信じているのよ、私。神様って、本当にいるわ。
そう言ったのは一体、だれだったのだっけ。
綾部喜八郎はくりくりした目玉をぱちくりと瞬かせて、ともすれば浮き上がろうとする意識の中で記憶を探った。視界に広がる空は突き抜けるように青い。
初めての色の授業で相手にした町娘だったか、一昨年嫁にいった2番目の姉だったか。様々なひとの面影が、喜八郎の脳裏を掠めては霧散する。どうやらどれも違うらしい。覚えてはいない。喜八郎が思い出せるのは、今と同じように蒼く青い空の色、それだけだ。ただそれさえも、今は丸く切り取られている。何故今このときを選んでこの記憶が去来したのか。喜八郎にはまるで分らない。
ふと視界の端で揺らめいた白を追って、喜八郎の指は宙を掻いた。ふっと息だけで笑う音がして、温かく薄い掌が喜八郎の頭をするりと撫でる。一体どうして、こうも柔らかな仕草をするものだろうか。喜八郎には分からない。彼が今まで接してきた、諒解してきたひとというものとは、あまりにかけ離れていたのだ。このひとはもしかして、自分とはまったく違う世界に生きている何かではないだろうか。
「先輩、先輩は本当に人なのでしょうか」
狭苦しい穴の最奥で、喜八郎はもぞりと体を動かす。同輩たちと比べても随分大きな喜八郎の双眸が、なまえの切れ長の目を見据えた。常は太陽の眩しさに細められているその赤い目は、薄暗い穴の中でいつもより幾分か見開かれている。
異な事を言うね、といつものように穏やかに返したなまえは、口角を至極綺麗に上げた。お手本みたいな笑顔だと、喜八郎はいつもそう思う。型に嵌めたようにきちんとしたなまえの笑顔が、喜八郎はこの上もなく好きだった。この憧憬はきっと、愛だとか恋だとか、そういった甘ったるい感情に近いものだ。
「わたしはひとだよ、喜八郎。ありふれた、どこにでもいるひとだ。それはもう、どうしようもないほどにね」
喜八郎を見つめる両目の、その凪いだ赤が。その鮮烈さが、喜八郎を捕らえる。きっとなまえは気付いていないのだ。自らの眼差しがどれだけのものを捕らえ得るのかを。
この瞬間は幸せなのだと、喜八郎はそう思う。狭苦しい穴の中で向かい合うように座り込んで、喜八郎となまえはじぃっと空を見上げていたのだった。とはいえ、喜八郎はちらちらとなまえの様子を窺っていたのだけれど。
「先輩がひとだなんて、そんなのは嘘です」
うそだ、うそでしか有り得ない。だってこんなに高尚で、穢れなくて、優しいのだもの。そんな先輩が、ひとのような俗な存在であって良い筈がないのだ。
これはもはや崇拝だ。子が母を慕うような、本能の段階での崇拝。
だとしても構わないと、喜八郎は思う。ひとが清廉な存在に憧れることに、一体何の問題があろうか。
「うそ。先輩はもっと、綺麗で崇められるべきものなのです。だってこんなに、こんなにお優しいもの」
喜八郎の言葉には答えずに、なまえはただ笑った。なんだか困ったような、そんな笑顔で。苦笑すら手本のように理想的な造形で笑うものだから、いよいよ救いがない。その慈愛を思わせる表情は、よりいっそう喜八郎の憧憬を高めるだけだった。
「泣かないでおくれ、喜八郎。わたしは涙を止める術など知らないんだ」
そっと、なまえの親指が喜八郎の頬に触れる。するりと指が滑る感触に、喜八郎は吃驚してつい身を引いた。頬に触れていた指の温かさが消えて、筋を描くような冷たさが感じられた。いつの間にか、涙が零れていたものらしい。悲しくもないのに、何故だろうか。
「先輩はひとではないのです。もっと素敵な、そう、かみさまみたいな」
神様って、本当にいるわ。
鈴を転がすような声が頭の中に反響した。いる。神様は、いるのだ。きっと喜八郎の目の前に。
「かみさまなのです、それ以外にありません」
自分が信じたいだけだと、そう自覚できるくらいには出来の良い頭を持っていた。信じきれるほど愚かではないことが、今の喜八郎にはただ恨めしい。
「お前は小平太に甘すぎる。そうやって聖人君子のように振る舞って何になるというのだ」
ある日の昼下がり、立花仙蔵がそう言いながら食堂から出てきた。仙蔵の後ろからはなまえ先輩が出てきて、喜八郎の胸は俄かに沸き立つ。
でも。
「……違いますよ、立花先輩。なまえ先輩は聖人君子なんかじゃなくて、神様なんです」
喜八郎がそう言うと、仙蔵は苦々しい顔でなまえを見た。うちの後輩に何をしたのだと、その目が雄弁に語っている。なまえはただ苦笑して、喜八郎を見た。
「わたしはひとだと言っただろう、喜八郎」
その目の赤は柔らかな慈愛をたたえて、喜八郎をとらえていた。
嗚呼、この先輩が好きなのだ。喜八郎はただ、そう思う。