代替
※おこちゃまによるおこちゃまへのDV





顔の大部分を血塗れにして、今はもうボロボロになってしまった質の良いドレスまでもを赤く汚して、そいつはオレの身を案じてきた。
「お怪我はありませんか」
と。





疎ましくて仕方がなかった。こんなモノが、沙良姉の代わりだなんて。

――バイオリンの音色が響いた。繊細で、且つ力強く、滑らかな。
ぼくはよく、その音にピアノを重ねていた。まだ大人ではなかったから、小さな手では鍵盤に満足に指が届かなくて。それでも、子ども向けには編されていない楽譜を追いながら、弦楽器の音を追いながら、できるだけ邪魔にならないように、……バイオリンの音を壊さないよう慎重に、弾いた。

「……くそっ」
ガァン、とピアノが鳴いた。環境は六歳の子どもにはこたえた。鍵盤に叩き付けた拳がじんじんと痛んだ。痺れて思うように動かない手首が憎かった。こんな風にした大人たちが、憎かった。
なにより。
ピアノの屋根の向こうで、不快な音を発している"代替物"に苛立った。緩く巻いた金色の髪がバイオリニストらしくふわふわと揺れている、形だけ。そうだ……こんな騒音に合わせるピアノなんてない。
「それ、やめろ」
とうとうオレはピアノを離れ、"代替物"に向かって言っていた。青い無垢な瞳が憎悪に塗れた醜いオレを一瞬だけ映した。
「やめろって言ってる」
バイオリンを奏で続ける人形に向かって、今度は怒鳴った。ようやく弓が弦から離され、音が止む。
「おまえなんかがっ、沙良姉の宝物に触るな!!」
ただ着飾っている、ただの人形。そのはずなのに、どこか沙良姉の面影があるのが余計に腹立たしかった。
「上手く弾けもしないくせに!」
丁度よかった。どうせ自由時間はもう終わりだ。オレはピアノのほうに戻ると譜面台から楽譜を掠め取って早足にホールを出た。
「お坊ちゃん」
「……わかってる」
声を掛けてきた男に楽譜を預けた。沙良姉は、拙かったオレのピアノを邪魔だなんて言ったことはなかった。もっと聴きたいと、言ってくれた。それでも納得できなかったオレが助言を請えば、何度でも教えてくれた。その手で書き込んでくれた印がたくさん残った楽譜を、他人に預けることはあまりしたくなかった。あの楽譜が他人の手に触れられるたびに、思い出が薄まっていく気がした。
楽譜と引き換えに手渡された訓練着。それに着替えて一日のうちで一番嫌な時間を耐えた後、オレは自室に戻って痛む両腕を抱き込んだ。
なんでオレが、こんなことをしなくちゃいけないんだ。どう考えても可笑しかった。"跡取"が"象徴"を護るなんてそんなの。護衛なんてものは下働き連中にやらせておけばいいのに。その方が、人数もつけられるし、安全性から言ってもきっと優れているはずだった。
「……お兄様」
おずおずと話しかけてくる"妹"にオレは手を上げた。日常的にだった。
「おまえもどうせ憐れんでいるんだろ!?オレがいつも何をしているか全部知ってて!ああ私とは何もかもが違うって!不憫な奴だとでも思っているんだろ!!」
「……っ……!!」
ぶたれている間、それは声を上げることはなかった。そのせいか、オレの怒声は聞こえていたはずなのに、周りの大人たちはいつも知らないふりをした。だからオレは早々にわかっていた。これはこれなりに、オレに気を遣っているんだって。
本当に、生意気だ。

けれど、"家"はもっと腐っていた。
社交界の日、どうしても出席したくなくて自室に引きこもっていたオレの元にけたたましいノックの音とともに駆け込んできたそれが、この広い敷地の中で唯一の味方だと悟ったとき。
「お兄様」
いつだって遠慮がちにオレを呼ぶ声が鬼気迫っていて、オレは、動揺した。何よりもその姿に。
「――おまえ、なにを――」
「お怪我はありませんか」
上品なドレスは何か鋭利な物で所々引き裂かれていた。繊細なレース編みは一か所の穴からほつれてその形を失いかけていた。腰まであった美しい金色の髪は、左の側だけが長さを失って短くなってしまっていた。裂傷が走る額から流れた血液が、黒ずんだ右の目もとと口元にまでどろどろと伝って整った顎先から垂れていた。
「藤谷家は私に存在を。お兄様は私にお名前を与えてくださったから」
血色の中で開かれた右瞼の奥、瞳が明るく際立っていた。
「だから、私はその恩を忘れません」
オレは、思い出してはいけないことの断片を思い出していた。丁度目の前の"代替物"の今の姿と、少し前のぼやけた記憶が重なっていた。
オレは、沙良姉に、何をしたんだっけ。優しくて聡明で、オレだって少し前までは沙良姉には甘えていた。大好きだった。だからこそ、ある日姿を消した沙良姉の"代替物"としていきなり現れたこいつに、あんなに腹が立っていたのに。それを覆すようなつい最近の記憶が、もう少しで蘇りそうでオレは恐怖を感じた。
その恐怖も目の前の"沙良"を見ていると少しは和らいでいくような感覚がした。あれほど憎かったのに。こんなにも痛々しい格好でいるのに。
オレが嫌々ながら護ることになっていた存在に、オレは今まで護られていたのだろうか。だとしたら、これは今までどんな生活を送ってきたのだろうか。……オレ以上に、恵まれていなかった?
聞きたいことはたくさんあったけれど、オレは血塗れの手に腕を引かれて、今では敵陣と化した実家から飛び出していくことになってしまう。





「……」
沙良姉がよく弾いていた曲。すなわちオレもよく弾いていたわけで、勝手に隣で合わせてきていた"沙良"も同じように何度も弾いていたわけで。
旋律を口ずさみながら赤い月の下を当てもなく歩く中で、一人称も人格も一枚皮を被ったオレたちは、それまでのことについて互いに話すことも聞くこともなくなっていた。

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