男女倉庫


▼ きみが笑えているのなら/士桜+遠坂姉妹

「士郎ってわたしの義弟にあたるってことよね?」

 ある日の昼下がり、遠坂は思いついたように呟いた。

「突然何言い出すんだよ…」
「だって今気づいちゃったんだもの。桜の夫ってことはつまりわたしの義弟じゃない」

 遠坂から発されるおとうと≠フ響きが俺を示していることに居心地の悪さを覚える。そわそわしながら「まあ、そうだが」と歯切れ悪く返す。気分を落ち着かせるために茶を流し込んだその時、あかいあくまはにたあっと笑った。

「じゃあ、わたしのこと姉さん≠チて呼んでよ。おとうとくん?」
「ぶ…っ」

 げほっげほっとむせ返る俺に「あらあら、大丈夫かしら?」と遠坂は優しい声を作って俺を労わる。眉根を寄せて心配そうに見つめているが、目の奥は爛々と楽しげに輝いていた。

「おさまったようね。じゃあ、呼んでみましょうか」
「呼べるか! 何が悲しくて同級生を姉呼ばわりしなきゃいけないんだよ!」

 しかも遠坂を! はギリギリのところで呑み込んだ。最愛の女性は桜だ。それに今は遠坂の本性を知っている。が、それでも憧れの異性≠ニしてかつてほのかに思慕を寄せていたのだ。その遠坂を姉呼ばわりするにはあまりにも複雑な心境で、気が進まない。

「いいじゃないの。減るものでもないんだし、ほら、し・ろ・う?」
「う…っ」

 絶妙の角度まで頬を持ち上げた笑顔は一部の隙もなく、完璧だった。だが節々から苛立ちが滲んでいて濃厚な圧を感じる。ここはもう、俺が折れるしかない。観念した俺は腹を括って、すうと息を吸い込んだ。

「ねえさ―――」
「駄目!」

 トイレの為席を外した桜がいつのまにか居間に戻っていた。切羽詰まった調子で俺と遠坂を見つめている。ぎゅっと眉間に皺を寄せながら下唇を噛んでいた。
 今より幼い桜が脳裏に浮かぶ。遠坂に連れていかれる俺を見ただけで不安で仕方ない、と泣いていた。泣いていた、のに。血の気が引いていく。もう不安にさせたくなかったのに、馬鹿か俺は…!

「桜、これは!」
「あのね桜!」
「わたし以外、姉さんって呼んじゃ駄目ですっ!」

 三人分の必死の声が重なって、空気が震えた。え―――。ぽかん、と口を開いて固まる俺と同じように遠坂も口を開けて固まっていた。

「確かに先輩にとっての姉さんにもなる訳ですけど…! でも、でも、駄目ですっ!」

 顔を真っ赤にしてキッと俺を挑むように見据える桜。そこに不安の色は一匙たりともなかった。
 ほどなくして遠坂が震え始める。緩み切った頬の筋肉をどうにか上げようと頬っぺたを摘まみながら必死に冷静な声を作り上げようとしていた。

「ま、まあそうね。言っても士郎は桜の夫な訳だし? わたしにとってはただの他人だし? うん、姉さんなんて呼ぶの変よね。そうよね、うん、その通りだわ」

 したり顔を作りながらうんうんと頷いている遠坂の言葉に、桜はぱあっと顔を明るくした。ほくほくと嬉しそうに笑っている。

 姉さんと呼ばずに済んだ。桜はすごく嬉しそうだ。俺にとって良いことづくめだ。だが、なんだろう。なんだこの面白くない気持ちは。

「…先輩?」

 首をかしげながら不思議そうに俺を見つめる桜を、じとっとした目つきで睨んでやった。
「いつまで俺は先輩≠ネんだろうな」

 一拍の間を置いてから、桜がボンッと顔を赤くする。「だ、だって!」と言い募った。だっても明後日も明々後日もあるか。

「ずっと先輩って呼んでるからもう馴染んじゃってて…!」
「わたしはすぐに姉さんって呼べたじゃない。まあ桜とわたしは姉妹だものね。しょうがないわよ、他人の衛宮士郎くん」
「姉さん! 火に油を注がないでください!」

 半泣きになりながら遠坂に食って掛かる桜を、遠坂はけらけら笑いながらいなしている。澄んだ青い瞳には、溢れんばかりの慈愛が灯っていた。妹をからかう姉。二人はどこにでもいる、普通の姉妹だった。
 遠坂ばかり良い思いをしている今の状況は面白くはない、―――けれど。


「いいよ。ゆっくりでさ」
 桜の頭に手を伸ばして、リボンには触れないようにゆっくりと撫でる。桜はほっと胸をなでおろしてから、ほどけるように笑みをひろげた。

「もうちょっとだけ、待っててくださいね」

 俺の義姉が優しい眼差しで桜を見つめていた。きっと、俺と同じことを思っている。


prev / next

[ back to top ]



- ナノ -