たち。ほぼ小学生の、サブリーダーになりたてな二人の後輩には後方支援を学ばせろという助言が以前にあって、しばらくはその通りにする必要があった。
「そろそろ名字で呼ぶのも飽きてきたなー」
後々考えたら ふと口にしたその台詞は少しわざとらしかったかもしれない。
「こんな時に何言ってやがんだ、集中しとけ。……カケル」
言葉末の違和感に彼女の方を振り向くと、視界に入った横顔はほんのりと色づいていた。
「顔赤くね? 大丈夫かよ種谷」
「うっせ! 見んな馬鹿、敵でも見てろ!」
(そうか、呼んでくれたのか、俺が、名前で呼びたいって遠回しに言ったから)
(いやひょっとしたらこいつも……)
俺のこと、名前で呼んでみたかったりしてたのかな。なんて都合よくなされた想像に頬が緩みそうになった。しかし迫った戦いを前に、すぐに気を引き締めた。
「なあ、お前も呼べよ。飽きたんだろ、名字呼び」
「え……あ」
敵の気配に油断を許さないといった鋭い空気はまとったままでそんなことを言いだすものだから、俺は面食らった。
「えっ……と。俺は別に今まで通りでもいいだろ?」
「はあ!? 信じらんねー! あたしだけ恥ずかしい奴みたいじゃんよ!」
ポニーテールに結い上げた髪の房がぷるぷると震えているのを見て、あ、これこいつが振り返った瞬間に殴りかかられるだろうな、と俺は予測する。
「……」
俺の指先がぴくりと反応した。同時に何かを察知したらしい種谷と目が合う。その顔はいつもの"格好いい"顔だった。俺たちは小さく頷いた。
種谷の力強い声が俺を奮い立たせる。
「行くぜ翔!」
「そうだな。種谷」
俺より瞬間先に駆け出した背中が少し寂しそうだった。

「リーダーが進んで犠牲になってどうすんだよバカ!!」
前線に出ていれば当然ながら伴う危険は大きくなるものだが、それにしたってそのときはかなりまずい戦況にあったと、経験からそう思う。
「あたしが食い止めといてやっから先に戻れ!」
俺たちの前には四、五体の闇が立ちはだかっていた。それだけならどうにでもなるが、左右の塀にも数体。狭い住宅地の路地では動き方も制限される。派手な物音を伴うリスクを冒しながら建物まで斬り払って行動範囲を拡大する選択ができるほど、俺の肝は据わっちゃいない。
そんな中で俺を先に廃病院に帰そうとしてくれる種谷。この状況で、運任せにも程があった。俺が半ばキレかけて、お前正気かと怒鳴ったとき、それにもかかわらず種谷は冷静だった。
だってお前、手合わせしてあたしに勝てたことねーじゃん。
ニヤリと意地悪に笑ってそんなことを言われたら、退く以外の選択肢などなくて。たしかに、一人ならどんな選択も自己責任として早急に実行できるだろうかと。
種谷と目が合うと、彼女は力強く頷いてくれた。
「任せろよ翔」
信頼と無謀の違いなんて、俺には分からなかった。





俺は地下室の入り口に立っていた。
予感は悪い方が当たったらしい。立ちつくしたまま、その高い声が嗄れても泣き声を止ませない少女たちの細い背中を見ていた。大切なものを一つ喪った背中は儚げだった。俺も他からはそう見えただろうか。
「渡良瀬、言うことがある」
いつもなら怒鳴るような喋り方の彼の、妙に静かな声で改めて彼女の死を伝えられたとき、そのとき、数年前と似た空虚を感じた。

心が寒かった。





一人地下に降り、ふらふらと木箱に近付く。
医療班がそれなりの処置を施していたのか、そこに人が横たわっている気配を伝えるにおいも何もない。
「わたら……せ」
なんとか嗚咽を抑えてこちらを見上げる女子のグループ。すぐ傍なのに、彼女らの姿がぼんやりと滲んでいくのがわかる。
「貴美」
ぽつり、自然に口がその名をなぞるように動く。余計な意地が呼ばせなかった名前。この名前で本人に呼び掛けたこと、まだ一度もなかったのに。
やはり一人残して逃げるべきじゃなかった。他のメンバーに貴美への救援を依頼することだって、テンパってたせいで忘れていた。
機転なんて利きやしない。判断力もない。
女扱いしたらこいつならばきっと怒っただろう。が、それでもやっぱり俺が護ってやりたかった。手合わせで全敗していても、リーダーのくせにいい無茶だなんて亮先輩に後々叱られることになったとしても、そうするべきだった。
無駄な後悔。いつだって後悔ばっかりだ。
「……ぅ」
こいつは何を思って死んでいったんだろうな。せめて俺のことを恨んでくれていたら、そうしたら少しは気が楽になるかもしれないけれど。
「たかみっ……ごめん、な。貴美……」
あのときはただの一度も口にできなかった名前も、今となっては簡単に声にできた。
それは今目の前にしているのが貴美ではなくて、死んでしまった後の抜け殻だからなのか。だから変な意地も出しゃばらないでいてくれているのだろうか。そう思うと悲しくなった。
直接遺体を目にするのが怖かったから、蓋をしたままの木箱にしがみついて俺は嗚咽を殺して泣いた。
名前。俺も、もっと呼んでほしかった。
(ああ、俺は、割と本気で、お前のことが好きだったのかもしれない……貴美)
貴美の存在が俺の中で占める割合の大きさを自覚するのが、その彼女がいなくなってしまってからだとは。嫌になった。消えてしまった貴美が俺の中に残していった大きな穴を、どうにか埋めるのに、とてつもなく時間がかかりそうだと思った。

なあ、これからしばらくの間も、お前のことを好きでいて構わないだろうか。今の俺には、お前の犠牲を乗り越えていく強さはない。忘れることなんてできやしないだろうから。

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