幸せの容量不足

『めっちゃ幸せっす……絶対彼女を幸せにします』


連日SNSを中心に世間を賑わせているのは、『推しと結婚しました!』という幸せそうな男女の結婚模様である。方やバラエティで過去共演したこともある女性アイドル、方や自分でも知ってるチャンネル登録数日本一を誇る有名な男性ジューチューバー。どうやら彼女を好きだったただの若き青年がそのアイドルとの恋愛を夢見、世間で認知されるほどの知名度を得られるほど有名になり、見事『向こう側』だったはずの美しく微笑む花嫁を手に入れ、有言実行してのけたという夢物語のような現実の話。

へー、あの子結婚したんだー、と思うと同時に、ぼんやりと流れてくるその情報がどっかで聞いたことあるような話だなー、と思った。



『グランプリを獲れて、嬉しく思います』


今のような画面いっぱい広がる画素数の高い映像なんかじゃなくて、拡大もろくにできない小さな画面越しに見た、柔和に微笑むまだあどけなさの残る美しい少女。ずっと会いたくて会いたくて、どこを探しても見つからなくて、まさかそんなデジタル画面上で再会するなんて思ってもみなくて。彼女が映る画面から光がぱちぱちと弾け飛んできているみたいで、瞬きすることさえ惜しかった。彼女が発する言葉を一言一句聞き逃したくなくて、言葉を紡ぐ口元を瞬きもできずに乾いていく目が必死に追う。
『テレビ越しに見て、一目惚れした』とはにかむ男に共感する。彼女のいる『向こう側』に早く追いつきたいと、正にあの瞬間……彼女をこの世界でもう一度見つけたあの瞬間、僕は彼女にもう一度恋をした。


『はじめまして、みょうじなまえです』


映像がダブる。もう“それ”を記憶する海馬も、焼き付けた瞳も、声を聞いた耳も、同じ空間にいた時の温度、風の感触、その周囲の匂いを感じ取った器官も、細胞も、神経も、何もかもが今己を形成するものとは違っているはずなのに、どうしてこうも憶えているのか。
これが愛の成す業というのならば、なんて厄介な感情で、呪いのように悍ましくて、だけどどうしようもなく眩いのだろう。


『五条くん、稽古、付き合ってくれるの?』
『悟って呼んでいいの?…嬉しい』
『……………私の顔を見るたび悟がそんなに不快に思ってるなんて思わなかった、……ごめんなさい、もう二度と話しかけないから』
『………なに、なんなの、……ずるい。私だって、すき、だよ………』
『さとる、だいすき』


ころころと変わる表情─、目元がなくなるくらい豪快に笑い、恥ずかしがる時は頬だけじゃなくて瞼を伏せるせいで睫毛で影ができた目元まで赤く染まる。僕がつまらないこと言って怒らせた時は引くぐらい冷たい顔して僕の存在なんて目に入ってないみたいに無視するくせに、素直に謝ったらケロリと笑って何も無かったように振る舞う彼女の言動が不可解すぎて振り回されて、彼女への自分の感情の明確な名前がわからなくてモヤモヤする日々。
近くにいればそばに手繰り寄せたくなって、だけど突き放してしまいたくなって、そんな僕の行動を見て『術式って魂に刻まれてるものなんだっていうのを悟を見てると思うよ』なんて皮肉ってきた傑の顔は今でも忘れられない。素直になれない自分の失言のせいで、彼女の角膜を覆う結膜が今にも決壊しそうなほどに潤むのを見て、涙を零さないよう必死に耐えながら傷ついた表情を隠しきれないその顔に心臓でも握られたのかと思った。傑や硝子に馬鹿にされながら『好き』という感情を自覚した日。クソダサいにも程がある、しどろもどろになりながら自分の訳の分からない感情を発露した日は、揶揄いもせずに嬉しいと微笑まれ、同じ気持ちだと知って歓喜した。初めてキスした日の唇の柔らかさ、初めて体を重ねた日に感じた生まれて初めてこみ上げる筆舌にしがたい愛おしさ。『愛』なんて、一生抱えるとも思ってもなかった感情が、いつのまにか心に棲みついていて、いつのまにかどうしようもないレベルに全身の細胞が毒でも回ったみたいに侵食されていた。
生まれた瞬間から一生、死ぬまで呪いを祓っていくだけだと思っていた、楽しさなんて見出せそうもなかったつまらない人生に、彩り溢れた道が開けたような気分だった。

─幸せだったのだろう、きっと、前の僕も。自分の鼓動が止まるその時まで添い遂げることができたわけではなかったけれど、親友と同じ道をずっと馬鹿言いながら歩くことができる人生ではなかったけれど、唯一無二の隣を明け渡しても良いと思える親友に出会えて、後ろを追いかけてくれる術師を育てることができて、“彼女”から愛されて、“彼女だけ”を愛して終えた人生は確実に幸せだった。『それ以上』を切望するなんておこがましいと、あの人生を傍観した誰かは言うかもしれない。最後に瞼を閉じるその瞬間に過ぎった、“もし、あのときああしていれば”と振り返っても仕方のないたった一握りの後悔は、傲慢、強欲と言えるものなのかもしれない。だが、それこそあの頃の自分にとってはそんなもの今更に違いなかった。『六眼』と『無下限呪術』なんて生まれた時点で与えられた傲慢・強欲をすくすく育てる返品不可なハッピーセット。結果的にトゥルーエンドを進んだのかもしれないが、確実にこれがハッピーエンドと笑って終えられるほど寛容でもなかったのだ。


 傲慢で何が悪い?強欲の何が悪い。



幸せそうな男が、柔らかい表情で、心底幸せで堪らないという表情で微笑む。その顔に酷いデジャブを覚える。

(ああ、そうか、自分じゃん)

数年前にワイドショーやら週刊誌やら新聞やらで俯瞰で見た自分自身の記者会見の時と、全く一緒だった。
『彼女と出会った途端、朝起きた瞬間から幸せだと思った』だとか、『幸せすぎて、夢でも見てるみたいだ』だとか。まるきり自分のことを第三者が語っているかのようでこいつ僕の二番煎じか?と呟けば、ネタを書いていた傑が細いはずの目を見開いたと思えばすぐに珍しいほど大きな口を開けて笑ったから、どこに笑う要素があったんだよ、と思わずムッとしてしまう。
そんな僕の表情を見て、「私も同じことを思ったんだ」なんて言いながら信じられないくらい穏やかな顔をしているもんだから、僕は驚くのと同時にやはり自分の傲慢さに笑ってしまいそうだった。

きっと、テレビの向こうで幸せそうに微笑む男女も、またネタを書き始めた隣の男も、自分達が特別で、世界で一番幸せで、自分達が信じられない奇跡の上で愛する人と手を取り合ってると思ってる。思ってたより人間って強欲で、傲慢なんじゃん。
どこか漠然と特別だと思っていた自分の感情は特別なんかじゃなくて、きっと誰かを愛する人間の普遍的な感情なんだと今更気付かされた気分だった。


───ああ、なんだ。あれだけ特別扱いされて別枠扱いされていた前の僕も、今の僕も、愛した人を愛おしく思うだけのただの普通の人間だったんだ。







(…泣き声……じゃない、……雨?……いや、雷?)


ザーザー、ザーザー。何かがどこかしこを打ちつける音が鼓膜を揺らす合間に空気どころか空間を震わせる重低音が響き渡る。夢と現実を揺蕩う意識が防音性のしっかりしているはずの部屋に響いている『音』を認識してしまえば、再び意識を手放すことも難しく現実世界に意識が戻ってくる。毎日聴いているはずの人間の危険信号をドンピシャで串刺しにしてくる劈くような悲鳴ではなく、眠っている時に雨の音が気になるなんて、いつぶりだろう。そもそも、このマンションに住み始めてからそんな音を敏感に感じ取ったのは初めてな気がした。

ぼやぼやした頭で音に聞き入っていると、どうやら勢いの強い雨が分厚いカーテンに隠れた窓を叩きつけているらしい。時折びゅうびゅうと強い風が建物全体に襲いかかり、カーテンのわずかな隙間から鋭い閃光が弾けたと思えばどこかに落ちたらしい激しい雷鳴が轟いた。雨風に襲われている窓も悲鳴をあげている。こんなことは数年住んでいて初めてのことだった。──そういや、台風が近づいているんだったか。風の影響を受けて建物全体が揺れているような気がするのは、気のせいだろうか。
日本列島に停滞する秋雨前線の影響で超大型台風になるとかなんとか言っていた気象予報士の声がぼんやりと蘇る。電車は計画運休するとか、危険を感じた場合は真っ先に命を守る行動を取りましょうとか……、…こういうとき、キャスターとかアナウンサーとか、現地リポーターだとかは大変だよねぇ……。それにしても、音を聞いてるだけでもあまりに酷そうな天候に人的被害も出ていることが想像に容易い。ああ、きっと少ししたら呪霊がわんさか湧くんだろうなあ、………あ、違う違う、『此処』は“そうじゃない”んだった。………ていうか今日って傑が出てる『ゴチです!』で使う食材の収穫?漁?かなんかじゃなかったっけ?…つかなんで傑だけレギュラーのオファーきたの?数年前にゲストで出た時僕ピタリ賞当てたのに?まあ毎週ピタリ賞当てられたら番組大赤字だし、馬鹿舌の傑が出て毎回ビリ取って僕が毎回訳わかんない農家やら漁師やらに扮して必死に収穫してる方が番組的に面白いか。……ァー、そんなのもどうでもよくて……、あ、そういえば昨日収録延期になるって伊地知言ってたっけ?なんか眠くて適当に聞き流してたかも、じゃあもしかして丸一日オフ?ヤバ、いつぶりたろ?………ていうか雷の音えぐくない?これ、“あの子”怖がって泣いちゃうんじゃ────どんどん鮮明になる思考と共に半開きのままだった瞼を緩慢に開いた。


─暗い。うまく周りを見通せない。もうすっかり慣れたはずの『視界不良』に違和感を自覚したところで、さっきまで見ていた気がする幸せだったような、そうじゃなかったような夢を思い出そうとしても、思い出せないことに気づいた。

 僕、なんの夢見てたんだっけ?

その瞬間一際強い閃光と轟が、己だけ取り残されたしじまを照らし揺らした。


「………あ、れ?」


数ヶ月前から夜が更けても常に点灯されている足元を照らすための常夜灯が消えていて、部屋にはどこからともなく聞こえる嵐の音と自分が立てる衣擦れ音しかしない。隣にあるはずの当たり前の温もりを無意識に追い求めた右腕が、空を切ってしまう。そんな些細なことで、能天気に微睡んでいた脳が一気に覚醒する。肩にまでかかっていた薄手のブランケットを思い切り剥ぎ取った。


「なまえ」


─いない。誰彼の存在感もない部屋には、頭を乗せられてやや撓んだ枕と少し乱れたブランケットがあるだけ。眠る前は川の字で並んでいたはずのシーツが、冷房によって冷やされたのかひんやりとしていて、もう随分昔の記憶に葬り去られていた孤独な朝を彷彿とさせられた。過去何度も迎えた嫌というほど冷たい朝の空気にも似た空間にゾッとする。─まさか、全部夢だった?どこから。なまえと結婚したのも、なまえにもう一度会えたのも、あいつらとまた青春時代を過ごしたのも、“あの子”と出会えたことも?………そもそも、生まれ変わったことだって無意識下に抱えていた『五条悟』の願望が呪いにでも転換されてありもしない幻想の中に生き続けているとか───、違う。僕は確実に前世で死んだし、このシーツの冷たさを感じているこの感触はたしかに本物だし、彼女に触れた全ての感覚が感情が、偽物だなんてあり得ない。似てるけど家の間取りだって家具やらなにやらまで昔と全て違う。それに何より自分の“視界”が“違う”ことを告げてる。

体を起き上がらせた勢いのまま寝具から抜け出そうとした足が、思ったより段差が浅かったせいで着地した瞬間に捻ってしまった。───ああ、そうだ、ベッド買い替えたんだった。万が一『あの子』が落ちたら危ないからって。枕と枕は以前までなら密着するくらいの距離に置いてあったのに、今は不自然な空白がある。そもそも彼女は昔からいつも僕に抱きついて眠るから、結婚当初だけでなく『前』の同棲期間でも枕に寝ていた跡なんてつかないくらい新品同様に放置されていたのに、今日は使い古されたみたいにくったりとしている。僕と彼女の間に割り入る不自然な隙間。それに寂しさやわずかな不満は芽生えども、それを上回る幸福感に満たされていたはずで。一緒に包まるブランケットだって、いつも寝ている途中で寒がりな彼女が引き寄せるから僕は起きた時いつも身包み剥がされた状態なのに、最近はそんな悪戯をする彼女とは共有してないから今日だって肩までしっかりかけられていた。連日連夜入る任務任務任務の激務に追われた昔と違って睡眠時間もまあまあ確保できていた現在。にも関わらずここ数日の睡眠不足は眠ったと思えば耳元でこちらの鼓膜を破らんと悲鳴をあげる“あの子”の仕業で。ミルクあげようがおむつ変えようが抱っこしようが泣き止まない夜に何度疲弊したことだろう。

どうしようもなくじんじんと鈍い痛みを伴う足首は、オート判定で勝手に治癒されるシステムを手放したせいですぐに治る見込みなんてないし、こういう小さい痛みは地味に後を引く。年を重ねるたびに治りも悪くなってきた気がするから、もしかしたら湿布を貼らなきゃいけないかも。……湿布て。おじーちゃんみたい。あんなの、『前』使ったことあったっけ?──ほんの少し、だけど大きな変化。大丈夫、あったかいのも、さむいのも、さみしいのも、しあわせなのも、いたいのも、やわらかいのも、全部夢なわけがない。そう誰に言うでもなく自分の中で言い聞かせて、慌てて飛び起きたせいでドッドッドッと変な音を立てる心臓を宥めていれば、寝室のドアがゆっくりと開かれた。


「…………悟?起きたの?」


目を瞑っても、耳を塞いでも、触れることが叶わなくなっても、脳みそどころか魂にこびりついた声が空気を震わせる。
─すごい雷だね、ちょっとぐずっちゃって、悟のこと起こしたら悪いなって避難してたの。だけど結局起きちゃったね───困ったように潜められた声が紡ぐ言葉が、ツルツルになった脳みそを滑ってうまく処理しきれない。気持ちよさそうに柔らかい布に包まれ抱えられている“その子”は、人の気も知らないでくうくうと抱かれ心地の良い胸元に体を預けて眠っていて、思わず彼女に抱かれるその子ごとすっぽりと広げた腕の中に納めた。


「………悟?」


不思議そうに僕を見上げる目元は暗がりで分かりにくい中でも薄い皮膚に隠しきれない仄暗さが滲み、ぱっちり開いているはずの大きな瞳が覗く瞼も、長いまつ毛の重みにさえ耐えかねているようにとろんとしていた。人一倍外見のケアに力を入れている今世と違って人手不足と体力勝負が織りなす過酷な勤務条件であった前世でよく見た草臥れた表情に(素直に言葉にすれば怒られるのはさすがの僕も学習した)なんだか郷愁の念を覚えながらも、こんな時までこちらへの甘えを見せないなまえの姿に寂寥感や焦燥感に似た感情で胸を締め付けられるような心地に苛まれる。


「───いいから、起こすとか、気にしないでいいから………なまえこそ、ちゃんと寝てよ。僕のおっぱいからは残念ながら父乳はでないけどミルクあげれるしオムツ交換だって完璧にできるんだから」
「ふにゅう………」


空気が抜けた風船みたいな声を出したなまえに思わず頬が緩む。そんな僕につられて眠気を帯びた彼女の目元が柔らかく弧を描いた。


「……疲れた顔してる」
「…全然疲れてない、とはいえないけど、…私だけじゃないでしょ?」
「…………僕はいいんだよ」


皮膚の薄い下瞼をそっとなぞるとくすぐったそうに身を捩りながらも強張った肩が僅かに弛緩するのがわかった。


「……でも、寝る時間ほとんどないのは変わらないよね」
「誰に言ってんの?こちとら呪霊鬼レンチャン終わるまで帰れま10経験済みの猛者なんだけど?収録も劇場に立つのも楽しいしかなくて最早ゲーム感覚に近いね」
「…ふ、…多方面に失礼なとこ変わらないね」


“先輩の冠番組をそんな風に茶化しちゃダメだよ、”なんてぼやきながらやっと自然に綻んだなまえの表情に内心胸を撫で下ろした。奥さん笑わすこともできないなんて芸人辞めちまえ、なんて言ってた脳内の小さい僕が満足そうにいいぞー!もっとやれー!なんて追撃指示を出しているが、彼女の腕の中ですやすや眠るこの子が起きかねないのでそっとご退場いただく。

僕の体となまえの腕によって支えられている小さな小さないのちが毎夜毎夜彼女の隈を製造し、これまで独占状態だった彼女からの莫大な愛を折半している現状に“僕のなまえに何してくれてんだ”とヤキを入れてやりたくなるのに、安らかな表情を見た途端そんな尖った感情も一気に丸くなってふわふわ空中を浮いていくみたいに昇華されてしまう。どれだけ睡眠妨害されようが、さながら『ばくおんぱ』級の耳どころか頭さえ破壊しかねない泣き声で全体攻撃ぶちかましてこようが、オムツを変えようとした瞬間にションベンぶちかまされようがミスって手にうんちが付こうが(この時ほど無下限って便利だったなと思ったことはない)、懸命に泣く顔、必死にミルクを飲もうとする顔、うんちきばってる時のなんか必死そうな顔、今のように安らかに安心して眠っている顔、そのどれもに自分となまえの面影を見つけてしまって、言いようのない幸福感に満たされてしまうのだから、両手を上げて完敗宣言をする他ない。


「この子の泣き声は世界一幸せな目覚まし時計だからむしろ聞きたいくらい」
「…………」
「………そんな“ビックリしてます”みたいな顔すんの酷くない?」
「……悟が、そんなこと言ってくれるとは……思わなかった」
「……まあ、前の人生だったら言ってないかもね。子育てしてる暇なんてなかっただろうし、そもそも僕の血を継ぐ人間ってだけで生きるリスク高すぎるせいであの世界に産み落とされんのもたとえなまえの子だとしても……いや、だからこそ。ある意味可哀想だし」
「…………そんな風に、言わないでよ」
「事実だからね、仕方ないよね」


複雑そうに表情が歪んで、親指に長いまつ毛がしっとりと羽を下ろす。─あぁ、僕が失言して拗ねるときの顔だ、これ。表情筋の使い方さえ変わらないことになんだか笑えてきてしまう。…多分今笑ったら、碌でもない展開にしかならないから笑わないけど。
生きた次元が変わろうがどれだけ年を経ようが、脳裏に刻みつけられた『彼女』と同じ輝きを内包し、夜明けを迎える直前のような冴え冴えとした瞳が睫毛と睫毛の隙間から覗く。

下瞼に触れていた指の腹で頬を撫で、シャープなフェイスラインをなぞる。怪訝そうに見上げてきた彼女の唇にそっと触れるだけのキスを落としてから、起こさないように気をつけながら“彼女”を受け取って、先程足を捻ったベッドに逆戻りしてゆっくりとおろしてやった。まんまるの額に同じように触れるだけのキスを一度送れば、穏やかに眠る彼女が立てる小さな寝息が鼓膜をくすぐってくる。……かわいいな、やっぱり。
そういえば部屋の中に響き渡っていた耳障りだった雷の音は遠ざかり、窓を割らんと叩きつける雨風も随分とマシになっているらしい。すうすうと小さな吐息がはっきりと聞き取れて、まだまだ短い髪の生えた柔らかすぎる頭をひとなでしてから今度は、僕と彼女の様子を見ていたなまえに手を伸ばした。


「おいで。今日は僕が“川の真ん中”ね」
「…それ、もう“川の字”じゃないよ?それに………、」
「んもー心配しないでいいってば。明日は台風でお互い仕事もなくなったしゆっくり寝よ。それに僕だって寂しいんだから、なまえ不足何とかしてマジで」


ここまできてもまだ僕の向こうの“彼女”を気にして逡巡しているなまえの手を引いて、腕の中に力強く引き入れる。さっきまで一人で包まっていたブランケットの中に二人、隙間もないくらい密着すればようやく観念したのかおずおずと背中に腕が回された。


「あー…、生まれ変わってよかった」
「……しあわせ?」
「ん、もう絶頂?なまえとなまえそっくりのこの子に挟まれるなんて今両手に花じゃない?僕。でもまだまだいい事あるかもって思うあたりが僕なんだよねー」
「ふふ…、うん、そうだね………悟の強欲なところ、昔から好きだよ」
「クク、なまえってさ、変わってんね」


うつらうつら船を漕ぎ始めたなまえの背中を“彼女”にしてやるみたいに優しくあやしていた自分の手に気づいて苦笑してしまう。
随分優しくなった触れ方に、そういえば昔は彼女にどんな風に触れていただろうかと“思い出そうとして”いることに気づいて、少し愕然とする。
─思い出そうとしなくても、何かの折にふと自然に脳裏によぎっていた光景が、砂嵐に呑まれたように風化され始めていることに気付かされた。


「………さとる?」
「……いや、何でもないよ」
「……なにか、心配事?よしよし、だいじょーぶ、だよー……」


今にも落ちそうになっているとろんだ瞼を無理に開いて、ゆっくりと僕の頭を撫でてくるそのなまえの手つきも、まるで赤子をあやすそれそのもので思わず笑ってしまう。
風化させてしまうには惜しいほど、強烈に鮮烈に魂を焼いた愛という感情が芽生えたのは確かに前の人生で、お互いそっくりに違いないけどこの器ではない。あの時代がなければ、呪いにも似たあの悔恨を拗らせていなければきっと今こうして幸せに浸っていることもできない訳だけれど。忘れた頃にフラッと脳内に現れて僕の寂寥感を撫でていく亡霊を必死に懸想するものでもないなと諦める。今は、もう。無意識に喪失の危機感を知らせた体のどこかの機能が無遠慮に記憶を必死に手繰り寄せて慰めてもらう必要もないのだから。僕には今、この手だけじゃなくて、指を添えれば必死にしがみついてくる小さな手もそばにあるのだから。



「ありがと。眠いでしょ?早く寝な」
「………ん、さとる、だいすき……、おやすみ、」
「うん、おやすみ」


どこぞの猫型ロボットに依存する眼鏡かけた小学生よろしくおやすみ三秒で寝息を立てるなまえにつられるように僕も瞼を閉じた。途中何度か『世界一幸せな目覚まし時計』に呼び起こされながらも、最終的には小さな足による可愛い攻撃力の一撃を頭に受けて迎えた朝は、昨夜までの酷い天候はどこへいってしまったのだろうか。あ…これ休み返上的な感じじゃない?台風一過がまさにピッタリと当てはまる、残暑の気配も一緒に巻き上げてしまったような爽やかな朝日と共に目が覚めた。やはり肩までかけたはずのブランケットは、はだけるどころかいつのまにやら取り上げられて今にもなまえの向こう側のベッドサイドからほとんどフローリングに落ち込んでいるくせに彼女はコアラのように僕にしがみついている。二人してどんな寝相だよと笑ってしまいそうになった。それでも、体に寄り添う両脇の暖かな気配のあまりの心地よさに思わず埋もれてしまいたくなる。カーテンの隙間から漏れる朝日が反射して発光して見える肌、嗅ぎ慣れた淡い柔軟剤の匂い、身じろいだら足首が少し痛くて笑えた。ヤベー、僕、多分今めちゃくちゃフツウノヒトだ。本当に。
圧倒的普遍的事象に幸せを感じてしまっている凡人思考に笑いを禁じ得ない。
ありふれた日常の取り留めもない瞬間が、1秒でも見逃すのが勿体無い幸せのサービスショットのようで、これじゃあどれだけ出来のいい脳をもってしても容量不足必至だわなあ、とやっぱり諦めがついた。


「愛してる」


僕はもう随分と長い付き合いになったマネージャーにごめんねなんて思ってもないし聞こえもしない謝罪を内心で吐露し、枕元で充電されていたスマホの電源を落とした。そして、まだまだすやすやと気持ちよさそうに眠りを享受している温もりをもっと近くに引き寄せてから、もう一度、目を閉じた。






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