変わったことと、変わらないことと

「あ゛?気のせいかと思ってたけどもしかして昨日馬鹿みたいにあんあん喘いでたのオマエ?朝から最悪の気分なんですけど」


バキバキの体を奮い立たせて急遽泊まってしまった予定外のビジネスホテルから一歩足を踏み出した瞬間、タイミングよく隣のドアも同時に開いたようで隣室の客が出てくる気配に若干の気まずさを感じたのもコンマ数秒、見慣れた、という訳でもないけれど、見知らぬ人ではない旧知の知人の姿に“ああ、そりゃあ相方なら部屋も隣だよね”なんて勝手に納得している間に目があった青い双眸が不機嫌を露わにしたのが見えて、妙に嫌な予感が背後を伝った。
ギロリ、という効果音がまさに似合うような鋭すぎる蒼い瞳に射抜かれて、思わず目を逸らす。
…眼圧がヤバい。目が合うだけで呼吸を止められそうな圧だ。再会してからというものの物腰が知ってるあの頃より幾分かやわらかくなり本当に同一人物なのか疑わしいな、なんて思っていた『あの』、『当時の』、不遜という言葉が似合いすぎる先輩然とした目つきの悪さと不機嫌を隠しもしないその態度に、“ああ、やっぱり五条先輩は五条先輩なんだな”なんていまさら極まりないことを突きつけられた気がした。


「す、すみません………」
「オマエ昔から適当に謝る癖変わんないね」
「…………ぅぅ………」


そんなに怒らないでください、なんて言おうもんならその長すぎる足が飛んできそうな勢いの五条先輩の怒髪天を衝きかねないドスの効いた声に思わずたじろいだ。これが理不尽に裏打ちされた軽薄な怒りならどれだけ良かっただろう。こんなに恐怖に震えることはなかった。なまじ五条先輩の怒りが完全に私の隣で“悟、おはよう、いい朝だね”、なんて微笑んでいる(なぜこの状況で笑えるのか皆目見当もつかない)彼のせいであるということが明らかで、申し訳なさやら、恥ずかしさやらでもう兎に角消えて無くなってしまいたくなる。ぷるぷると体を震わせながら縮こまっていたら見上げると首が痛くなりそうなはるか上空からチィッッ!と手榴弾のコックが引き抜かれたのかというほどの舌打ちが聞こえた。恐ろしすぎて思わず腕まくりされたワイシャツの裾を握って広い背にかくまってもらおうと五条先輩から逃げるようにまだ長い髪のかかる影に隠れた。さすがの付き合いというか、ガンギマリしている五条先輩を前に笑ってみせる傑さんの度胸というかメンタルというか、全てに脱帽である。

なぜこんなに五条先輩を怒らせてしまったのかといえば、全ての出来事は昨日まて遡る。






「あ、みょうじさん、この前言ってたーー社の案件だけど……あ、……違った、夏油さんだったね、申し訳ない」

カラカラとした声色の課長の言葉にパソコンと睨めっこしていた顔を上げれば、メガネの奥のキリッとした視線が私の首からかかる社員証に移って、ハッとした様子でその呼び名を訂正されて私も苦笑する。
入社したうん年前から変わっていない少し初々しい自分が写っているのに、傷も経年劣化のすり減りもない、やたらと新しさを主張する再発行されたばかりのピカピカな社員証がひどい違和感をもたらしていた。


「いえ、慣れないですよね、私もまだ慣れてなくて、違和感だらけです」
「僕の奥さんも結婚した当初よく言ってたよ。どう?最近は色々、落ち着いた?引っ越しとかも大変だよね」
「……その節は、多々ご迷惑をおかけして、本当に申し訳ありませんでした」
「いやいや、まあ、部下が有名人と結婚するなんて思ってなくてびっくりしたけど。いろいろあるよね、生きてたら」


周りを巻き込んだ私たちの一悶着も二悶着もあった結婚事情。炎上の勢いにまかせて、というか燃え盛った炎にガソリンぶちまける勢いで入籍を決行してすぐは、社内でもその話題が暫く広がり続けた。動物園のパンダを見にやってくる見物客のように私の周りにわらわらとできた人だかりをそれとなく制してくれた上司には頭が上がらない。
人の噂は七十五日、を念仏を唱えるように日々過ごしたことが功を奏したのか、ひっそりとした結婚式を終えた頃には世間様も周囲も最近は話題に飽きてしまったのか表面上では燃え盛る炎も鎮火されたようで。

そんなこんなで──、前世を思い出して、その当時生きた記憶と組み合わせれば数えたくないほどの年数慣れ親しんだみょうじなまえという名前は一部を脱皮した。苗字が変わる、というのは手続きや周りからの反応も思っていたよりも気苦労が絶えない。なんと表現すればいいのかわからない気恥ずかしいやらくすぐったいような気持ちに襲われたし、パソコンをタイプするたびに視界に入る真新しい輝きを放つシンプルなプラチナリングのおかげで、本当に『あの夏油先輩と私結婚したんだ……』という積年の夢が叶ったような幸福感もあって、最近はずっと心が跳ね続けてるみたいにソワソワして全然落ち着かない。…ソワソワしているのは、記憶を取り戻してからずっとかもしれないけれど。


「最近根詰めてよく残業してるけど、新婚は今しかないからね、帰れる時は帰りなよ。有給も全然申請してないけどちゃんと消費しないとね。…ほら、今時は僕が怒られちゃうから。上から。」
「…はい、ありがとうございます」


確かに最近はわかってはいても仕事が忙しくて帰りの遅い彼のいない広い部屋に一人になるのが何だか嫌で、できる仕事をぎちぎちに詰めすぎていた。毎日エナジードリンクをチャージしすぎているなあとも思っていた。今までのように隣の部屋で会える時に会う、別の生活であることを自覚していた時はこんなことは思わなかったのに、家族となって同じ家に住むようになると途端に一人が寂しくなるなんて。…そもそも一緒にこれからの人生を歩むことができるだけでも幸せなことなのに、それ以上を少しずつ求めすぎている自分の強欲さといえば目も当てられない。

今日も大阪のお笑いライブに出演し、明日はそのままローカル局で生放送の収録があるとかで泊まりだと言っていたし、大人しく家に帰っても彼は帰ってこない。いつからちゃんと顔見てないかなあ、と思うとどうしようもなく心が深海の奥深くまで沈殿していきそうな気分になる。それなら仕事を、と思っていたけれど上司から遠回しに『もう帰りなさい』という指示を受けてしまえばそのまま急ぎでない仕事をするのも角が立ってしまうし。「キリがいいところで帰ります」と伝えると課長は満足そうに笑って席を離れていった。


人工的な光の三元色を放つ、目を差してくるような眩い光を遮断するようにPCを落として、まだフロアに残る面々に「お疲れ様でした」と挨拶しながらエントランスホールを抜けると、プライベート用のスマートフォンが小気味良くジャケットのポケットの中で音を立てた。ディスプレイに表示される『傑さん』の文字にさっきまで沈んでいた心が急浮上してくるのだから、自分の単純さに笑ってしまう。
私の行動を手持ちの呪霊か何かでどこからか監視しているのかと思うほどタイミングよく退勤して会社から一歩外に出た瞬間に鳴ったスマートフォンに、思わず背後やら上空やらを見上げてみるけれど、やっぱり呪霊なんてものはこの世界にいなくて、たくさんのビルの隙間から星の見えない闇空が広がっているだけだった。通行の邪魔にならないよう壁際に寄って、通話ボタンをタップする。


「もしもし、傑さん?どうし…」
『なまえ、仕事終わった?ごめん、本当申し訳ないんだけど今から東京駅来れるかな』
「…………はい?」
『火急の案件で、今すぐ大阪に来て欲しいんだ、……だめかな?』
「お、大阪?いや、私、今会社出たところで、着替えも何もないんだけど、明日も仕事だし………」
『…………そうだよね、……すまない、少し………、いや、何でもないよ。君も疲れてるところ悪かった』
「え、え?、何かありました?」
『…うん、………もう無理かもしれない、』


電話に出るなり間髪入れずに自分の要件を伝えてくることに驚く間も無く、いつも飄々としている彼のらしくない気弱な声色に在りし日の顔を青ざめさせながら呪霊を飲み込んでいた日々を思い出してスマホを持つ指先から血の気が引いていった。

最近は、相変わらず忙しそうだけれど前世の辛そうだった酷い顔色なんてとんと見なくて、五条先輩と楽しそうに仕事をしている姿ばかり見ていた気がしていたから、油断していた。彼の口から『無理』なんて言葉が出てくるなんて。相当な何かがあったに違いない。…まさか、五条先輩に何かあったとか?いや、それなら何かしらニュースになっていてもおかしくない。やっぱり忙しすぎて体調でも崩してしまったのだろうか。顔を合わせなさすぎて、やっと妻になったのにそんなことも把握できていない自分が歯痒くて、だけど何も教えてくれなかった前回とは違って辛い時に頼ってもらえたのがどうしようもなく嬉しくて、選択肢なんて一つしかなかった。


「わかった、行く、行きます!」


私の返事に対してホッとしたような柔らかい声で電話の向こうの傑さんが嬉しいと笑う。行くと決めたからには居ても立っても居られなくて、電話を切ってすぐに肩にかけていた通勤用のバッグの細い紐をぎゅうと掴み、パンプスにねじこんだつま先に力を入れて道路をびゅんびゅんと駆けていくタクシーを何とか拾って飛び乗る。

タクシーの運転手さんを少し催促して、制限速度をやや超越していそうな風を切る車窓から、横切り鮮やかな線を描く電飾を眺める。思ったより早く着いた東京駅は、新幹線の最終にはまだ幾分余裕のある時間。まだ週末まで一日残った平日の夜、道ゆく大きな荷物を抱えた人で賑わう八重洲口。軽装な自分のアドバンテージを生かして人の合間を縫うように早く早くと抜けていく。

一番最速のチケットを購入して勢いよく車内に乗り込んで明日の東京行きの電車の時間を調べて明日の行動を逆算し始めてからはたと自分のフットワークの軽さに驚く。
新幹線に乗ってしまえば到着するまで待つしかできることはないのに、指定席もちゃんと取ったのに、座っていられなくてドア付近でスマホを固く握りしめながら街並みがめくるめく変わっていく様を見つめ続ける。
人を好きだって感情は怖い。だって私、予定もないデートとか合コンとか飲み会にその日突然誘われても昔だったら気分じゃないって断るタイプだった。ましてや明日はまだ仕事があるのに、ホームでも勝手知ったる街でもなんでもない旅行レベルの移動に仕事着のまま新幹線なんか乗っちゃって、着替えどころかスキンケア用品も持っていない、メイクポーチも化粧直し程度のものしか入っていない状態でこんなことをする日が来るなんて。計画性のないことなんてやるタイプじゃなかったし、コンビニの慣れてない化粧品や可愛くもなんともないシンプルな下着で間に合わせようとする自分が自分で信じられない。彼氏に浮気されたって揺れ動かなかった心が、好きな人からの電話一本で平静を装っていられないくらい動揺して、着の身着のまま新幹線に飛び乗ってしまっていることに、本当に厄介な男の人を好きになったことを自覚する。

トンネルに入った途端詰まったような耳の違和感。顰めた自分の顔が映る窓を見つめながら耳抜きをすると、閉塞感からは解放された。だけどずっと耳にへばりついたみたいに厄介な男の人の弱った声が鳴り続いていた。



─そしてやってきた大阪。

「……ほんとにきちゃった」

アプリと駅構内の乗り換え案内を交互に見比べながら何度か出張で降り立ったことがあるとはいえ慣れない駅に四苦八苦しながら新幹線のホームを抜ける。大体の人々も同じ行き先なのだろう、同じように動く人波の方向に自分の目的地があることに安堵してそれに続こうとすると、東京よりも1.5倍ほどは早い気がする人の流れに後ろから煽られているような気がして、パンプスを動かす足が勝手に早くなった。

「なまえ!」

不意に流れる人波を断絶するように横から割り込んできた真っ黒な何かが視界に映り、自分の名前が聞き慣れた声で呼ばれて思わずギョッとする。体が反応するより早く、空を彷徨っていた腕をぐいっと引っ張られて、いくら営業で履き慣らしているとはいえ予想外の方向からの衝撃に耐えられなかったパンプスが歪み、身体のコントロールを失った。かろうじてつま先に引っかかっているくらい脱げ落ちかけたパンプスのせいで重心が崩れた私を支えるように、覚えのありすぎる腕に抱かれて、覚えのありすぎるいつもつけている香水の香りが鼻腔をくすぐってくる。混乱の最中にいるはずの脳は思考が追いついていないはずなのに会いたい人に会えたことに安堵しているのか指先が勝手に緩いトレーナーの裾を掴んでいた。


「あ…、」
「会いたかった」


目深に被られたバケットハットのつばに遮られた視線は、体を引き寄せられたことでその全貌が見て取れる。出会った十代だったあの頃よりずっと長い間一緒に過ごせるようになったって未だに目が合うときゅうと心臓が疼く瞳に見下ろされて、恋に恋する女子高生のようにドキドキしてしまう。いい歳して私何してるんだろう。馬鹿かな?馬鹿なんだろうなあ。


「す、すぐ…っ!………る、……さん、」
「フ…、うん、君の傑さんだよ。…もっとはっきり呼んでくれていいのに」


すっと通った鼻筋を隠しているはずのマスクをずり下ろして、鼻先を合わせるように含み笑いを漏らした傑さんが目尻を柔らかく下げて微笑む。
今にもキスしそうなその距離感に慌てて彼の指先がかかったマスクを引き上げて顔を隠した。キョロキョロと周囲を窺えば鬱陶しそうな顔でチラとこちらを見ては足早に目的地へ向かう人ばかりでホッと胸を撫で下ろす。


「………久しぶりに会えたのに、どうして周りばっかり気にするんだい」
「だ、だって、こんな人の往来で…誰かに見られでもしたら、」
「…………夫婦なんだからいいじゃないか。寧ろ売上が伸び悩んでる週刊誌に恩恵を与えることができて感謝でもしてもらえそうだ」
「……なんてことを…………」
「そんなことより、明日も仕事だろう?時間ないから早くどこかいこう、食事はした?…あれ、靴脱げかけてる」
「じ、自分でやるから…!!」


飄々とふざけたことを薄い唇に覆われた口から吐いて、息ができないほどの力強い抱擁をしたと思えば足元に傅いて脱げかけのパンプスを履かせてこようとするのにこれ以上目立ったら敵わないと慌ててつま先をパンプスにねじ込んだ。少し不満そうにしながらも、次の瞬間にはケロッと私の手を引いて「何食べたい?地元の“オニイサン方”に美味しいところいろいろ教えてもらったんだよ」と微笑む、どこからどう見ても元気そうにしか見えない傑さんの様子になんだかドッと疲れが足腰にきた気がした。

うまく指摘することができない『ずるいところ』がある傑さんに今回もしてやられたな、とすぐに悟った。

とはいえ、自分がいかに有名人なのか、そこに存在するだけでいかに目立つのか本当にまだわかっていないのだろうか。幾度となく傑さんの立場に振り回されてきた身としては視線が鋭くなることも許して欲しい。
集まり始めている気がする周囲の視線も、私からのジト目も気にする素振りなく「こっちだよ。なんか旅行に来たみたいでわくわくするね」と、見慣れないはずこ街を我が物顔で闊歩していく傑さんのせいで、なんだか周りを気にして萎縮しているのがバカらしくなってくる。

傑さんは大丈夫なの、電話で言ってた火急の案件って何、何かあったの?とか言いたいことはありすぎるのに、ぎゅうと握られた手から伝わる体温のあたたかさとか、目深にかぶった帽子から覗く優しすぎる目元だとか、ただ歩いてるだけなのに「楽しいね」と微笑む彼に絆されてそんな追及の言の数々はみるみるうちに空気が抜けてしゅるしゅると萎んでいってしまうのだから、ほんとうに、本当に厄介な人を好きになってしまった。…私だって、寂しかったのだ。早く会いたいと枕を抱きしめながら広いベッドで一人うずくまるのは、うんざりだった。

「美味しいもの、食べたい、です」
「うん、食べよう」
「…たくさん、話したいことも、あるし」
「うん、全部聞くよ」

寂しい思いさせてごめんね、忙しいのに来てくれてありがとう、明日スタジオに早朝入りしないといけなくて東京には戻れなくて、でもなまえにどうしても会いたくて、ごめんね、と眉を下げる傑さんが、指先を絡めてさっきより強く私の手を握る。─……ああ、私、この人のこと、大好きだなって何度目かわからない感情を自覚させられた。







「………傑さん、愛してます」
「……え?」
「…………言ってみただけ」


無駄に派手な色で、スーパーよりは小さなサイズのカゴの持ち手が大きな手に握られているのが少し可笑しかった。おままごとみたいで。
…確か昔も同じことを思った。先輩の部屋にみんなでぎゅうぎゅうになりながら集まって夜通しゲームした日に、なんだか口寂しくなって夜中に先輩と寮を抜け出して、お菓子やらアイスやらカゴにパンパンに詰め込んで、私はわざと財布を持ってこなくて。全部お会計先輩持ちにしようとしてたら先輩は当然のように私にお金を催促することもなく全部払ってくれたっけ。
持ち手を掴む指に、まだ傷の一つもついていない真新しいプラチナリングがはまっているのが見えた。自分の薬指にはまるそれと同じデザイン。カゴの中にはあの日みたいに溢れんばかり物が入ってるわけじゃなくて、ベージュカラーのかわいくもなんともない下着や、普段使っていないメーカーの急拵え用の基礎化粧品なんかの必要最低限のものがちらほら入っている程度。「突然外泊することになっちゃった」とも言いたげな青春真っ盛りの若者のようでいささか恥ずかしい。あの日と同じようなシチュエーションなのに、あの日と全然違う。私たちは呪術師でもなくて、呪いなんてこの世になくて。だけど大人にはなっていて、先輩はなぜか芸人をやってて、私も先輩も死んでなくて、同じ時間を共有して生きている。幸せの象徴のようでもありながら、決して日記に記すほどでもない取り留めのない日常の一幕。

嫌でも、こんな幸せな日々にいつか終わりが来ることを思い出した。
もう想いを告げない後悔なんてしたくないと、自分が一番思っていたはずなのに。彼が芸能人であることを未だに気にして遠慮して、もし明日死んだら、私、後悔しないだろうか。

煌々と輝くLEDライトの下で足元マークの上に行儀良く並んで順番を待っている今、明日の天気は晴れかなあとも言いたげなサラッとした愛を囁いたのは自分の口で、自分でも何でこんなタイミングなんだろうと少し笑えてしまう。
さっきまでいた、頬がとろけそうな美味しいお肉を食べてた雰囲気の良い鉄板焼き屋さんの方が間違いなくその場に相応しい言葉なはずだったのに。私がポロッと落とし物でもしたような愛を囁いたのはどこにでもある二十四時間営業の深夜バイトくんがレジ打ちをしてる順番待ち中だった。
さすがの傑さんだってびっくりして固まってしまっているのが見えて恥ずかしさが助長されたけれど、言ってしまったからにはなぜか後には引けないというプライドに背を押されて、彼の半歩後ろに下がっていたパンプスのつま先を寄せ、カゴをぶらさげた腕を絡めとる。


「………珍しいね。ベッドの上ならまだしも外にいる時にこんな風に甘えてくるのなんて初めてじゃないか?少し目を離した隙に何かと入れ替わった?」
「…………そんな呪いみたいなこと、“今”は起こらないでしょう?…なんだか、遠慮してるの、勿体無いと思っちゃって。今日は甘えたい気分なんです。…いや?」
「…………参ったな。明日始発で帰るんだよね?」
「………そんなの、傑さんだって明け方には仕事行くんでしょう?一緒に起きたら間に合うから大丈夫」
「…私は寝ずに行けばいいけど、君は大丈夫かなって意味で聞いたんだけど」
「……え?寝ずに?」
「言っとくけど、なまえの方から煽ったんだから責任は取らないといけないね。…何を不安に思ってるのか知らないけど、後で全部吐いてもらうよ」


本来なら竦み上がってしまうようなそのセリフに浮かされてきゅんと心臓が高鳴ってしまうのだから、きっと私の頭のネジも傑さんのせいで弾け飛んでしまっているのだろう。馬鹿だ。
いつもなら手早く感じるはずの、レジでのやり取りがやけにゆっくりに感じる。見知らぬ街を歩いているせいか、どこに向かっているのかわからない目的地までの距離がやけに長く感じて無駄に「まだつかないの?」と聞いて傑さんに笑われる。
最終的にはようやくたどり着いた傑さんが宿泊しているというホテルの部屋の扉が閉まり切るのを待っていられなくて、隙間なんてないくらいに抱き合って唇に飛びつく。何度も何度もキスをしながらベッドに勢いよく二人で飛び込んだ。
どろどろに甘やかされながら詰問されたせいで洗いざらい思いの丈をぶちまけさせられたあとは泣いてよがって、死にたくないずっと一緒にいたいと喚く私を、傑さんは大丈夫だよ、と宥め続けてくれた。

─そんな風に過ごした夜が薄っぺらい愛情表現で済むはずがなくて。そんな声が隣の五条先輩の部屋にまで筒抜けているなんて思ってもいなかった。
ガンギマってる五条先輩のブチギレご尊顔と頭が痛くなるほどの説教に過ぎし日の青春時代が頭によぎって反射的に逃げ出したくなった。つらつらと連ねられる騒音に対する粘着的なまでの苦情の嵐に私の思考回路はショート寸前。

…いやいや、壁薄すぎない?ホテルの隣の部屋のそんな声普通聞こえる?売れっ子芸人なんだからもうちょっといいホテルに泊まっても良くない??え?芸人のそういう事情って噂通り結構シビアなの??そんなに私声出してた?え?じゃあ今のマンションはどうなの?え?─内心はカオス極まりないけれど、もうとにかく五条先輩に合わす顔がなさすぎて穴があったら入りたい、むしろ今すぐ穴掘って消えてしまいたい。
─というか、こんな話、とてもじゃないがホテルのロビーでする話じゃない。早く呼んだタクシーがくるか、二人のマネージャーさんがきてほしい。昨日はあれだけ傑さんと離れたくないと思っていたくせに、今すぐ尻尾巻いて東京に逃げ帰りたい。


「……そんなに怒らないでくれ、悟。なまえが萎縮してる」
「………あ゛?誰のせいだと思ってんの」
「………悟が禁欲を強いられてるのはわかってるけどさ、私たち新婚なんだよ。連日連勤で地方ロケ続き、碌に奥さんに会えなくて暴走しちゃう男の気持ち、君が一番よく知ってるだろう?」
「は?僕だって彼女に何日会えてないと思ってんの?ていうかどんだけセックスできてないと思ってんの?毎日ヤりたいヤりたい喚いてる僕のこと知ってる癖に自分の嫁の喘ぎ声苦しんでる相方に聞かすってどんな嫌がらせ???」
「別に聞かせるつもりで聞かせたわけじゃないし頭ぶん殴って忘れさせてやりたいぐらいだよ。それに悟だって彼女と結婚してすぐは毎日毎日聞いてもいないのに彼女との夜の事情を明け透けに語ってきてたくせにさ、たかが昨夜一晩私たちの甘い声が聞こえただけでそんなに怒らなくてもいいじゃないかと言ってるだけだよ。そもそも君の奥さんが妊娠中なのは私たちにあたっても仕方ないことだろう?自分は満足にセックスできてないからって私たちに当たらないでくれ。大人になったかと思ったけどやっぱりすぐにカッとするところ全然変わってないな」


クククと笑みを噛み殺しながら悟はやっぱりいつまで経ってもガキだね、愛想つかされないといいね、なんて笑う傑さんの言葉に流石に私も凍りつく。

…なぜ火に油を注ぐようなことを…?!

今にも一戦交えそうな五条先輩の恐ろしい顔に本能的に後退りすればなぜか鋭すぎる青い瞳に射殺さん勢いで見下ろされて体が硬直した。

「こっちだって疲れてんのにさ、夜中に聞きたくもねー汚い喘ぎ声聞かされる僕の身になってくれる?ここ家じゃねーの!ホテル!つーかどんだけ激しいセックスしたらそこまで薄くもない壁超えてくんだ馬鹿!つかオマエ仕事は?今日平日ですけどー?そのへんのOLは汗水垂らして働く労働日ですけどー!なんでオマエ大阪なんかにいんの!」
「─聞き捨てならないな。汚い喘ぎ声?可愛いの間違いだろ。」
「どこがだよ。ガキみてーに泣かせて興奮するとかオマエマジで性癖歪んでない?オマエこそ離婚されないように気をつけろよ」


プツン、何かが切れるような音が聞こえた気がした。
あ。と思うまでもなく怒り心頭の傑さんの顔を横目に見て何となく次の傑さんの言葉が予想できた。


「……外で話そうか、悟」
「ハッ?相変わらず寂しんぼか?一人で行けよ」


もう呪力なんてないはずなのに彼らの体に漂うオーラは一体何なのか。もう三十路も過ぎたいい大人なのに、一度生まれ変わった身のくせに、あの頃と変わらない子供のような喧嘩を始めた二人に呆れと少しの微笑ましさが胸に巣食う。状況としては『私のために争わないで…!』なんてある意味では言ってしまえる夢のような状況ではあったけれど、そんなことを言って仕舞えば今度こそ五条先輩に殴られそうである。興味本位でそんな地雷をわざわざ踏みに行くほど馬鹿ではないし時間もない。
五条先輩の注意がそれた隙にタイミングよく到着したタクシーに乗り込んですごすごと東京に逃げ帰り、ギシギシの体で何とか仕事をこなしていると、傷だらけの二人がお互いにそっぽ向きながら関西ローカルで放送されているらしい朝の情報番組に生出演している映像がSNSにトレンド入りしていて、思わず笑ってしまった。


…ただ、なんとなくだけれど。きっと何度死んでも彼らは生まれ変わってこうして喧嘩しているところが想像できた。ただ願わくば、何度死んでも生まれ変わって、違う姿になっても彼のそばにいられたらいいな、と思う私は異常なのだろうか。


「………おかえり、なまえ。勝手に帰るなんて酷いじゃないか」


仕事を終え、自宅に帰ると珍しく傑さんが先に帰っていた。
もちろん、何も言わずに勝手に東京へ帰ったことにしばらく傑さんが拗ねてしまい、手がつけられなかったけど、それはまた別のお話。



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