手を伸ばしたら弾くくせに、触らなければ恨めしそうな目で僕を見るのだから、彼女はひどく面倒くさく、孤独な、僕の鏡であるかのような人だ。まるで傷の舐め合いのように身体を重ねることに折々自分に対して嫌悪感を抱くことさえあるのだから、なぜ彼女と一緒に居なければならないか、なぜ彼女から自分は離れられないのかを往々考えてしまう。
「何がそんなに不満だっていうの?」
「何が?」
「あなたの眉間の皺。難しくて面倒くさくてくだらないことを考えているときにはいつだって現れるんだから。気付いていなかったの?」
最早嘲笑に近い笑みを浮かべながら僕の手をちらりと見る。触られたいのだろう。僕はそれを無視して眉間の皺を少しでもゆるめようと努めた。不満そうに僕を見る彼女には気付かない振りをした。有難いことに彼女はわかりやすい人でもあるようで、表情を見れば何を考えているのかがおおよそわかる。だからこそ、彼女の表情を崩すことを楽しんでいる自分もどこかにはいるのだ。
「いじわる」
そんな自分を知ってか知らずか、彼女は度々僕をこのように称する。僕は笑んで茶を口に含んだ。既に温くなり渋みを増しているそれは、僕の眉間の皺を深めるのには充分だった。淹れなおさなければならない。この渋みを取り去るようなものを淹れなおさなければならない。立ち上がろうとすると僕の前に、猫のように滑り込んできた彼女は僕を椅子の上に押し倒し、膝の上に座った。思った以上に冷えていたらしい僕の足は、彼女の重さと温度を至極簡単に受け入れた。
「もう私が教えなくったって、紅茶が上手く淹れられるようになった?」
「有難いことに」
「先生が良かったのかもね」
「ああ、そうかもしれない」
「本当にあなたっていじわる。火の使い方だって知らなかったくせに」
目を細める。彼女の前では本当の僕を見せることが出来ない。だからこそ、心地良い微温湯に浸かっているかのような関係性を続けることが出来る。彼女は何も知らないようで知っているのだ。それは単なる知識ではなく、ある種賢ささえ感じさせるものだ。珍しく彼女から伸ばされた手を甘んずる。冷たく、簡単に折れてしまいそうだ。
「行ってしまうの」
問いではなかった。まるで確証を掴んでいるかのようだった。そしてそれが真実だから恐ろしい。ただの愚者であればよかった、いや愚者だからこそ感じ得る何かがあるのかもしれないが。彼女の手を掴み、少し力を込める。やはり折れてしまいそうだ。顰められた眉間に充足感すら覚えた。
「行ってしまったらどうする?」
「さぁ、どうしようかな」
「いじわるだな」
「ええ、誰かさんのせいで」
「ああ、そうだろう」
「また誰かに火の使い方や紅茶の淹れ方を教えてあげなくちゃ」
「僕以外の誰に?」
唇が開いた隙間に親指を入れる。更に深まった皺に、笑みが深まる。それだけは許さない、と抱くことすら許されない嫌悪感が腹の奥から湧き立っていく。ひくついた咽喉に指を引き抜く。唾液でつながっていたがすぐに立ち消えた。ジャケットからハンカチを取り出して拭い取る。
「いじわる」
ぽつりと彼女は呟いた。そして重さが、温度が、僕の膝から消えた。彼女が離れたということは、もう彼女に触れることは許されないということだ、彼女から僕に近付いてくるまで。思い通りになると思っていた存在が、存外思い通りにならないということに気が付いたのは、そしてそれに苛立ちすら覚えない自分に驚きさえ感じたのも、そう最近のことではない。
「そう言って、消えてしまうくせに」
彼女の声が再び聞こえたが、僕は目を閉じた。彼女の温度がひどく心地良かったせいで、彼女の紅茶の味を覚えてしまったせいで、彼女が僕と一緒にいるせいで、僕は彼女から離れることをほんの少しばかり躊躇している。
20140213