甘いのは薫りだけ


綿あめみたいな匂いがした。
教室の冷房を入れなきゃいけないほど暑いわけではないが、かといって閉め切っていると暑いという面倒臭い気候の頃。私の横にある大きめな窓は解放されていて、端に纏められたカーテンがヒラヒラと揺れる。それと同時に机に広げていた教科書もペラペラと捲られ、顔を覆うように流れてきた自分の髪を邪魔だといわんばかりに耳にかけた。
それと一緒に乗っかってきた白いふわふわの砂糖菓子を連想させるような匂い。どこからだろうと外を眺めるとどこかのクラスが校庭でサッカーをやっていた。
匂いの出処もわからず、ただ空腹を素直に刺激されただけの4時限目も残り20分。今日は何を食べようかな、と学食のメニューを一通り思い出していたのに「ここ次のテストの山だからなー」という教師の一言で一瞬にして現実に引き戻されてシャーペンを握り直した。私のその行動と同時にのっそりと目の前の大きな背中が起き上がる。出来るだけ身体を縮こませてはいるけれど、別に彼は寝ているわけじゃないことを知ってる。だってシャーペンを握る手は動いてる。たぶん後ろの私に気をつかってくれているんだ。自分の身長を気にして。私が前の黒板が見えないんじゃないかって。まあ確かに見えないけど、机から少し身体を傾ければ私にも見えるのだ。そんなに気にすることないのに、とは思うけどそれは彼の優しさなんだろう。ずっと前のめりに縮こまって彼の背中や腰が痛くならないか、そっちの方が心配だ。
授業終了のチャイムが鳴って、私は持っていたシャーペンの柄で大きな背中を突っついた。それに反応して身体を後ろに捻る葦木場くん。ドーナツのようにくるんとなった前髪が見えてまた自分の食欲が刺激された。

「葦木場くん、授業中そんなに身体伏せてなくていいよ?」

「あ、…うん。でも苗字さん見えないよね?オレ、散々見えない見えないって言われてきたから慣れてるんだぁ」

へへへと笑う葦木場くんは、甘いドーナツをくっつけたような髪を軽く掻く。甘そうなのは見た目だけじゃない、性格もだ。そして上から降ってくる声もとろんと纏わりつくように甘ったるい。よく天然だなんて言われてるし優しいし、逆の意味で今どき珍しいタイプなんじゃないだろうか。それに反して誰よりも背が高いのだけど。

「見えなかったら私が動けばいいだけの話だから。葦木場くんが気にすることじゃないよ」

「うーん…なんていうか、もう癖みたいなものなんだよね」

「じゃあ私が直してあげるよ。私に気つかってたら後ろから突っつくからね」

シャーペンの柄の部分を葦木場くんの目の前に突き出してやると、長い睫毛がバサバサと瞬きを繰り返した。少し照れたような笑顔に目の下のハートのほくろを掻きながら「うんっ」と嬉しそうに笑った顔が印象的だった。この笑顔されたら大抵のことは許せちゃうんじゃないかなと思わせるくらいに。





やっぱり自分で癖だと言っちゃうことだけのことはあって、なかなか直らないらしい。
……あ、また。
大きな背中が机にくっつきそうなくらい前屈みになって、書きづらそうにノートを取っている。それでもなんとか自分なりに書きやすくしようとしてるのか、斜めにしたノートの右端が机からはみ出ていた。
自分のノートからシャーペンを上げて手を伸ばす。白いワイシャツ越しにツンと押し込めば、弾力などなく硬い背中から跳ね返ってきた。
あ、やっぱりちゃんとスポーツをやってる男の子なんだな。ぷにっとしそうな私の背中とは全然違って無駄な脂肪がない。
私のシャーペンに反応した葦木場くんがチラリと振り返る。私を見ながら元々下がり気味の太めの眉をさらに下げて、苦笑いを浮かべそれに私もつられて笑ってしまうのが日課になりつつあった。


何日も、何度もそういうやりとりがあって面倒臭いと思いきや、私が突っつく度にこちらを見てくれることがなんとなく楽しいと思うなんて、誰がいつ予想しただろうか。
私はただ葦木場くんの体勢が辛いだろうな、そんなに気をつかわないでいいのにって思っていたはずなのに、前屈みに丸める背中が今は愛しく感じていた。だってそうしたらシャーペン越しだけど葦木場くんに触れられる、こっちを見て少し申し訳なさそうにだけど笑ってくれる。
そんな私たちだけの無言のコミュニケーションがこんなにも心の中を占めているなんて。





「今日って何日だっけ?」

「えっとねぇ……17日、かな?」

私の質問にキョロキョロしながら自信なさそうに答えたのは葦木場くん。1つの机を2人で向かい合って挟んでいる。私たちの間にあるのは表紙と裏表紙が真っ黒でやたら固い1冊の日誌。その束の3分の1ほどにあたるページで見開かれていた。
私が机に脚を入れて通常に座っているので、葦木場くんは少し椅子を引いて長い脚をなんとかしまっている。机の下で脚を動かしたらコツンと上履きのつま先同士が当たってしまい、ごめんって言うと大丈夫と笑った。
私たちは今日、偶然にも日直で一緒になった。うちのクラスは男子と女子にわかれ、出席番号順に男女の組み合わせで日直が決まるのだが、男子の方が少し人数が多いために毎回日直を担当する組み合わせが違う。つまり長い目で見ると女子の方が日直にまわってくる回数が多いということだ。
葦木場くんの言った日にちを1番上に書き、その横に葦木場くんと私の名前を並べて書く。

「オレ、名前ちゃんのおかげで癖直ってきたかなぁ?」

「えー?あんまり変わんないよ?回数は減ってないもん」

葦木場くんとは目を合わさずに、頭の中は今日の2限目はなんだったっけなぁなんて考えながら日誌に数学と書き込む。「やっぱり癖ってなかなか直らないもんだよね」なんて付け加えながら。
えーっと3限目は……とシャーペンを顎に当てながら相変わらず日誌に目を落とす。すると真っ白だったそこが灰色の影で覆われた。それと同時に鼻腔を掠める匂い。甘い甘い………どこかで嗅いだような匂い。
綿あめみたいな。
そうだ、いつかの授業中、風に乗ってこの匂いを嗅いだ。けど今窓は開いてないはず。だってさっき戸締りをしたばかりだ。
日誌に落としていた目線を少しずつ上げる。1日着ていた白いシャツには、何か拭き取ったような薄いオレンジ色があった。きっとお昼ご飯の何かをこぼしちゃった跡なんだろうな。シャツを摘んで「ユキちゃんユキちゃんどうしよ!?」って慌てる葦木場くんに、黒田くんあたりが「落ち着けよ、ったくしょうがねーな」って世話を焼いている絵が浮かんで微笑ましくなる。
第一ボタンが開いた胸元からは鎖骨が見えて、顎、唇、鼻……と段々見上げるように顔のパーツに視線を沿わせる。
気付けば首を後ろに反らすまでになっていて、思ったよりも近くに葦木場くんの綺麗な顔があった。宝石みたいな曇りのない紫色の瞳に小さく私が映っている。その瞳とぱちっと瞬きするタイミングが同じで、睫毛が絡まり合うんじゃないかと思った。実際はそんなに近いはずもないんだけど。
ただ少しだけ強くなった甘い匂いから逃れようと、視線を葦木場くんの胸元のシャツへ落とした。
そっか……葦木場くんの匂い、だったんだ。香水…かな?

「あ、葦木場くんって香水つけてる?」

「…香水?つけないよ」

あ、違った。でも確かにすぐ目の前からするこの薫り。葦木場くんそのものの匂いなんだろうか。
それならピッタリだ。普段の彼ならば。
そう思うのに途端に低くなる声にドキッとした。甘ったるいと思っていた声が鋭く刺さってくるような。あ、あれだ。どこかの有名なアイス。口に入れたら甘いのにそれが溶けるとパチパチチリチリ舌から口内を暴れるような感じだ。けれどもそれがクセになる不思議。だから再度見上げてしまった。すぐそこに葦木場くんがいると知りながら。

「ま……また姿勢…っ、曲がってるから……」

私の想像以上に覆い被さるくらい身体を屈めて、あまりにも普段と違う男の子みたいな顔して見下ろしてる。持っていたシャーペンの柄でいつもは葦木場くんの背中だったけど今は目の前の胸元をツンと押した。力をあまり入れてないのもあるけど、その胸元は引くわけでもなくむしろ私の手が小刻みに震えていて、シャーペンがカシャンと音を立てながら机に落ちたかと思うと丸く細長いそれは床にまで転がった。拾わなきゃいけないのに身体が動かない。葦木場くんに手を掴まれてるわけでもない。変わらずに私に注がれる視線が、本物の線のようになって縛り上げられているような感覚。
行き場を失った手は、中途半端に書かれた日誌の上で拳を作った。

「…あ、……葦木場、くん…?…あの……」

「名前ちゃん、オレ…直ってる。癖」

「直って………る?」

え、………うそだ。
だって今日も何回か繰り返しあの申し訳なさそうに振り返る笑顔を見た。
あれが全部うそだっていうの?
そもそもなんのためのうそ?

「わかる?この意味」

その訊き方はずるい。
わかる、なんて軽々しく言えない。
でももしかしてって期待しちゃってる自分がいる。
あれ?なんで私は期待してるの?
そのもしかしてがそうであってほしいって思ってる。
いつか葦木場くんの癖が直ったら2人の無言のコミュニケーションは終わってしまうのが寂しい。
また私の方を向いてほしい。
私………だけを。
…ああ………なんだ、私、葦木場くんが好きなんだ。
好きに………なっちゃってたんだ。

自分の気持ちを自覚したと同時にやって来る焦りみたいなもの。
だってその張本人が目の前にいて、なんだか知らないけど見下ろされて見上げて視線は絡まったまま。
それに耐えきれなくなったのはやっぱり私で、開いたままの日誌を素早く閉じて、自分の顔を隠すように当てた。

「…見えない。どけて」

「やっ…ちょっとまっ…」

「待たないから」

そう言った通り葦木場くんの左手は私の右手を掴み、右手では日誌をひょいと取り上げられた。
何も隠せるものがなくなったという事実がさらに顔に熱を集中させる。
葦木場くんってこんなに強引だった?
もっとおっとりしてて天然で…可愛い感じじゃなかった?
いきなり人が変わったような声と態度に戸惑う。

「ねぇ…名前ちゃん。オレ、もう待てそうにない」

そう言って距離を詰める男の顔に抵抗できるわけもなく、自然と降りてきた瞼と閉め切られた教室でそれを受け入れた。



End



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