※死ネタ



 下限の月の下、なまえの肩に乗るみみずくがほぅと鳴いた。柔く撫でるようなそれは、鼓膜が揺れた事にすら気づかせずに夜に溶けゆく。きょとりと首を傾げるみみずくは、確かなまえが雛の頃死にかけていたのを拾ってきたものと記憶している。
 低い松の木の上で、なまえが爪を噛むかりかりという音だけが響いていた。爪を噛む悪癖を、どうしたってなまえはやめないのだ。
 ばっちいですよ。零れるように呟かれた言葉の、なんと無力なこと。なまえの人生に染み付いた習慣の、たったひとつすらやめさせることができないだなんて。

「影麿ちゃんったらいつまで経っても神経質。だからいい歳になっても結婚できやしないんだよ」

 くつくつと笑うなまえの、その雪のような頬を見る。はてさて、私と同じなのは白いという形容詞だけであって、なまえはまるでどこぞの姫のような見てくれなのだ。見てくれだけ、ではあるのだけれど。

「あなたに結婚のことをどうのとは言われたくありませんが、…まぁ気の合わない女性と一生を添い遂げるくらいなら私は独り身で構いませんよ」
「いやん、影麿ちゃんったら悲観的なんだから」

 斜堂ですよ。何度訂正したとも知れない呼称を、頭の中だけで再度訂正した。はじめて出会った時から直ることのないそれは、かの悪癖と併せて私の敵であると言えた。
 まったくもって、なまえと私は正反対であるのだ。十数年来の付き合いが、何故途中で途切れなかったものなのか。恐らくは、その答えが出ることは無いのだろう。その答えを探すにはあまりに、私はなまえとの関係性に浸かりすぎた。ぬるま湯のようなそれは、退屈なくせに居心地が良すぎるのだ。

「ねぇ影麿ちゃん。あのさぁ」

 なまえの声が平生より真剣であったことに、私は些か驚愕した。少し見開いた目でなまえを見るが、なまえは凝と月を見上げたまま此方を気にする様子も見せない。みみずくだけが、ほぅと静かに鳴いた。

「わたしが今度の仕事から帰ったら、わたしと結婚しようよ」
「……」

 かり。なまえが爪を噛む音に、私は目を細めた。どうにも剣呑な表情になってしまったことは否めない。

「影麿ちゃん」

 なまえが静かに私の名を呼ぶ。私はそれに答えることなく、そっと目を伏せた。









 ほほぅ。みみずくが静かに鳴く。
 私はその羽を撫でて、またくしゃくしゃの紙に視線を落とした。存外綺麗な文字で綴られたひとつの文句は、先日会いに来たきり忍務に赴いてしまったなまえからのものだ。
 月の明るい夜にみみずくが運んできたそれに、眉根が微かに寄るのを感じた。

――大好きでした。さようなら。

 驚くほど飾り気のない言葉は、きっとなまえの本心であるのだろうけれど。

「……信じるわけにはいかないのですよ」

 みみずくに指を甘噛みされながら、誰にともなく呟いた。みみずくの唾液にまみれる指先を、不思議と汚いとは思わない。
 捨て駒のような役割の忍務だったのだという。生きて帰る方が不思議なほどの。

――影麿ちゃん。

 愉快げに笑うなまえの顔が頭を占めた。果たして、最後まであの笑顔を浮かべていたものかどうか。
 贋物じみて丁寧な文を見遣る。
 斜堂影麿様。締め括る宛名は、いくら言っても直らなかった呼び方を、あまりに正しくなぞって。

「信じるわけには、いかないのです」

 もう一度繰り返して、なまえの短くなった爪を思った。ぶさぶさに荒れて歪なそれを、自分は存外気に入っていたのだ。
 びりり、と。荒々しく手紙を破る。ばらばらになったそれは足下に無惨に散った。私はそれを憎々しげに見遣って、そこから立ち去る。
 ばさばさと羽ばたいたみみずくが、過たず私の肩にその爪を引っ掻けた。ほぅ。その鳴き声は夜闇に溶けゆく。

――結婚しようよ。

 なまえの揶揄うような声が脳裏に蘇り、私は思わず顔をしかめる。
 ばっちいのはいけません。無意識の呟きに呼応するように、みみずくがまた鳴いた。
 私となまえの別れを告げるあの手紙が、綺麗なものであるはずがないのだ。



  2011.08.02.
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