いつからかはわからない

父親であり当主からの珍しい連絡になんとなく芽生える嫌な予感。電話越しの要件に真っ先に感じたことといえばああ、やっぱりな、くらいのものだった。何か言いたいことはあるかと確認してくるその声に、真っ向から嫌だと突っぱねてやりたいのに、昔よりはマシになったものの『家長には逆らってはならない』という長年脳の中枢に染み付いた固定概念が私の口から拒否の言葉を発する指令にエラーをかける。黙ったままの私に痺れを切らして通話が終了したスマホをただただ呆然と見つめることしかできなかった。


「結婚、……」


突然この身に降りかかってきたその話は、私が受け入れたかどうかなど関係なく着々と準備が進んでいく。
後日送られてきたずいぶん達筆で書かれた釣書はちゃんと見なくても既に存じ上げていることばかり並べられていたので早々に封筒にしまった。
相手は我が家と似たり寄ったりのそこそこの呪術家系の三男坊。名前も顔も知っている男だ。相伝術式を継いでいるとかで長男を差し置いて次期当主と名高い男。幼い頃から何度か顔を合わせたことがある。…いけすかない男だ。女は黙ってついてこいといういかにもな呪術家系ならではの思考を地でいく男。もしかしたら将来は私の相手に、となんとなく生まれた時から決まってたことなのかもしれない。それがなんで三十路を迎える手前でこうして話がまとまったのか、というと私の父親が、わたしの元同級生であり、是が非にでも縁を繋ぎたいらしい相手と私が『良い仲』であると勘違いしていたためだろう。

先日嫌々実家の敷居を跨いだ際に当主から言われた『五条悟とはまだ結婚しないのか』と言う質問に顎が外れかけたのは記憶に新しい。これでもかと当主の誤解を解いた私のあの時の判断は、もしかすると悪手だったのかも。彼には悪いが隠れ蓑にさせてもらっていればもう少し自由を謳歌できたかもしれない。

私の返答に見たこともないぐらい憤慨していた当主は、このままではまずいとでも思ったのか、三十路を迎える前に私の婚姻を計画した、そんなところか。かくいう私は高専所属の一級術師─おおよそ向こうは質の良い孕み袋とでも思っているのでは。…でもまあ、あの家に女として産み落とされた時点でそうなることは既定路線だったはずだ。本来ならもっと早い段階、それこそ16で嫁に行った姉様方と同じように高専なんて行かずに今頃野球チームでも作るのかというくらい子供を産まされて憔悴していたかもしれない。
二十代後半までこうして放置されていたのは私が『術式』を開花させて一級術師として高専でバリバリ働いていたこととくだんの『五条悟』と存外馬があってパーソナルスペースの近すぎるあの馬鹿のせいでたびたび浮上する『噂話』を信じていた当主の愚かな判断と言わざるを得ない。


「…はあ、」


自分が誰かと結婚して、その誰かとの子供を産むかもしれない、という未来が全然想像つかない。というか愛してもない相手との子供を産まされて、愛せるのだろうか?高専に入学せず実家で呪術師となるべく教育されたらこんなことを考えることもなかったのかもしれない。今思うと私が珍しく高専に入学させられたのは五条とたまたま同い年の娘だったからなのかも。…まあ、そんなこと知ったこっちゃなかった私は十年以上も実家から離れることができたし、そのおかげで呪術家系特有の『固定概念』という呪縛からも逃れて自由を満喫できた。…寧ろ私のことなんて忘れているのだろうかというくらい最近は実家から音沙汰がなかったのに……。数ヶ月後には顔と名前以外知りもしない男と結婚………結婚、ということはもしかしなくてもセックスしないといけないわけで……………考えただけで鳥肌が立つ。駄目だ、気分が悪くなる。やめよう。考えるのをやめる。…あー、実家に隕石でも降ってお家取り潰しになって結婚も破談にならないかな、なんて非現実的すぎて笑えてしまうことまで考えた。現実にそうなってほしいというわけではない、所謂逃避だ。逃避、逃避、逃避。…いや、本当は内心の九割九分九厘がそうなって欲しいと心から願っている。実家から来る連絡も無視し続けた。拒否はしてないけれど了承もしていない、無言の抵抗というやつである。だけど実家から送られてくる連絡はどんどん具体性を増していく。結納がどうたら、とか結婚式の日取りがどうやら、白無垢をあつらえてやった、だとか。顔合わせも何もかも一度も出席しなかったのに、どうやら結婚式は決行されるらしい。結婚式もブッチしたらどうなるんだろう。勝手に籍だけ入れられたりするのかな。……しそうだ。ここいらが潮時なのだろう。逆に女の立場でありながら十年も好き放題外の生活を楽しめたことに感謝をするべきなのかもしれない。









「結婚やだあ、したくないよう、もうやだ、明日なんて一生来ないでぇぇ…」


前言撤回、結婚なんて絶対に嫌だ。ゴリゴリ呪術家系の男尊女卑思想ど真ん中ストレートをキメる、女を孕み袋にしか思ってない男に、夫の一歩二歩下がってついてこいとか言われるなんて実家から十年以上離れて正常な世情を身につけた私には耐えられない、まっぴらごめんである。普段なら飲まないアルコール度数の高いお酒の入ったグラスを傾けては喉を灼いてグラグラ揺れ始める世界に落ち込んでいく。飲まなきゃやってられない。明日は好きでもない男との結婚式だ。飲んで飲んで飲んで、眠ったままブッチしてやりたい。もしくは新郎になる男にゲロでもぶちまけて破談にしてやりたい。ヤダヤダヤダ明日なんて一生来ないでほしい。悪酔いしている自覚がある。ボロボロと泣きながら永遠に止まらない愚痴を同僚に漏らせばバーカウンターの隣で私より飲んでるはずなのに顔色の変わらない同僚が困ったように笑っていた。


「ここは奢るから好きなだけ飲め」


今までどんなに辛い任務に当たっても人前で泣いたりなんてしなかったのに、泣き崩れる私にそう優しく声をかけてくれる同僚兼元同級生兼親友の硝子が心底私を悲痛な面持ちで見下ろしていた。絶対クソみたいな家系の呪術師と結婚したくない同盟を結んできた同士だ。私の気持ちをこれ以上に理解してくれる存在などいるはずもない。おいおいと泣きながら硝子に泣きつけばよしよしと慰められた。泣きすぎと飲み過ぎで頭が割れるように痛い。あと何杯か同じものを飲み干したらリバースしてしまいそうなくらいには酔っている。


「…それにしても突然決まったな」
「……うん、当主が、五条との仲を誤解してて…、」
「…ああ、成程」
「…………これなら五条と結婚した方がマシ……」
「じゃ、出しに行く?婚姻届」


突然空から降ってきたような軽い声に驚いて机に突っ伏した頭をあげようとしたが、頭が重すぎて上がらなかった。聞き覚えのありすぎる声の主が私の無様な姿をケラケラと笑っているところまでなんだか想像できてしまって、確かにいっそこの状況を五条にでも笑い飛ばしてもらえた方が気が楽だなあ、なんて考えたらまた涙腺が緩んだ。
昨日五条にラインした時は今日出張だって言ってたし、どうせ空耳だろう。幻聴と幻覚まで脳内で自動再生してしまった自分に呆れてしまう。…あー、五条か、五条と結婚………ありかも………。
…なんだかんだ一緒にいると楽しい五条とだったら、まあいろいろクズなところもあるけれど、あんな人間扱いしてくれないような家に嫁ぐよりも数億倍楽しい結婚生活を送れそう。五条が私と結婚したいかどうかはもちろんさておいて。


「五条と、結婚したかったなあ………」


そう呟いてから今更、あれ、もしかして私五条のこと好きなんじゃ…なんて血迷ったことを考えてしまって、その上明日の予定を思い出して急に飲み食いしたもの全部吐きそうになった。…ハハ、今そんなことに気づいても手遅れにも程があるし、そもそも私なんかが五条と結婚なんてできるわけないのに。恋に気づいた瞬間失恋するなんて間抜けにも程がある。頭が割れそうなくらい痛い。今眠ってしまったらきっと明日の朝には起きてしまうだろう。…独身最後の日くらい、みんなに挨拶して回りたかったな。どうせもう高専所属ではいられないだろうし。ああ、いやだなあ、いやだ。十年以上身を置いた場所から去るというのは存外寂しい。…本当に、最後くらい、五条にバイバイって、言いたかった、かも。


「…そういうことは、ちゃんと面と向かって言おうよ、なまえ」
「……なまえって趣味悪かったんだな」
「いやいやセンスしかないでしょ。最後に僕選ぶんだから」


あー、言ってそう言ってそう。すぐ調子乗るんだ五条は。二人とも私がいなくなっても仲良くやってよね、なんて思いながら漫才繰り広げている五条と硝子の妄想をして最後の一踏ん張りよろしく重い頭をなんとか持ち上げた。ぐらぐら揺れる視界の向こうで黒いアイマスク姿の五条が「起きた?すんげえベロベロじゃん」なんて言って笑ってる。そもそも寝てないし。ちょっとムカつくこと言ってくるあたりもすごい再現度が高くて、脳内五条の完成度の高さに笑ってしまう。ちょっとまって、一人で妄想して一人で笑ってる私やばくない?硝子引いてない?…あー、今日くらい頭おかしくなってても許してくれるかな。


「わたしとけっこんしてくれんの?」
「ん?いいよ。お前が突然昨日結婚させられるかもなんて連絡してくるから任務マッハで終わらせて焦って帰ってきた僕の健気ぶりどう?」
「んへ、ウケる」
「ウケるじゃねーよ。ほら、これ、名前書いて」
「なにこれ〜」
「婚姻届だよ。さっきお前が出すつったんでしょ?」


スッと差し出された地味な色の書類を見つめるが、グラグラする視界ではなんの書類かわからず任務報告書のようなそれをじいっと見つめれば脳内の五条が婚姻届だと宣った。
ええ〜ッ?!私こんなに具体的な妄想しちゃうくらい五条のこと好きだったの?!嘘だー?!
なんて叫びながらケラケラ笑えば誰かにボールペンを握らされて「ほら、ここ、みょうじなまえって書くんだよ」と誘導される。
なんで目の前に急に婚姻届もボールペンも出てくんの?ここまでいったらもはや妄想じゃなくて夢か。私飲みすぎていつのまにか寝ちゃってたんだな………。
ほら、ここハンコ押して。と差し出されたそれに、なんで五条がわたしのハンコ持ってるんだろ〜あ、夢か〜なんて思いながら導かれるままに印鑑を残す。自分の名前と少し角度のずれた印鑑が並んだそれに夢の中とはいえ実家に意趣返しのようなものができた気がしてなぜか満足げな気分を抱いた。


「はいオッケー!おつかれサマンサー!なまえ、あとは全部やっとくからもう寝てていいよッ!」


やけにハイテンションな五条の声が頭に響く。いやもう寝てるし。何言ってんの…?独身最後の日に変な夢見たなあ。…ああ、目覚めるのが心底嫌だ。明日なんて二度とこなけりゃいいのに。そう思いながら夢の中で瞼を閉じた。









頭の割れるような痛みで目が覚めた。自分の家の枕にうつ伏せた体をなんとか起こして寝室をぐるりと見回してちゃんとパジャマを着て寝ていたらしい自分の姿を認識して、はて、と昨夜の出来事を回顧する。昨日硝子と飲んでてそのあと寝落ちして、てっきり高専の硝子の部屋にでも連れて帰ってもらえるだろうと思っていたが、途中で目覚めたのか、それとも硝子が送ってくれたのか、それにしてもパジャマに着替える余力なんてあっただろうか、とちゃんと着替えて寝たことはいいことに違いないのに嫌な予感のようなものが胸中を這い回る。
そして、起きた瞬間には気づかなかったが、寝室の向こう、リビングに人の気配を感じる。慌てて呪力を辿れば、見知った知人の呪力の気配に冷や汗をかいた。慌てて寝室の扉を開け放てば、リビングで我が物顔でトーストとコーヒーを啜る男が見慣れたアイマスクもつけず輝かしい顔面を振りかざしながらこちらを振り返った。


「あ、おはよー」
「………は?」
「おはよーっていうかおそよー?もう昼前だよ」
「ひ、昼…?!っていうかなんで五条が私の家でトースト食べてんの?!」
「え?ここが僕の家だからだよ?夫婦が朝一緒に過ごすのは当たり前じゃない?酷いよねー僕の奥さんってば、昨日は結婚初夜だってのに朝どころか昼まで起きないんだもん」
「ハ……………?」


五条の言ってる言葉の意味が一つも理解できない。…え?もしかしていつのまにか生きてる世界線変わった?それとも五条が日本語以外の何か喋ってる?それとも朝起きたら突然私が日本語理解できなくなった?何?何が起きてるの?
…結婚!そうだ!私今日結婚式じゃん!エ!何時?!嘘まじで私結婚式ボイコットしちゃった?!慌ててスマホを探すけど、どこにも見当たらなくてまさか昨日のバーに置き去りにしてしまっただろうかと今度こそ血の気が引いていった。


「…もー、覚えてないのー?昨日なまえが言ったんでしょ?『私と結婚してくれるの?』って僕感動しちゃったな〜〜!私には愛する人がいるのに鬱陶しい家の確執に巻き込まれて他の男と結婚させられそう!このまま私を攫って!なんてもうマジでドラマかよって感じじゃない?全米が泣ける映画一本見終わった気分だよ〜最高のキャスティングとシナリオに涙無しでは見れなかったね!」


涙なんてちっとも浮かんでいない瞳が弧を描いていた。その言葉になんとなく昨日の夢のような出来事を思い出して、カタカタと指先が震えていく。…え、うそ、まって、あれ夢じゃないの?じゃあ、私の書いたあれは……え?


「ていうか、僕いま寮住まいじゃん?もーちょい早く言ってくれてたらマンションでも一軒家でも買ったのにさ?なーんか二人の住所をなまえの家で窓口のおじさんに提出しなきゃだったの僕がヒモ男みたいでちょっと笑えたよね」

すぐには処理できない情報の多さに頭が完全にパンクした。貧血が起きたみたいに頭がクラクラして、体がよろめく。すぐさま私の体を支えた五条が、「大丈夫?昨日すごい飲んでたでしょ。もうちょっと寝ててもいいよ?」なんて優しく微笑むから昨日自覚したこの男への恋心もうまく消化できていない私には完全に情報過多で、これって所謂五条の領域の中なのでは?とキョロキョロする。どう考えても何度見回しても慣れ親しんだ自分の部屋でなんなら自分の領域内と言ってもいい。その中で違和感の塊である五条は「何してんの?可愛いな」なんて言ってくるせいで余計に目が回った。


「ホント焦ったんだからねー。僕と付き合ってる噂わざわざ流してたのにお前の父親勝手に縁談なんて組みやがってしかもそれ結婚前々日に知らせる普通〜〜?!慌てて伊地知に戸籍抄本取らせにいったり婚姻届取らせにいったり高専の事務室のなまえのデスク漁らせて置きっぱなしのハンコ探させたりもうほんっと大変だったんだからー」

空いた口が塞がらないとはこのことだった。まさかあのありもしない面白おかしく誰かが吹聴したのだと思い込んでいた噂の出どころが五条本人だなんて誰が想像した?そして私と五条の私情にいつのまにか巻き込まれている伊地知くんが不憫でならない。半分犯罪まがいのことをやらされているではないか。

「………それ大変だったの五条じゃなくて伊地知くんじゃん!」
「あ、そんなこと言うー?お前の実家に朝から乗り込んで結婚式めちゃくちゃにしてきてあげたのに?あー、でも白無垢着たお前を連れ去る演出にしてもよかったかなー?そっちの方がドラマチックだった?なまえってば感動して泣いちゃう?……いややっぱ無し。仮にも他の男のモノになる姿見せつけられたら式の会場物理的にぶっ壊してたかも
「………何言って……」
「マジ?こんだけ言っても伝わらないわけ?それって鈍感飛び越えて罪深いよね最早。有罪。ギルティ。無期限で僕の奥さんとして添い遂げてくれないと割りに合わない」
「……いつから」
「えー?わかんない。気づいたときには好きだった。最近な気もするし、ずーっと前からな気もするけど、それって今の僕の気持ちを伝える上で重要な情報?」

あまりにも五条らしい答えだった。誠実さなんてかけらも感じられない想いの吐露。でも私もそうだった。この想いが芽生えた瞬間がいつなのかわからない。気づいたのは昨日だけど、好意を寄せていたのはもっと昔からかも。

「私と、結婚してくれるの」

昨日もふわふわした記憶の中で紡いだ言葉をもう一度問い掛ければ、見たことないくらい優しい表情を浮かべた五条が大きく口を開けて笑った。

「もう結婚してるんだよ」