暮らしがあるだけ




 青宗君は帰ってこなかった。

 ………………あの野郎………………。

 電車の窓に映る私の目は据わっていた。胸に巣食うモヤモヤのせいで寝付きも悪く、四時間くらいしか眠れていない。青宗君にくっついて寝たらよく寝れるのにな…………。
 自他ともに青宗君に激甘の私はもう青宗君が恋しくなっていた。言い過ぎたかなと後悔がすり寄っている。昨日なんか疲れてるっぽかったし……いやでもそれなら私も疲れてるんだけど!? ……でも帰ってきて早々文句を捲し立てられたらいい気分はしないよね……いやでも青宗君何回言ってもわかってくれないからじゃん!!

 正反対の考えが交互に出てくる。情緒不安定過ぎる……。はぁーーーと息をついたら、会社の最寄り駅に着いた。人の波に乗って電車から降りる。どれだけ気分が晴れなくても働くしかない。じゃないと食べていけない。
 
 帰ったら、青宗君と話そう。
 正直青宗君の気質に関係することだから話し合って解決できることでもない気がするけど、というか青宗君はそういうの怠がるけど、とりあえず話すことは話そう。私もガミガミ言い過ぎたし……いやでも青宗君もさぁーー……。
 決意とか後悔とか釈然としない思いとか色んなものを胸に出勤した数時間後。

「後藤ちゃーん、出ておいでー」

 トイレにこもった新卒ガール後藤ちゃんを猫撫で声で呼びかけていた。

「無理ですぅ、もう私無理ですぅ!」
「だいじょーぶ! 私も怒られたことあるから! でも今普通に喋ってくれるし!」
「中野さんだからですよぉーーー! 私は無理ですぅーーーー!!!」

 後藤ちゃんはピギャアアアと泣き始めた。声が高いのでよく響いた。
 後藤ちゃんはミスをやらかした。
 よくわからないけど何故か部署内で権力を持っている先輩が三日かけて作り上げた顧客データを誤って消去してしまったのだ。
 当然先輩はキレる。キレたくなる気持ちはわからんでもない。ただキレ方が駄目だった。皆の前で怒鳴りつけた。親の顔が見てみたいとかそういう事を言っていた。小動物のようにか弱い後藤ちゃんは誰かから怒鳴りつけられたことがないのだろう。ぽかん……と呆けてから大きな目にみるみるうちに涙を溜めてトイレに向かった。そして籠城して三十分が経った。
 後藤ちゃん。籠城しててもバックアップしていないデータは復元されないし先輩はキレ続けるんだ。ていうか先輩もあんなブチ切れるくらいならバックアップ取っとかんかい。

「後藤ちゃんとりま戻ろ?」
「無理ですぅ怖いですぅ!」
「私も一緒に謝るしデータ入力一緒にするから? ね?」

 私は事務ではないけど後藤ちゃんだけで今日中に復元させるのは無理だ。今日は外に出る予定もうないし、二人で手分けしたら残業二〜三時間くらいしたらいけるだろう。ちなみに先輩は絶対やらないと息巻いている。
 ややあってからドアが開いた。後藤ちゃんの目と鼻は赤い。「ほんとですか……?」と上目遣いで窺うように見上げてくる目は庇護欲をそそられる。青宗君に粉をかけない限り私は小動物のような女の子に弱い。こうなりたかったという願望もあってついついほどこされてしまう。
 大きく笑って頷こうとしたらバァーーン! とドアが開かれた。その先には無表情だけどブチ切れている先輩が仁王立ちしていた。後藤ちゃんが凍りつく。

「あのさぁ、いつまで泣いてんの? 泣いてても何も変わんないんだけど。謝りもしないでいつまでもいつまでも……はぁーーーこれだからゆとりは!」

 気を取り直しかけていた後藤ちゃんの目がまた虚ろになっていった。白目がじわりと赤らんでいく。
 先輩は言うだけ言うとフンッと鼻を鳴らしてまた去っていった。荒々しく閉まるドアをぽかーーんと眺めていると、後藤ちゃんはまた声を上げて泣き始めた。ふりだしにもどった。
 


  


「私もう無理ですぅ〜〜!」

 帰ったら青宗君と話そう。その決意は葬られる。葬るしかなかった。
 二人で手分けしてデータ入力したあと、後藤ちゃんに潤んだ目で見つめられた。愚痴を言いたいと無言の欲求が浮かんでいる大きな目を見ていると抗えず『飲みに行く?』と誘っていた。
 今は夜の十時半。帰ったら十一時過ぎる。しかもまだ帰らしてくれそうにない。「そんなことないってー!」と笑顔を浮かべながら心の中で血の涙を流す。
 
「私ドジだし馬鹿だし働くの向いてないんですぅ〜〜! 中野さん〜〜一緒に街コンか婚活パーティー行きましょうよ〜〜! 年収三千万のイケメン落として寿退社決めてやりましょうよ〜〜〜!」
「ネガティブなんかポジティブなんかわからんな!? でも私彼氏いるからやめとくねー。後藤ちゃん代わりに捕まえてきてよ!」
「彼氏さんキープしながら他も探してみましょうよぉ」
「あはは、やめとくやめとく」
「…………中野さんって彼氏さんとどれくらい付き合われてるんですか?」

 笑顔でやんわりあしらうと、後藤ちゃんはじいっと私を見つめながら尋ねてきた。「えーっと」と指折り数える。

「高二からだから……九年だね」
「きゅーねん!?」

 予想以上の年月だったらしく、後藤ちゃんは目を見張らせた。私も自分で言っててもうそんなになるのか……と少し吃驚した。初対面の時は青宗君のことまじやばいコイツ≠ニしか思っていなかったのになぁ……。

「けっ結婚とかされるんですか!? 待ってください中野さん!! 私中野さんの代わり無理ですぅお願いしますぅ辞めないでぇえぇ!」
「辞めない辞めない、結婚しても私絶対続けるし。……結婚、なぁー……」
「? したくないんです?」

 後藤ちゃん結構ズバズバ切り込んでくるな……。苦笑いしながら、首を振る。

「私はしたいよ。ずっと一緒にいたい」 

 後藤ちゃんに語りかけたはずなのに、独りごちるような声色になった。

 同棲を持ちかけたのは私だ。

 社会人ニ年目の時だった。青宗君の家に泊まった次の日の朝、寝癖だらけの青宗君は、寝ぼけ眼で食パンをもさもさ食べていた。寝癖すごいと笑いながら寝癖を抑えつけるように頭を撫でていると、前々から胸の中にあった願望が固まった。

『私、青宗君と一緒に暮らしたい』

 何てことのないように、さらりと切り出すつもりだったけど、やっぱり緊張が声に滲んだ。

 パン屑を口の周りにつけている青宗君は目をぱちくりと瞬かせていた。吃驚していた。

『……嫌?』
『んな訳ねぇだろ』

 不安になって尋ねたら食い気味に返された。青宗君は嫌なことにNOと言える。気遣いから言えないなんて殊勝な精神も持ち合わせていない。嘘で適当に合わせるなんて器用な芸当もできない。だから本当に嫌≠ナはないんだろう。
 
 ……でも、ただ嫌≠カゃないだけ、なのかもなぁ。

「私も中野さんとずっと一緒にいたいれすぅ! 辞めないでくださぁい! 中野さんの代わりとかいないんですからぁ!」
「だから辞めないってば! 後藤ちゃんも辞めないでよねー!」

 赤ら顔ですがりついてくる後藤ちゃんをよしよし撫でながら、心からの本心を言う。後藤ちゃんのことは好きだ。可愛いし素直だしミスを指摘されても不貞腐れない。それに毎日出勤してくれる。先輩が無駄にいびり倒すせいで新卒女子が既に二人辞めた、これ以上退職者を増やす訳にはいかない……私の仕事が増える…………。にこにこ笑いながら「これからも頑張ろ! 話ならいつでも聞くから!」と良い先輩というペルソナを被って励ました。

 


 

 ぐでんぐでんの千鳥足となった後藤ちゃんを肩にかついで家まで送る。小柄で華奢な子とは言え全体重をかけられると重みを感じた。酔っ払った後藤ちゃんに鍵を貸してもらい、上がらしてもらい、ベッドに雪崩込むような形で腰を下ろした。

「ふぅーー……」

 ベッドに倒れ込んだ後藤ちゃんは火照った顔でむにゃむにゃ呟いている。こんなに無防備なのは私が女だからだろう。歓迎会の時、私のひとつ年次上の男の先輩から本気と冗談相半ば混じりに『送っていこうか?』と聞かれたら『大丈夫ですー!』と爽やかに答えていた。

「中野さぁん……すみませぇん、終電ないですよねぇ……泊まってってくださぁい……」
「じゃあお言葉に甘えてー。あ、後藤ちゃん。ちょっと一緒に写真取ってくんない? 彼氏に今日後藤ちゃんちに泊まるって証拠付きで送りたいからさー」
「おっけーれす〜〜中野さんの彼氏さんって束縛激しいんですね〜」
「束縛っていうか勘違いしてるんだよねー」

 青宗君は私のことをめちゃめちゃモテる女だと勘違いしている。周りの男がいつ私を好きになってもおかしくないと思っている。ガチでマジでそんなことはない。私が好意に鈍感な女だから気付いていないという訳ではなく、本当にそんなことない。言い寄られることが全くない訳じゃないけど、彼氏の存在を仄めかしたらあっさり引いていく。軽いノリで話せるそれなりの顔の女だからとりあえず声をかけてみた。その程度だ。それだけのことなのに、青宗君は私を買い被る。ドラケン君から酔っ払った青宗君はずっと私を褒めていると聞いた時は居たたまれなさでウワーッと顔を覆いそして、嬉しかった。
 
 ……昨日ヒスったことで幻滅されてそうだけど。

 心に差した暗い影から目を逸らし、「後藤ちゃん寄って寄ってー」と後藤ちゃんに肩を寄せる。後藤ちゃんはスマホの中におさまると女子の習性で決め顔になった。私も顔を作ってシャッターボタンを押す。出来栄えを確認する。…………………………。後藤ちゃんにもう一回頼んだ。

「ありがと!」

 二回目は私的及第点だった。LINEを開いて青宗君とのトーク画面をタップする。
 青宗君には今日残業確定した時にすぐメッセを送っていた。ケンカ中だけどなんの連絡も無しで帰ってこなかったら青宗君は心配してくるだろう。青宗君もまだ働いている時間だから当然返事はなかった。それから後藤ちゃんと呑みに行くことが決まった時もまだ未読だった。青宗君は通知で内容だけ確認して未読スルーはしない。誠実だから……というわけではなく、そんな小細工(と呼ぶほどでもないけど)できるほど器用な性質じゃない。呑みに行くから遅くなるとメッセを送ってからは後藤ちゃんの泣き言をひたすら聞いた。

 トーク画面を確認して、え、と目を瞬かせる。

『終わったら言え。迎えに行く』
『今どこ』
 
 青宗君から二件のメッセージと一件の不在着信が入っていた。き、気付かなかった……。あの連絡不精の青宗君が自ら連絡してくるなんて……。てか喧嘩しているのに迎えにきてくれるんだ…………うっ、好き…………。朝は『あの野郎』と毒づいていたというのに、今は『好き……』。我ながらチョロすぎる。
 迎えに来てくれるならきてほしいけど、今は深夜だ。この時間から来てもらうのは悪すぎる。それにもう寝てるかもしれない。だから私は当初の予定通りメッセを送ることにしようとした――ら、

「うぷ……っ」
 
 背後から呻き声が聞こえた。
 振り返り、呻き声の主を確認する。
 後藤ちゃんが口に手を当てていた。

「後藤ちゃんストォーーぎゃーーーーーーー!!!」




 





 乾は疲れていた。客から訳のわからんクレームをつけられ、怒りを抑えるのに必死で疲れ果てていた。
 けど陽子に『おかえり!』と出迎えてもらったらこんな苛立ちや疲労なんてあっという間になくなる。陽子の笑顔はいつだって乾に活力と癒やしを与えてくれるのだから。 
 だが帰ったら、陽子は引き攣った笑顔だった。次第にその笑顔も消え失せ、乾の細々としたやらかしに対し怒涛の勢いで糾弾してきた。

 乾は口を閉じた。今口を開けば余計なことしか言わないと思ったからだ。さっきのプリンの件でも地雷を踏んでしまったようだし。だが陽子は口を閉ざしたことに対しても糾弾してくる。…………うぜえ。相手が陽子じゃなかったら『うぜえ黙れ殺すぞ』と凄むが陽子には口が裂けても『殺す』は言いたくないし言えなかった。
 
 陽子と暮らすことになった時、嬉しかった。日々が更に楽しくなった。部屋が日に日にプーさんやらリラックマやらファンシーなものに溢れていくが陽子のものなら乾の心を和ませた。陽子が好きなら……と思いローソンのリラックマ一番くじを引いたこともあった。
 陽子が帰ってくれる、陽子が待っててくれる場所を手に入れられたことは、沁みるような幸せをもたらした。

 乾は法律をたくさん無視してきた。法律んなもん知るかペッという生き様だった。だが陽子に出会って、日々を重ねていくうちに法律に則って生きたくなった。法律が定めた制度の中、陽子と関係を築きたくなった。
 
『私ずっとずぅーーーーっと我慢してきたんだから!!!』

 けど、陽子はずっと不満を溜めていた。
 
 怒りと寂しさと悲しみを胸に、乾は出ていった。その日は漫喫で刃牙を読んで過ごした。

 乾が陽子とケンカしようがしまいが次の日はいつも通り訪れる。不機嫌を全開に出勤した乾に彼の同僚龍宮寺は「陽子ちゃんと喧嘩か?」と尋ねてきた。何故わかる。龍宮寺の鋭い洞察力に目を丸くした。

「なに驚いてんだ。わかるっつの。イヌピー拗ねさせんの陽子ちゃんくらいなもんじゃん。陽子ちゃんに迷惑かけんなよ」
「あ? なんでオレがわりぃ前提なんだよ。アイツがなんか急にヒスってきたんだよ」
「へえ。で、優しくされなかったから拗ねてんのか」

 言葉に詰まった。そんなことねぇよと思ってるし言いたいのに、出てこなかった。

「てか急にじゃねえだろ。溜め込んでたもんが満を持して吹き出たってだけだろ」

 風俗店で育った龍宮寺は女の実態に詳しい。乾と陽子の喧嘩内容を知らないはずなのに正鵠を得ていた。だが事実とは言えいや事実だからこそ耳障りに感じ、黙って無視した。乾は拗ねるとただ黙る。



  
 
『今日残業確定になっちゃった! 帰るの同じ時間かもー』
『後藤ちゃんと呑みに行くことになった! 先に寝てて!』

 今日は忙しく昼食も夕方に流し込むように食べた。夕方に食べたが昼食だ。
 仕事終わりにスマホを確認すると、陽子からLINEが二件入っていた。二件目は九時半――今から三十分前だ。先に寝ててと言うくらいだ。帰りは遅くなるのだろう。乾は心配になった。陽子は綺麗で可愛い。人当たりが良く話しかけやすいオーラを纏っているからか、道をよく他人に聞かれている。妙な男に声をかけられて犯罪に遭ったらと思うと……。
 昨日の夜の怒りはとうに消えていた。『終わったら言え。迎えに行く』と打つ。陽子の返信は早い。少し待ってみたが既読マークすらつかなかった。今は盛り上がっているのだろう。乾は帰ることにした。陽子が不在の家に帰るのは気が進まなかった。

 シャワーを浴びる。スマホを確認する。昨日陽子が作ったカレーを食べながらスマホを確認する。乾は始終スマホを気にしている男をみみっちい男と軽蔑していた。男なら構えろと思っていた。今だって思っている。けどどうしても構えられない。そんな余裕、今はない。何度かメッセージを送り通話をしてみるが、レスポンスはない。既読にすらならない。もともとない余裕はとうとう地面にめり込んだ。

 時間は日付を跨いだ。それでも陽子からの返答はない。
 乾は女からLINEが返ってきた返ってこなかったと一喜一憂している男を見下していた。チマチマしたモンに囚われやがって。だが今は自分がそのチマチマしたモンに囚われていた。

 レスポンスの早い陽子からの返信がないのは何か事件に巻き込まれているからなのか、それとも乾に愛想を尽かしているからなのか。前者なら警察に駆け込みそして自分も探し相手を血祭りにあげる。後者なら――

 トーク画面が更新された。乾はカッと目を見張らせて凝視する。

 既読マークがついただけだった。

 三分経ってもメッセージはなかった。

 変な野郎が陽子のスマホを奪ったんじゃと思い、通話をかけてみる。反応があった。出てくれた。無事だった。安心が胸の内を満たしていったが次の瞬間すうっと引いていく。

「ごめん今忙しい!!!」

 ブチィッ! ツー、ツー、ツー……。
 引き千切るように切り上げられたことで。

『てか急にじゃねえだろ。溜め込んでたもんが満を持して吹き出たってだけだろ』
『私ずっとずぅーーーーっと我慢してきたんだから!!!』 

 虚しいコール音を聞いているうちに、龍宮寺と陽子の言葉が同時に脳裏に浮かんだ。

 乾はスマホを持ったまま固まった。
 女からの返事に浮き沈みの激しい男たちをバカにする考えはもうなかった。というか思考力がなくなっていた。
 
 乾が固まろうが固まらまいが世界は回る。時間は流れる。夜は明けて日は昇り仕事の時間になる。

 龍宮寺は出勤してきた乾を憮然とした表情で出迎え、一言突き付けた。

「髭を剃れ」

 何が起ころうが夜は明けて日は昇り、そして髭も伸びる。
 だが陽子に愛想を尽かされたのだとなると、それらすべてが幕を隔てた向こう側の出来事のように思えた。



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