よわくてニューゲーム

*0、8、9巻の内容を多く含み、捏造を孕んでますのでご注意ください。


昔、私は自分のことをヒーローだと思っていた。
少し成長した自分は、頼りになる仲間と一緒に夢の中で人ならざるものと戦って、弱いもののためにその力を奮っていたからだ。だから私は、大きくなったらいずれそんな力が芽生えて弱きを助け強きを挫く、そんな人間になるのだろうと信じて疑わなかった。夢の中の自分に憧れ口調を真似、正義に対して潔癖であろうと心がけていた。


その記憶がまさか、自分の『前世』であることなど、そのときは露ほども考えていなかった。


それを思い出したゆるいきっかけは、小学校の床掃除だった。等間隔に並べられた机の上に椅子を乗せて、教室の前半分に寄せられ空白の空いた床を掃除当番が誂えられた箒で掃く。次に鈍く光る少しデコボコに曲がったアルミのバケツに溜められた水を硬い雑巾で絞って、床を拭く。汚れた雑巾を一度バケツで洗って、今度は机を後ろ半分に寄せて同じように掃き掃除の後に水拭き。ドブのような色に染まったバケツを持って、共同の手洗い場にそれを流して雑巾を洗おうとした時、異様なデジャブを覚えた。この臭い、いや、もっともっと醜悪だった臭いをどこかで嗅いだことがある気がする。─掃除中とかではなくて、もっと日常的に。


「なんだったっけ……」


決定的に全てを思い出したのは些細な違和感を日常に何度も垣間見てはモヤモヤが溜まっていたある日のことだった。
クラスメイトが風邪をひいて学校を休んだ。プリントを持って行ってくれるやつー、と教師が呼びかけるのを誰もが自分には関係ないと他所を向くのに仕方がないなと挙手をした。放課後遊びに誘われるのを軽く断りながら担任から聞き出した、自分の家とは反対方向のクラスメイトの家に向かう。同じような色形が立ち並ぶ集合住宅の中から、クラスメイトの住む棟を探り当て、古びた階段を登った。表札も出ていなかったが、担任から聞いていた部屋番号と照らし合わせて見つけた一室のインターフォンに手を伸ばした。届くか届かないか、くらいのそれに必死に手を伸ばせばピンポーンと無機質な音が扉の向こうで反響した。…反応がない。もう一度手を伸ばしてインターフォンを押す。


「…ねてるのかな、」


預かっていたプリントの入った連絡袋を、玄関のポストに挟み込もうとドアポストに押し込もうとした時だった。

「─、たすけて」
「〜〜〜!!!」
「─ぁ゛う、っ」

わずかな隙間から聞こえたクラスメイトの『たすけて』の声と中にいる人物が殴りつけられたような音に、正義感を拗らせていた私は見て見ぬ振りなどできなかった。ドアを開け放とうとしたけれど、鍵がかかっており開けられない。ドンドンドンと壁を叩きつければ中で大声で怒鳴りつけるような声が聞こえて体がすくむ。─自分じゃどうにもできない。そう悟った私は近所に聞こえるくらい大きな声を張り上げて助けを呼んだ。わらわらと集まる人々、誰かが通報したのか次第に現れたパトカーで閉ざされた扉は重々しく開いていく。家の中はゴミ捨てさえもろくにされていないような荒れた状態で、クラスメイトは顔や身体を腫れ上がらせた状態で見つかった。その顔を見た瞬間、全て、思い出してしまった。虐待されて檻に閉じ込められていた双子、銃殺された天内理子、能天気に嗤う世の理を解っていない非術師、非術師によって生み出されるこの世の醜悪を詰め込んだ呪霊、そして、信頼していた親友、初めてできた『呪霊』を認識できる仲間、ほのかに想いを寄せていた女の子、


『夏油先輩、任務から帰ってきたら美味しいもの食べに連れてってくださいね』
『…君はお土産買ってきますね、じゃないんだね』
『お土産は灰原がいつも買っちゃうし…。それに夏油先輩最近痩せすぎです!ちゃんと食べないとですよ!約束!』

小指を差し出して約束なんて子供じみたこと、と思うのと同時に、その小指がどこかへ転落してしまいそうな思考をなんとか繋ぎ止めてくれているような、少しだけ、闇に落ちそうな思考に一歩ストップがかけられていたような気分を覚えた。…そうだ、ブレるな。私は弱いものを守るためにここにいる。

『わかったよ、何がいいかな…』
『夏油先輩の好きな蕎麦にしましょう!蕎麦なら、食欲なくても食べられるでしょ?』
『…君のお疲れ様会なのに、君の好きなものじゃなくていいのかい?』
『…夏油先輩が、美味しそうに食べてるところが、見たいんですよー』

少し口を尖らせながら頬を赤らめてそういう君が、私は好きだった。
君もきっと私を好きだっただろう。お互いにそれはわかっていたけれど、明確にその気持ちを伝え合わなかったのは、『呪術師』という特別な環境に身を置いていた所以か。高専二年から三年にかけて、親友とどことなく広がり続ける差、一緒に生まれる心の隙間を僅かながらに埋めてくれているのが後輩の女の子だなんて、その時の私にはプライドが許さなくて必死に気づかないふりをしていたんだ。

『…夏油先輩、……一人でどこかに行かないでね…、』
『…君がもっと強くなれば任務も一緒にいけるかもね』
『……いじわる』

君は私の中で燻る仄暗い感情に、気づいていたのだろうか。不安そうに私の服の裾をぎゅうと握る君を安心させたいのに、なぜかどこにもいかないと手を握り返すことはできなかった。
どうしようもなく、心の底では焦がれていたのに。好きだと言っていたら、この先の展開は違っていたんだろうか。君は死に物狂いで私のもとに帰ってきてくれたんだろうか。私は非術師を嫌いだと言い聞かせることもなかったんだろうか。…いや、きっとあの頃の私は何かをきっかけに耐えられずに『あの道』を選んだだろうな。


『─あいつ、死んだよ。間に合わなかった』
『なんてことはない二級呪霊の討伐任務のハズだったのに…!!』


任務を引き継いだ際に彼女が呪霊に喰われる最期の瞬間を見たという悟の無感情な声。
怪我をした七海の後悔の滲んだ声、傷だらけの遺体で帰ってきた灰原、そして七海と灰原を逃すため囮になったらしい彼女は遺体さえ私たちのもとに帰ってこなかった。呪いに遭遇して遺体がないことなんてザラだ。こんなこと、よくあることだ。高専にきてから何人の死を見てきた?グチャグチャの死体だって、死ぬほど見てきた。

寒空の下で私から上着を剥ぎ取ってあったかいと笑う君の顔をなぜか思い出した。冷たい風がスウェット生地を貫いてくるのに、君があたたかく笑うから、『最強だから風邪なんか引かないでしょ』と心からそう笑ってくれていたから、風の冷たさなんて感じなかった。あの日触れた君の手の温度も感触も今ここにあるかのように感じられるのに、君はもうこの世にいないと皆が言う。


『……約束、したのにね』

いつも陽だまりのように笑う彼女は、呪いの世界には似つかわしくないほど清廉だった。いつも透き通っている上流の川のような澄んだ彼女と一緒にいる時だけは心の中にあるドロドロした感情がサァッと引き潮のように引いて行った。
唯一どんな味かを知っていた呪霊玉を呑もうとする瞬間、悲痛な顔を浮かべる君を心配させたくなくて何でもないふりをして呑み込めた。

『夏油先輩、一人でどこかに行かないで』

呪霊さえいなければ、君も死ぬことはなかった、呪いなんてなければ…。呪霊を生んでしまう、…非術師なんて、いなければ、
死してなお、私の服の裾を必死になって掴んでいる君の手を振り解く。

『一人でどこかへ行ってしまったのは、君の方だったね』

─プツン、張り詰めていた糸が切れる音がする。

『君がこれから選択するんだよ』

─………非術師なんて、嫌いだ。

『説明しろ、傑』

─少し前までは鮮やかだったはずの世界から色が消えたみたいだ。この世界は美しくない。きっと猿がいる限り、この世界を美しいとは思えないんだ。君にはわからないだろう、悟。

『オマエは殺さなきゃいけないんだ』

─ああ、呪いを全て吐き切ってしまった。…いつぶりだろう、こんなにスッキリした気分なのは。

『傑、ーーーーー、』

─…呪いのない世界でなら、君ともずっと、心の底から笑い合えていたんだろうか。彼女とも、些細なことで笑い合えていただろうか…いや、そんなこと考えても仕方がない。もう全て終わったことだ。

バシュッ、

─ようやく終わった。
…はは、久しぶりに君のことを思い出した気がするね。呪詛師となってしまった私はきっと呪術師として真っ当に死んだ君と同じところへはいけないだろうから、ずっと燻っていたこの想いもここに置いていくことにするよ。…さようなら。君はいつか生まれ変わってどこかで、私の知らないどこかで幸せになってくれていると、いい。最期の瞬間に君のことを思い浮かべるなんて私は自分が思っているより君のことを好きだったらしい。







─ああ、生まれ変わったのか。記憶が戻った瞬間そう理解した。
呪霊、呪いのある世界を生きたからなのか、自分が前世を覚えていることも、生まれ変わったこともなんとなく素直に受け入れられた。どれだけ力を張り巡らせても、呪力は練れない。呪霊も見えない。圧倒的猿に生まれ変わってしまった。…これは、罰だろうか。
自分に言い聞かせた歪んだ理想を求めて両親まで手にかけ、新たな家族を作り、彼らを置いて先に逝ったあげく、碌でもないヤツに身体を奪われ良いように扱われた。そんな体に再び魂が宿って、人生やり直し。しかも今世は嫌いだと暗示をかけていた猿ときた。呪力のない体だからこの世界に呪霊がいるのかどうか認識する術もない。─地獄だ。またモノクロの世界が始まった。記憶が戻ってからはただただ無気力だった。やりたいことも遂げたい理想もこんな何も持たない体では思いつかない。


「オマエも僕も非術師だな、傑!」


─…相変わらず、君の瞳はどうしてそんなに綺麗なんだろう。なんの因果か高校の入学式でまた私の目の前に現れたかつての親友と目があった瞬間に始まった殴り合いの喧嘩でボロボロになった後、懐かしすぎる眩しい笑顔でそう言う親友の言葉に、思わず泣きそうになった。一瞬で白黒の世界に通り過ぎた過去の青春の記憶とともに淡い色彩が戻ってくる。硝子も一緒に巻き込んで抱きつかれた時に、少し泣いたことだけは、誰にも気づかれてないといい。
─まさか、君も、私と同じように生まれ変わっているだなんて誰か想像しただろうか。しかもあの『五条悟』が非術師だ。これはなんの冗談なんだろうか。─もしかして、この世界には呪霊も呪いもない?

『全人類から呪力を無くす』

かつて私にそう説いた女性を思い出した。─もしかして、この世界は、私が望んだ世界なのか?

「会いたかった、」

本当に長いことずっと、心の奥底に沈殿していた言葉が浮袋をつけたように急浮上して、思い切り酸素を吸い込むみたいに飛び出した、勢いの強い言葉だった。
勝手なことを言っている自覚がある。そもそも一人で思い詰めて全て一人で自己完結して全てを捨てたのは私の方だ。そんな私に『親友』という花を最後に手向けてくれた男とこんなふうに再会できるなど、誰が想像した?
また学生服に身を包んだ悟は嬉しそうに私に笑いかけた。それから何年経っても私の隣には相変わらず悟が居座っている。あんなことがあっても、生まれ変わって呪力がなくなって、ただの『夏油傑』になった私と君はまだ親友でいてくれるのか。



「傑ー!見てよ!僕の奥さん最高に可愛くない?」
「─悟、いくら嬉しいからってそんなにたくさんSNSに載せるのはどうかと思うよ、彼女は女優なんだからね」


なぜか芸人になった今世。呪いのない世界がいかに平和で平穏で幸せか、一生心の底から笑えないと思っていたのが嘘みたいに毎日笑っている今が、もしかして夢なんじゃないかとたまに思う。今私は死ぬ瞬間に無意識に願った幸せな理想の未来の夢を揺蕩っているだけなんじゃないかと。だって、そうでなくては都合が良すぎる。


「傑!僕が今めちゃくちゃ幸せなのも全部オマエがコンビ組んでくれたおかげ!」
「………大袈裟だな、悟は」
「やっぱ僕たち最強だな〜〜!」


満面の笑みで幸せを噛み締める親友を見ていると、どうかこれが夢でありませんようにと願いたくなってしまう。
前世の足跡を辿る悟とは違って私はこの世界に根を張るように恋人を作ったり、友人を作ったり新たな交流関係を広げてみては少しでもあの世界のことを思い出さないように努めている。
『特級呪詛師の夏油傑』ではなく『祓ったれ本舗の夏油傑』として生きていくことだけはブレたくなかった。そうしていれば、自分があれだけ嫌いだと言い聞かせた『非術師』になっていることを少しだけ受け入れられたから。


「……オマエはあいつ探さなくていいのか、夏油」

硝子のいつも気怠げな視線が、珍しく攻撃力を持って私を貫いた。

「……何のことだい?」
「…ダッサ。今更何にビビってんの?」

ハッと嘲るようなその言葉に眉根を顰めた。…ビビってる─、そうかもしれない。もし、自分が『呪詛師』となったことが知れたら、彼女はどんな反応をするだろうか。そもそも自分のことを覚えているのかもわからない。とっくに恋人がいるかも、もしかして結婚も、してるかもしれない……それに、生まれ変わっているのかどうかもわからない。
たった一年半程の、淡い淡い春のような恋だった。そのくせ、厭世に苛まれるほど彼女の死を受け入れたくなかった自分が今、彼女に会って何を思うのか、未知数で怖いのだ。
あの想いはとっくにあの世界に置いてきたと言い聞かせて思い出さないように蓋をする。もう輪郭だってまともに掬えないくらい過去のことなはずなのに、『夏油先輩』と照れながら私の名前を呼ぶ君の声も微笑む表情もすぐに思い出せるのは、もしかして呪いなのかもしれない。








「あ゛ーっマジで疲れた。エムワン終わって何連勤?もう年明けたんだけど??奥さんに会いたい。ぎゅって抱きしめて抱き返されてチュッチュしながらイチャイチャしてあんあん啼かせたい」
「私や伊地知のいる前で想像を掻き立てるようなこと言うのやめてくれるかい?」

マネージャーが解錠した車に、ドカアッと相変わらずの巨躯を後部座席占領しそうな勢いで預けた悟の体をぐいと押し込んで自分もその隣に乗りつける。「想像したらマジビンタねー!」なんて言いながら助手席のシートを蹴り上げる悟の下品な足をコラと窘めながら昔のように後頭部で纏めた髪のゴムを解いた。ハラリ、と髪が下りて肩に衝突する柔らかい感触に仕事中無意識にこわばっていた体まで弛緩していく気がしてフゥ、とマスクの中にため息を漏らす。ギャーギャー騒いでる悟の雑音の向こうで車内に流れている聞き心地の良い声のパーソナリティがラジオの視聴者からのメッセージを読み上げていた。よくある恋愛相談にフッと笑みが漏れる。平和だな。以前なら鼻で笑っていたようなつまらない悩みだ。


「傑何笑ってんの?思い出し笑い?やーらしー」
「─いや?平和だなと思ってね」
「そりゃあね、特級二人がストッキング相撲やってる世界線だよ?これ以上に平和な世界ないでしょ」
「…やめてくれよ、思い出したじゃないか」
「オマエなんであんなストッキング相撲強いの?訳わかんねー。傑に引っ張られすぎて髪の毛ブチブチいってたからね、あれでハゲになったらお前のこと呪ってやる」
「悟のご尊顔がブサイクになる瞬間に需要があるからね、お茶の間の皆さんの期待に応えただけさ」
「は?どんなに顔面引っ張られてもどの瞬間でも僕はGLGだから。オンエア楽しみに待ってろよ」
「はいはい、君の奥さんがどんな反応するか楽しみだ」
「はァ〜〜〜?!私の旦那様ストッキング相撲してても素敵って言うに決まってる。ね?伊地知」
「え、?!あ、はい、どうでしょう…」
「…伊地知後で面貸せよ」
「ええッ?! あ、夏油さん、到着しました……」


緩やかに停車した車の中でも相変わらずギャーギャー言ってる悟に夜中なんだから静かにしなさいと言ってもまるで聞きやしない。次の日のスケジュールを伊地知から聞き出していれば「自宅に帰んの珍しいね」と言い出した悟に「さすがにエムワンから一日も帰ってなかったからね。疲れたから今日はゆっくり休むよ」といえばひくり、と悟が口端をひくつかせた。


「……オマエ溜め込むタイプなんだからほどほどにしときなよ」
「…悟が心配をするなんて明日は雪でも降るかな」
「人の親切心くらい素直に受け取れっつーの。やだよー?僕相方が闇サイドに堕ちるなんて、もう懲り懲り」
「信用ないね」
「自分の行いを胸に手あてて考えたらどーですかー?」
「伊地知、どう思う?このネタで再会してから十年以上イジってくるんだ。いじわるだと思わない?」
「いやあ…えっと、そのー…いろいろありましたので」
「あーあ、伊地知まで悟の味方をするんだ。悲しいよ。また猿の時代に幕を下ろしちゃおうかな」
「悪ノリやめろ。あと今はオマエも猿だから」
「アハハ」
「ハハ…ハハ……」


いつもの軽口をようやく冗談と受け流せるようになったのか躊躇いがちな伊地知の苦笑が引き攣った口から漏れてきたのを聞き届けてから後部座席のドアを開いた。

「じゃあ、また明日…日付的には今日だけどね。迎えよろしく、伊地知」
「はい、お疲れ様です…」


重そうな首をヘッドレストどころか後部座席の縁に預けながらこちらを見ることもなくヒラヒラと手を振る悟に見送られながら久しぶりの自宅を見上げる。いつも寝に帰るだけの家とはいえ、飲むものさえストックがあったか記憶にない。コンビニ寄ってもらったらよかったかな、明日の仕事久しぶりに昼からだな、今日はゆっくり寝ようか、エレベーターが開いた扉からそんなことを考えながら一歩踏み出す。なんとなく疲れている気がする体をほぐすように肩を回しながら自室に向かって歩みを進めたところで自室の前で蹲る女性、を見つけて思わず眉間に皺が寄る。…誰だ?関係を持った女性には自室がバレないよう徹底していたつもりだけど。脳内で最近そういうことになった女性を思い出してリストアップしては後ろ姿からちがう、ちがう、とデリートしていく。どこかで見覚えのあるシルエットにここまでくると末期だなと自嘲しながら近づけば蹲る女性が周囲に散らばるアルミ缶を拾っていることに気づきああ、なんだご近所さんかと安堵した。マスクしか付けていないけどバレるかな。…んーでも、家の前でビールの缶ぶちまけられて何も言わずに家の中に入るのも人が悪い…まあ、面倒なことになったら引っ越せばいいか、そんなことを考えながら声をかけた。深夜に突然声をかけられるなど思っていなかったのか、びくりと跳ねた肩。警戒しているのか振り返ることすらせずアルミ缶を拾う女性は「すみません、袋が破れちゃって」と宣った。自分の琴線に触れるようなその声は頭の中でこだまする『夏油先輩』と軽やかに笑う彼女の声にそっくりでまさかと自嘲する。……疲れているんだろう、なにせ二週間は家に帰ってない。体が疲れた日は兎角彼女の夢をよく見るから、きっとこれは脳が勝手に女性の声を彼女の声に重ね合わせただけで。…よくあることだ。頭が急にガンガンと痛み出してきた。早く家に入って寝たほうがいいかもしれない。親切心ではなく自分が早く休みたいだけだったが、散らばる缶を拾ってやろうと手を伸ばせば慌てて女性がこちらを振り返った。

──は??

ふわりと舞う髪、その隙間から覗いた見覚えのある目元がこちらを射抜く。記憶の中にある風化しそうでしてくれないいつまでも私を呪うその女性の面影を深く残したまま大人になったその姿に、いよいよこれは夢の世界なのかを本気で疑う段階に達した。驚いて固まった彼女の脇から滑り落ちてきたビールの缶がゴト、と音を立ててマンションの廊下に落ちた。そのままコロコロと転がって他の缶を拾うためにしゃがみこんでいた私のつま先にコツン、と当たって止まる。なんでもないその動きがやけにはっきり、つま先に感じた振動が頭の天辺にまで伝染してきた。夢、夢、じゃない?


「………なまえ……?」


まろびでたその名前を口にするのは本当に久しぶりだった。あの日、君と最後に会話したあの日から、私は君の名前を言葉にしていなかった気がする。自分の中に溜め込んだ君の存在が名前を漏らす度に空気のように溶けてしまいそうで、頭が覚えていようとする君を名前を呼ぶことで風化させてしまいそうで、怖かった。


「夏油先輩……?」


あの頃から何も変わっちゃいないその声のせいで心臓が震えた。夢だろうか、頼むから夢でないと言ってほしい。瞬き一つした瞬間に霞のように消えてしまうのが恐ろしくて瞬き一つできない。体が震えている気がする。あれだけ君への想いは置いてきたと言い聞かせていたのにこのザマだ。─隣に住んでる?そんなことってあるのか?なまえの口から出てくる言葉の一つ一つが脳ですぐに処理できずにいちいちゆっくり噛み砕いて必死に言葉を紡ぐ。最早自分が喋っている言葉がきちんとなまえと会話のキャッチボールを成せているのかも判別がつかない。バラバラと散らばる、鈍い銀色に光るアルミ缶を見下ろしてはた、と気づいた。ちょっと待って、一体何本あるんだ。こんなの一人で飲む量じゃない。…まさか誰かと住んでる?自分と同じ間取りだろう部屋は悠に誰かと住むのも余裕な広さがある。自分と同じように生まれ変わっていたとしてもとっくに彼女が誰かと結婚している可能性だってちゃんと理解していたはずなのにいざ目の前にその事実を突きつけられるとバクバクと心臓が早鐘を打ち、手先から順番に血の気が引いていく気配がした。


「…寂しい一人暮らしですが」


誰のせいだと思ってる、そんな表情でこちらを睨め付けたなまえの少し怒ったような顔で、全てを悟った。彼女も自分と同じように過去を思い出して過去に囚われて生きているのだということを。なんでもないように会話を続けながら昔と同じように軽口を叩くなまえが本当に夢じゃなくてここに存在しているのかを早く確認したくてたまらない。いつもなら余裕を持って女性をエスコートする体が言うことを聞いてくれない。何も考えられなくなって早急に彼女の体を抱き寄せた。大きなダウンパーカーを着た体からは体温を感じられなかったけれど、ぎゅうと抱きしめた服の向こうに彼女の体の輪郭を感じられて、たまらなくなって彼女の頭を抱き込むように己の胸に押し付けた。ぐすぐすと泣き始めたなまえの体の震えも、触れる頭から伝わる彼女の熱も、しっかり感じられるのに、どこか現実味がなくてずっと頭がふわふわしているみたいだ。どうしよう、どうすればこれが夢じゃないと思えるんだろう。もっと、もっと触れたい。もっと君を感じたい。


「なまえ」


私の声に反応したなまえが赤くなった目元を晒しながらこちらを見上げる。自分のマスクを下げて涙に濡れた頬に触れればこれまで抑圧してきたものが全て弾けるようにもっともっと触りたくてたまらなくなる。私のことが好きでたまらないと語りかけてくる彼女の視線と絡まればもう逃してあげることなんてどうしたって無理だった。吸い込まれるように唇にキスを落として溶けた表情をしたなまえをそのまま部屋に連れ込む。「あ、ビール……」と漏らすなまえが一瞬体を強張らせたけれど、そんなのいいからちゃんと私をみてと彼女の唇に何度も吸い付く。段々と彼女の唇ごと噛み付いて食べてしまいたくなる衝動に駆られる。歯止めが効かない。乱暴してしまいそうになる自分の欲求をなんとか押し留めて、自室の少し埃っぽいベッドに彼女と一緒になだれ込んだ。


初めて触れた彼女の体はどこも柔らかくて、触れる体から伝わる温かい体温とか、彼女が気持ちよくてこぼす嬌声や涙が、五感にダイレクトに伝わる。全てが愛おしくて、幸せでたまらなくて、こんなに感情の揺さぶられる夢があってたまるかとこの人生が現実であることを漸く理解した。前世であんなことをやらかした自分にこんな幸福が訪れていいのだろうかと少し怖くなる。今まで現実味のなかった人生がやっと地に足ついた気がした。












仕事帰りに寄り道せず家に帰るようになって数日、まあ帰る時間はまちまちで、明け方になることもあればたまに日付が回る前に帰って来れる日もある。そういう日は陽が上り切る前に伊地知が迎えに来るような早朝スケジュールのことが多くて、明日からの遠方のロケに備えて荷造りをしているときに部屋に遊びに来てテレビを見ていたはずのなまえが躊躇いがちに口を開いた。

「先輩、私が死んだ後のこと、教えてください」

あの日からマメに連絡も取るようになったとはいえ、そのどれもが今日食べたご飯が美味しかったとか、今日仕事で上司に褒められたとか、たわいのない話だった。
家にあげるのはあの日以来初めてで、なんとなく今日はその話になるのだろうなとは思っていた。


「……いいよ」
「七海は、」
「まずそこなんだね。…あの任務からはちゃんと生還したよ。その後のことは私も詳しくは知らないね」
「……それは、先輩が、その、」
「…そうだよ。高専から去ったから」
「そ、ですか……」


俯きながら指先を擦り合わせているなまえは言葉を必死に選んでいるのか何かを言おうとしては閉口し、時折辛そうにこちらを見上げる様子に苦笑を漏らした。


「…いいよ、思ったことを素直に言ったらいい」
「………私は先輩を、傷つけてしまったのでしょうか」


五条先輩みたいに、私が強かったら、あなたを傷つけなかったのでしょうか。
必死に耐えているような涙声に乗せられたその言葉に心臓を抉られたような気分になった。


「…そうだね、傷ついた、んだろうな。だけど私は君が死んでいなくても何かを契機にして必ず歪んだと思う。…あの頃はそういう不安定な泥濘の上に立っていた」
「……私のせいじゃないって言いたいんですか?別にそんなところで優しくしてもらわなくても大丈夫です」
「……いやこれは君への優しさでもなんでもない。この前は言い方が悪かったかもしれないな。君の死が『呪術師』を続けていけない理由の一つにはなったけれど、君が全てじゃなかった。君が強くても、強くなくても、あの頃の私はいずれかのタイミングであの場を離れなければありのままの自分で生きられなかった。君が生きていたとしても、自分の中で生まれた違和感に目を背けることができずにあの道を選んだだろうね」
「そんなの、全部やめて、全部捨てて、逃げればよかったじゃないですか…、っ」


私の言葉に被せるように勢いで言ってしまった言葉を吐いてすぐになまえはやってしまったと顔を顰めた。今自分の顔がひどく強張っているのが鏡を見ずともわかる。


「無理だね。逃げた先に自分の生きる道があるとは思えない」
「……だから、あの日悟に引導を渡されたのが私の人生の最善だったんだ」
「君が私の前世に責任を感じる必要はない。…今こうして生まれ変われて、悟と毎日あの頃の延長みたいに馬鹿をやって、君に好きだと吐けるただ普通の男になれたことで全部どうでもよくなった」


必死に涙を耐えるなまえが唇をかみしめて手をぎゅうと強い力で握りしめているせいか、白くなった指先がカタカタと震えている。
言葉を絞り出せなくなってしまったなまえをできるだけ優しく抱き寄せた。


「ごめんなさい、私、最低なこと言いました…」
「……いや。そもそも最低なことをしたのは私の方だからね。なにせ呪殺した一般人の人数なんて覚えちゃいない」
「ケロッとしながらいうことじゃないです」
「君こそ。君の目の前にいるのはあの頃の『夏油先輩』じゃない。任務に赴いた先で非術師を皆殺しにして、親さえ手にかけて、街に二千の呪霊を放って百鬼夜行を計画した男の生まれ変わりだ」
「…わざと怯えさせるようなこと言ってるつもりですか?こんなに優しく触れておいて」
「いや?どちらかというと君に私の全てを受け入れてほしいと思ってる」

目に浮かばせていた涙が引っ込んだように驚いた表情を浮かべたなまえは、ずるいひとですね、と困ったように笑った。

「……夏油先輩、生まれ変われて、今、幸せですか」

幸せだよ、どうしようもなく。そう紡ごうとして、やめた。君が私に寄せている罪悪感を利用しようとしている私はさすが前世が最悪の呪詛師と言われただけのことはあるなと自嘲を漏らした。

「いや、まだ幸せじゃない」
「…、え?」
「悟と笑い合えてても、エムワンを優勝しても、まだ幸せじゃない。なぜなら君がまだ前世からの約束を守ろうとしないからだ」
「………え、っと…やくそく…」
「……、私のそばにいて、君が私を幸せにしてくれないか」

まんまるに目を見開くなまえの瞳に反射する自分の輪郭がひどく頼りなく見えた気がした。自分がどんな顔をしているのか、定かではない。さっきまで揚々と話せていたのに、突然自分のところに帰って来なくなったなまえを思い出してどうしようもなく彼女を見下げる自分の視界が、どんどん滲んでいく。情けない自分の姿に気づかれたくなくて彼女の肩口に額を擦り寄せた。


「…もう、仕方ない、ですね…っ」


笑っているようなトーンなのに、ひどく震えた声が耳に届き、頼りなく曲がった自分の背中に彼女の華奢な手が回る感覚に今度こそ堪えきれなくなった。


「好きです、今度こそ、ずっとそばにいます」


とんとん、と背中で一定のリズムを刻む彼女の優しい手に慰められて、涙が止まらなくなった。おかしいな、私の方が年上なのに、どうして私は君に縋り付いているんだろう。好きだよ、好きだ…、壊れたテープのように同じ言葉を繰り返す私にはい、はい…、私もです、と返してくれる君に抱きしめられて、何に感謝すればいいのかわからない感情が芽生えてくる。


「なまえ、生まれ変わってくれてありがとう」
「…はい、げと……傑、さんも。」
「!嬉しい、もう一度呼んで」
「…傑さん、好きです」
「私も。なまえが好きだよ」
「…………ちょっとそれは信用なりませんが、まあ今後の傑さんの態度に期待してます」
「……えっ?」
「………だって噂になった女優さんとかモデルさんとか、絶対私より綺麗じゃないですか」
「………ふ、」
「ちょっと、笑いましたね?最低。やっぱりやめようかな。七海か灰原探して付き合ってもらおうかな」
「…ごめん、それは嫌だ本当に。私にしてよ」
「………そんなに言うならしかたないなあ」
「ふふ、うん、仕方ないんだ。君じゃないとだめだから」


五条先輩の連絡先今度教えてください綺麗な人とお近づきになってないかバッチリ監視してもらいますから、なんて眉を釣り上げる君の可愛さときたら、思わず声をあげて笑ってしまった。不服そうにする君が愛おしくて愛おしくて、本当に、本当に心の底から笑えた気がした。









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