彼は不安なのかもしれない、彼自身から聞いたことはないけれど彼はあまり愛されてはいなかったみたいだから。同じベッドで眠るとき、苦しいくらいに抱きしめ、私が起きても彼が起きるまで待たなければ私は顔を洗うことすらできないのだから。それが苦痛に感じないと言ったら嘘になる、私は束縛されるのがあまり好きではないから。
「……おかえり」
「ただいま」
「…遅かったな」
「そう?電話、入れたけど気付かなかった?」
「気付いてた」
「…だったら知ってるでしょ、このくらいの時間は許容範囲じゃ、っ!」
ガシャンと割れる音がした。シリウスがマグカップを投げつけたらしい、足に鋭い痛みが走る。灰色の瞳が細められる、純粋にただ恐ろしいと思った。彼が大きな犬になれると彼の友人から聞いたことがあるが、本当はもっと猛々しい生き物になれるんじゃないだろうか?自分とは圧倒的な力の差を見せつけられた気分だ、恐ろしい。逆らえない、けれど納得がいかない。ここでただ"I'm sorry."と言えばいい、それで済む話だ。だけど、でも、私は、
「何してたんだよ?」
「……仕事、」
「仕事?こんなに遅くなるのか?」
「…たまたま、だよ。今日月末だし、」
「だからって遅すぎだろ」
「……あと、飲み会」
「飲み会?」
「仕事、大変だったからって……」
「…男は?」
「…………」
「男は?」
「……いた、けど…っあ…!」
「なあ、お前、何を考えてるんだよ?」
首を締められる、どうして?私は、私はただお酒を飲みに行っただけなのに。動揺よりも怒りよりも先に悲しみを感じる。私は確かに彼を愛してる、愛しいと思う。こんな束縛に耐えられるのも彼によるものだからだ。かつての恋人がこんな兆候を見せたらすぐに別れたのに、彼はそれを知らないのだ。苦しみなのか、悲しみなのか分からないけれど視界が潤む。彼は私に何を求めてるの?シリウスは自分が割ったマグカップを踏み、顔を歪めた。私だって痛いの、肉体的でも精神的でも。
「っく、は、」
「…名前、苦しいか?」
「わか、てるでしょ、」
「俺、その顔がだいすきなんだ」
「……はっ…?」
「名前が生きるのか死ぬのかは俺が支配してる、名前がすきだ、愛してる」
「……だったら、な、んで…」
「名前、苦しいか?」
「くる、し…」
「放してほしいか?」
「あた、りまえ、」
「なら放してやるよ」
急に喉に息が入り込んでくる。苦しくて苦しくてしょうがない。思わず噎せ込む。床に手を突くと、手のひらに刺すような痛みが走る。ああ、ガラスが。
「……なあ」
「はぁっ……なに?」
「俺のこと、嫌い?」
私の手をとり、舐めるシリウスが犬だと妙に納得した。兎じゃあるまいし、寂しいと生きていけないっていうのはないはずだ。けれど、一度飯をやれば犬は一生恩を忘れないのだ。飯=愛だとすれば?答えはもう分かってる。
「嫌いになるはず、ないでしょ」
もう、そんな嬉しそうな顔しないでよ。あんなに嫌だったはずなのに私はこの人に溺れてる。それが分かっていて、彼の異常なまでの愛を一身に受けるのは鬱陶しく感じてしまう、嫌だと思うこともある。常に望み通りにならないならいっそ、捨ててしまえばいい。だけど、苦しいほど抱きしめてくるシリウスに狂おしいほどの愛を感じているのは事実だ。周りから見れば間違っていると言われてもしょうがない関係かもしれない、けれどそれがベストの答えなの?血がついてしまうのも構わずシリウスの背に手を回す。いや、血がついてしまえばいい。シリウスの服に、シリウスの身体に染みついてとれなくなればいい。ああ、私も異常なまでの愛をシリウスに注いでいるのかもしれない。酔いはもう冷めてる。
周りにどういわれようと構わない。本当にするべきことなんて分からない。だったら、私たちが決める。私たちには多分、"離れる"という選択肢はないと思うけれど。
20100805