青天の霹靂 1

いつも通りの朝だった。目覚まし時計のように正確にいつもの時間に目が覚め、着替え専用の部屋から配色ごとにハンガーにかけられたスラックスとワイシャツをピックアップし袖を通す。ウェストコートを着てからカフスとタイピン、ネクタイを選んでテーブルに置かれた経済誌に目を通してあらかたのトピックを頭に入れておき、秘書が持ってくるいつも通りの甘いコーヒーで寝起きの一杯を決め込む。ああ、なんてことないいつもの日常。代わり映えのしないルーティン。

「おはようございます」

いつも通りハネの一つも許さないまっすぐな髪をサラリとゆらしニコリと微笑むのは、自分でも突飛なところがあると自覚している行動を先読みしてフォローを欠かさないこの僕が仕事のできるとお墨付きを入れられる秘書。まだ着ていなかったジャケットを手に、背後に回った彼女に誘導されるがままジャケットを羽織る。特に何を指示したわけではないがその間もスラスラと述べられる今日の予定をそのまま頭にインプットさせ、こちら本日の会議での資料です、と手渡されたそれを受け取って経済誌と入れ替わるように目を通した。相変わらず自分の好みドンピシャストレートを決める甘さのコーヒーを音を立てずに啜りいつも通りの朝の時間を過ごす。

大体そのあたりでいつも運転手が待っている車に誘導し始める彼女からの「では参りましょう」を待つが、時間の無駄を許さない彼女には珍しく眉間に皺を寄せて言いにくそうに何かを言うか言わないか逡巡しているように見受けられた。この辺りから、いつも通りの朝がボタンを掛け違うみたいにズレ始めていたような気がする。

「どうしたの?何か問題でも起きた?」
「ーいえ、その、そういう訳ではないのですが、」
「君がそんなに歯切れ悪いの珍しいね。なに、さっさと言っちゃいなよ」

社内での問題ならば悪い情報であればあるほど迅速に淡々と報告してくる彼女のこんな姿は珍しい。一体全体何がそんなに言い辛いのか、逆に気になってしまう。

「社長付きの新しい秘書を募集してもよろしいですか」
「ん?なんで?君一人でやれてるじゃん」
「……辞めさせていただきたいので」

資料の字面を追っていた視線が彼女の言葉でぐにゃりとあらぬ方向へ飛ぶ。どこまで読んでいたのか見失って思わず面をあげれば、喉のつっかえが取れたみたいな顔をして微笑む彼女の視線とかちあった。気のせいかいつも、ぴん、と肩肘を張って美しい姿勢をキープするその背筋が安心したように緩んだ気がした。
自分が社長に就任してから誰一人として一ヶ月保たなかった秘書を入社当初からおよそ五年、弱音を吐くことなく続けてきた彼女がそんなつまらない冗談を言うとは思えなかったのでスッキリとした様子の彼女になんだかモヤモヤしつつも平静を装って「あ、そう。じゃあ後任ちゃんと見つけといて」と言ってやればあからさまにホッとしながら「かしこまりました」と言われてさらに内心騒ついた気がした。

「朝からお時間取らせて申し訳ありません。では参りましょう」

いつも真顔で仕事してるはずの彼女が見たこともないくらい良い笑顔を浮かべている。スタスタとタイトスカートから流れる脚を支えるピンヒールはいつもより足取りも軽く見受けられる。彼女の動きに合わせて揺れる髪の毛さえもいつもより大きく波打っているようで、彼女が浮き足立っているようにしか見えない。無性にムカムカと不健康そうな脂っこい食べ物を大量に摂取した時のような感覚がせり上がってくる気がして、思わず顔を顰める。たかが秘書がやめるからってなんでこんなに僕が気にしなきゃならないんだ。たかが秘書。この子のことだ。きっと後任もきちんと仕事のできる人間を選ぶはず。適当な仕事をしないことだけはこの五年でちゃんとわかっていた。大丈夫、初めは慣れないかもしれないけど秘書が変わったからって僕の生活になんの影響も変化もない。いつも通り朝のラッシュを迎える前に走る車の中でいつも通り淡々と昨日の営業報告を口頭で告げる秘書の声を聞いていたが、なぜかそれが頭に入ってこないことに強烈な違和感を覚えながらも、見て見ぬ振りをした。




彼女の最終出勤日は想定よりも早く訪れた。彼女の『代わり』となる秘書は彼女よりも若く、溌剌としていて一見すると『いい子そう』という感想が真っ先に出てくる女性だった。「三輪霞です!よろしくお願いいたします!」と初対面で深々と頭を下げたときにだらりと揺れる髪が彼女と同じように動きに合わせて揺れるのに、何故か不快感を覚えた。彼女の指示に従い毎日彼女の隣で僕の秘書の仕事を学ぶ新しい秘書は慣れないながらも僕に迷惑をかけないよう必死に自己研鑽を積んでいるように見えた。きっとこの子に秘書が移ったって、大丈夫だ。問題ない。まだ研修中で、始めたばかりの慣れない仕事なのだから、僕のスケジュールをいちいちタブレットで確認したり、同席するパーティで出会う、挨拶してくる相手の名前を彼女のように耳打ちしてフォローを入れられなくても仕方ない。新人なのだから。まだ要人の顔と名前を把握できていなくても仕方がない。会議の前に準備されている資料が明らかに準備不足なのも、きっと仕事に慣れたら僕がどんな情報を必要としているのかもわかるようになる、はずだ。彼女がそうだったから、言わなくても一歩二歩先を見て僕のサポートを完全に完璧にこなしていた彼女が見つけた後任なのだから、大丈夫だ。なぜかこのモヤモヤした気持ちを明確に端的に表すことができない自分の感情に苛立ってくる。パーティ会場を後にして乗りつけた車内でいつもなら隣に座るはずなのに助手席に腰をつけた彼女の様子にどうしようもなく苛立つ。晴々とした表情でこれでお役御免とばかりに微笑む彼女に腹が立つ。


「社長、お疲れ様でした。三輪さん、パーティは覚えることがたくさんで大変だと思うけれど頑張ってください」
「は、はい…!社長にご迷惑をおかけしないように努力します…!」
「ふふ、三輪さん覚えるのが早いからきっと私よりも優秀な秘書になると思います」


どこがだよ。今日の振る舞いなんて君の普段やってることの半分もできてなかったよ。こんな状態で僕のこと置いていくつもりなの。ちゃんと教育しろって言ったじゃん。僕後任は『ちゃんと』見つけとけって指示したよね?なんでそんなに嬉しそうなの?もう今日で僕の秘書が終わるの、そんなに嬉しいわけ?

モヤモヤモヤモヤ。心の中の一部に巣食っていた靄がいつのまにか身体中に行き渡ってたみたいにモヤモヤする。不快感がすごい。本当は秘書なんかいなくたって仕事は一人で完結できる。むしろ彼女がやってくるまでは僕の見た目や地位に目が眩んで色目使ってきたりあわよくば…を狙ってくる女ばかりで、いる方が邪魔だとさえ感じていた。そんな僕に充てがわれた何人目かの秘書が彼女だった。初めはそれこそ失敗もよくしていたけれど、キツいこと言ってもめげないし、何より僕を完全に『上司』としか思っていないその態度を気に入って彼女を頼りながら仕事をするようになってから、ワンマンでは滞っていた対人関係や社内の環境が大幅に改善されるようになった。
待遇だって他の役員についてる秘書に比べても数段に良いし、他社に行くとしてもここより良い待遇で迎えられる会社なんて無いんじゃない?と思うくらいの報酬は与えていたつもりだった。一体ここを辞めてから彼女は何をするつもりなんだろうーそこまで考えてから、彼女が辞めてからの話を一切してこなかったことを、パーティから戻ってきた社内で秘書課の人間から渡された花束を嬉しそうに受け取る彼女を見ながら思い出した。

いつも通り仕事が終わった後に僕の家の駐車場に停めてある自分の車を取りに花束と大きな荷物を抱えた彼女と一緒に自宅へ戻る。その間も彼女の口角は少し上がっていて、浮き足立っていることがすぐ見て取れる。そんな彼女の態度に反比例するように僕の機嫌は下降していく。

いっそのこと秘書はやめて違う職種でもやるのか、それとも会社経営でもするのか、彼女が本当に僕の元を離れるのが信じ難くてそんな話を避けていたことを今更思い知る。ねえ、本当に辞めるの?今なら冗談でしたー!って言えば笑って許してやらないこともないけど。今日ってエイプリルフールじゃないよね?何日も前から壮大に仕掛けた嘘とかじゃないよね?それとも変なこと言い出した日がエイプリルフールだった?僕相手にこんなことやらかしたら普通のやつは即クビにするけど君なら今だったら「面白い冗談も言えるんだね」なんて言って笑って許してあげるのに。ーもうとっくに春なんて過ぎ去っていることはもちろんわかっている。

彼女が運転するSUVに荷物を運び入れてから、首からかかる社員証を外して、渡していた自宅の合鍵も一緒に両手を使ってそれを差し出してくるのがやけにスローモーションがかかっているように感じる。目の前に差し出されたそれを受け取りたくない。「…社長?」と呼ばれるその声はいつも通りで、とても明日から彼女がいないなんて信じられない。
「なんで辞めるの」そう言おうとして彼女がこちらに差し出す指先を見て言葉が引っ込んだ。彼女の指に嵌る鈍い輝きが目に入った瞬間僕の中の何かにヒビが入った音が聞こえた気がした。ー左手の、薬指。そこに収まる貧相で華奢な安っぽいリング。いくら僕でもそこにある指輪の意味くらいはわかる。え?うそ?なに、もしかして、結婚、するの。


「社長、五年間本当にありがとうございました」
「え、あ、あぁ、うん、」
「社長の無茶振りに応える毎日は胃に穴が空く思いでしたがそんな日々も今日で最後だと思えば寂しくなるのが不思議ですね」


何かめちゃくちゃ失礼なことを笑顔で言われた気がする。だがそんなことに構っていられなくて思わず頭の中を占拠していた疑問が口をついて出て行った。

「ーもしかして結婚、するの?」

驚いたように目を見開いた後すぐに彼女はにっこり笑う。

「そのつもりです」


彼女の言葉のせいで、雷に打たれたような衝撃を受け、耳鳴りが止まらなくなった。彼女が、別の男のものになる。たったそれだけの事実が、「辞めさせていただきたい」と言ってきた日から漠然と感じていた不快感にとどめを刺した。

「では、社長、本当にお世話になりました」


そう言って無理矢理渡されたみょうじなまえと名前が綴られた社員証と鍵を握らされ、呆然とする僕を無視して彼女はさっさと車に乗っていつものように余韻もなく車を発進させて帰っていく。情報が完結しなくて、それを引き止めることもできずに間抜けに見送ってただただ彼女が帰って行った方向を見ていることしかできなかった。


みょうじが、結婚、ー結婚?彼氏いたの?待って。彼氏できる生活してた?朝は僕が起きる前に僕の家に来て新聞とコーヒーを用意して、そのまま一緒に出社して帰りは僕の家に停めてある車を取りに一緒に僕の家に帰る。その時点で大体が日付が変わる時間で、彼女はそこから家に帰っていたはずだ。一日のほとんどの時間を僕と過ごしていたはずなのに彼氏なんていつのまに?ましてや、結婚?は?君はそんなクズ石ばかりの輝く宝石の一つもついてないような安っぽい指輪しか贈れない男でいいわけ?僕みたいななんでもできる、なんでも持ってる男の隣に毎日いたくせに、君はそんな男で満足できるわけ?信じられない。
出来のいい頭が、見たこともない彼女の『男』が彼女とイチャイチャしてるところまで想像してしまって吐き気がした。ー最悪だ。今更こんなことに気づくなんて。指輪、いつからしてたんだ?全く気づかなかった。もっと早く気づいてたら、何か変わってた?秘書が結婚して退職する。ー本来であれば喜ばしいことが全然喜べない。靄のように広がっていた不快感はいつのまにか胸をジリジリと焦がす嫉妬心に代わっていた。


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