男女倉庫


▼ 変/狛恋

 恋雪さんは変だ。

 とんとん、とんとん。なにかを叩く音が一定の調子で響き渡っていた。

 不思議に思い音の先に足を向ける。音は開かれた障子の向こう側からだった。部屋の前に立つ。恋雪さんが一心不乱に敷布団を濡れた布巾でなにかを消そうと叩いていた。俯いているから表情は窺いづらいが焦燥感が滲み出ている。後始末など俺にやらせればいいのに。どうもこの人は頼ることを嫌う。沸き上がる呆れと苛立ちをできるだけ押し殺しながら「どうされましたか」と声をかけると、華奢な肩が跳ね上がった。

「は、狛治さん……!」

 俺を見上げる顔は燃えるように赤い。ああほら、無理するからだ。濡れた手拭いを後で持ってこなくてはと頭の中で看病の算段を整えながら彼女が落とそうと躍起になっていた汚れを拝見すべく膝をついて視線を落としたその瞬間、呼吸が止まった。

 恋雪さんの敷布団の一部分に、鮮やかな赤色が楕円状に広がっていた。

「医者を呼んできます」

 すくっと立ち上がると恋雪さんが慌てて俺の道着を掴んだ。

「ち、違うんです! 私どこも悪くありません……!」

 目を潤ませながら必死に言い募る恋雪さんに更に苛立ちが募った。どうしてみんな妙な気を回すのだろうか。体が弱いのは本人のせいじゃない。自分のせいじゃないことを申し訳ない申し訳ないと自責の念に駆られひとりで苦しみを抱え込む。頼られない歯痒さに全身の骨がピクピクと痙攣するように震えていた。

「言いたいことはありますが、それは医者に診てもらってからにします」苛立ちを抑えつけながらも、出る声は尖る。
「本当に違うんです!」
「冗談もいい加減にしてください。あんなに出血しておいて」
「ち、血は出てるんですけど…。これは、その、大丈夫な出血でして…」
「大丈夫な出血? なんですかそれは」

 そんなものあるわけないだろう。頑なに大丈夫だと言い張る恋雪さんに苛立ちを覚え、詰問口調で問いただすと、恋雪さんはビクッと震えた後硬直し、顔を赤くして目を左右に泳がせながら、あえぐように桃色の唇を震わせた。

「月のもの、です。赤ちゃんを産むための準備といいますか…。けして病気ではなく、むしろその、健康な証となります…」

 蚊の鳴くような声が尻すぼみに消えていくにつれて、場に静寂が降り立った。耳まで真っ赤な恋雪さんを見下ろしながら、彼女の言葉を胸のなかで反芻する。
 月のもの。月に一度血を流す、女特有の生理現象。そういうものがあることはうっすらと耳にしていた。だが母親をはやくに亡くし女の知り合いを恋雪さん以外持っていなかった俺はながらくその存在を知識の蚊帳の外に置いていて、
 ……己の浅慮さに目眩を覚えた。

「………すみません」
「い、いえ! 謝らないでください! 私もなかなかちゃんと言わなかったので……!」
「察せなかった俺が悪いです。あの、敷布団、俺がやります」
「え…! だめ! 恥ずかしい!」
 恋雪さんは涙ぐみながら左右に大きく首を振って拒否した。あまり体を動かすことはしてほしくないがここまで拒まれていることを強行したくはないし、俺も逆の立場だったら断固拒否するだろう。「わかりました」と首肯しながらも「でも」と続ける。

「しんどくなったらすぐに呼んでください」

 じっと目を見据えながら頼む。彼女がしんどいと、俺の体調にも支障を来す具合になっているのだ。切々と祈るように告げると、恋雪さんはぱちぱちと瞬きを繰り返してから、ふわりと笑った。

 恋雪さんは変だ。

 師匠の娘さんに向かって失礼な感情だが、この人は変だと思う。体が弱いのに俺の仕事を手伝おうとするし、何かにつけてめそめそと泣く。いつもいつも、俺の調子を狂わせる。 

「狛治さん」

 鈴のように可憐な声に、心臓が揺らいだのを感じた。ほらやっぱり、また調子を狂わせる。

「心配かけてごめんなさい。それから、ありがとう」

 うん。変だ。また再確認する。
 だって何故礼を述べるのだろう。俺は自分の浅慮さから勝手な思い込みを展開し、無駄に事を大きくしようとした。責めるような言葉も吐いたのに何故喜んだように笑いながら礼を告げるのだろう。

 心臓がもぞもぞと掻痒感に駆られどうにも居心地が悪い。まだ仕事も残っているしと理由を付けて俺は「では」と立ち上がる。
 部屋を出る直前に、恋雪さんの声が背中に届いた。狛治さん、そう紡ぐ声は春風のように柔らかい。

「行ってらっしゃい」

 春の陽だまりのような笑顔を前に俺は一瞬立ちすくむ。ただ笑いかけられただけなのに、何でなのだろう。彼女は変だ。少しおかしい。だけど多分きっと一番おかしいのは。
 




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