ずっとかわいいわたしでいたい








「ただいまー……あ、イヌピー来てる!!!」

 玄関から弟の声が聞こえた時、陽子は顔を引き攣らせた。その直後ドンドンと激しくドアをノックされる。

「ねーちゃん! イヌピーいるんでしょ! 開けて開けてー! オレもイヌピーと遊びたいーー!! 開けろってー!!」
「……今日友達んち行くって言ってたのに……」

 陽子は心底嫌そうに顔を歪めてから「ちょっと待ってねー!」とオレに笑いかけた。そしてドアを少しだけ開けて弟を呼ぶ。『ちょっと待ってねー!』と声の高さに違いがあった。

「おかえり。早くない?」
「うん! ユウスケ今日スイミングあるの忘れてたんだって! だから帰ってきた! はぁ〜遊べなかったから遊びたい欲が今ヤバいんだよー! イヌピー遊ぼ遊ぼあーそーぼーーー!!」
「駄目」

 オレが(今からヤるから)無理と言うよりも早く、陽子が声を低めて突っぱねた。いつも快活に喋る陽子からあまり聞かない音程だ。珍しさから鼓膜に残る。だが弟は特に何も思わない様子で「えーー!」と抗議の声をあげた。

「ねーちゃんばっかイヌピーと遊んでずるいよ! オレもイヌピーと遊びたい!」
「青宗君は私の彼氏なの。あんた邪魔」

 陽子があんた′トびしているのも珍しい。物珍しさから観察する。
 陽子は大抵の奴に良い奴≠ニ言われる。
 滅多にキレないし不機嫌そうななところも見せない。明るくて元気で面倒見が良く大抵の奴とすぐに打ち解ける。
 その陽子が唯一つっけんどんな態度を取るのは、弟だ。

「ほら千円あげるからどっかで二時間くらい潰してきて」
「やだやだー! イヌピーと遊ぶんだー!」
「潰してきて」

 声が一層低まった。弟の声が途切れて、しいんと静まり返る。
 
「お、オレは屈しない……。イヌピー!! ねーちゃん家だと中学ジャージでクッキーモンスターのものま、」

 すごい勢いでドアが開かれ、陽子は部屋を飛び出した。「ふごごごご」と弟のくぐもった呻き声が聞こえる。

「ちょっと!! 青宗君の前で言わないでよ!!!」
「フハハハ! それが嫌ならイヌピーと遊ばせろ!!」
「こ、この、」
「おいクッキーモンスターがどうした」

 弟に馬乗りになりながら口を抑えている陽子にそう尋ねると、陽子はビクッと肩を震わせた。「えー? 気のせいじゃん?」と弟に対するものより高い声で返してくる。

「イヌピー、ねーちゃんのクッキーモンスターまじすごくて、」
「あーーーー! わかった!! わかったってば!! 三人でスマブラすればいいんでしょ!!!」

 陽子はヤケクソ気味に叫ぶ。弟は「ひゃっほう!」と喜んだ。
 オレは気に食わなかった。





「ねーちゃんクッキーモンスターの物真似超うまいんだよ」

 陽子がトイレに行っている隙にクッキーモンスターの物真似ってなんだと弟に聞いたら、陽子に口止めされているにも拘らずあっさり暴露した。

「あのだみ声を完璧再現して『クッキーおいしい〜〜〜!!』って目をラリらせながら言うんだよ。まじ似てるからイヌピーにも見せなよって言ったら『はぁ!? 嫌に決まってんでしょ!』ってさ」
「なんでだ」
「知らないよ。ねーちゃんに聞いてみた……あっやべっ言っちゃ――」

 トイレから戻ってきた陽子に背後から滑らかすぎる声で呼ばれると、弟の肩がびくりと跳ね上がった。ゼンマイ仕掛けのロボットのようなぎこちない動作で振り向く弟を陽子はにっこりと笑いながら迎える。いつもの頬を崩した笑い方とは違い寒々しさを感じた。

「ちょっとこっちおいで」
「い、いやだ!」
「お い で」

 有無を言わせない口調で弟に圧をかけると陽子はオレに「ちょっと待っててねー」と声をかけた。いつもの明るい声だった。オレやダチによく見せる声と顔。
 でも弟にはすぐキレたり不機嫌になる。
 胸の中を灰色の靄が漂った。 

 陽子と弟はリビングに続く和室に入っていく。パクる警察官とパクられる奴のようだった。懐かしい光景だ。
 襖を閉じる音を最後にオレ一人だけリビングに残されると静けさに包まれた。だから耳をそばだてずとも、襖越しに二人の会話が聞こえてきた。

「私言うなって言ったよね? なんで言うの?」
「それはさーつい口が滑ったっていうかさー。てか別にいいじゃん。イヌピーだって見たがってたよー見せてやんなよー」

 そうだ。こくこくと頷く。襖閉められてるから見えてねぇけど。

「だから! やだって言ってんじゃん!」

 なんでだよ。自分の顔がムスッとしかめっ面になったのを感じた。

 弟から聞いたところによると、陽子は家ではずっとすっぴんらしい。オレにはなかなか見せねぇのに。泊まる時もなんかよくわかんねぇことしてから風呂から出てくる。一緒に風呂入った時はガチのすっぴんを見れてテンション上がった。
 あどけない柔らかな目元を恥ずかしそうに伏せている陽子が脳裏にフラッシュバックすると、胸の中でまろみのある暖かな感情が広がった。

『家でのねーちゃん? すっぴんで耳掃除しながら雑誌読んだりテレビ見ながら指毛抜いたりしてるよー』

 ……………………あの野郎……。
 真にリラックスした状態の陽子を知っていると間抜け面でひけらかしていた弟に怒りを燃え上がらせている間も襖の向こう側では姉弟喧嘩が展開されていた。

「なんで人が言うなってこと言うの!? あんたの耳は飾り!? 大体さぁ北海道に旅行行った時もトイレ行っとけ言ったのに聞かないで車乗ってるときにウンコしたいとか言ってきてさぁ!」
「あ〜〜終わった話をいつまでもめんどくせぇ〜〜ごめんくっさい屁ぇくっさい〜〜!!」
「全然反省してないからあんた永遠に人の話聞かないんでしょ!!」
「謝ったじゃん!!」
「ごめんくっさい屁ぇくっさいを謝罪と見做すやつがいるかーーー!!」
「あ〜〜! もううるせぇな〜〜!! デブ!! ブス!! 妖怪口うるさババア!!!」

 あ゛?
 こめかみが強く脈打ち皮膚が盛り上がったのを感じた。陽子の弟だからって調子乗りやがって。立ち上がり襖に手をかけると。

「誰がデブでブスで妖怪口うるさババアじゃーーーーーー!!!」

 怒号が落雷した。
 その瞬間にオレも襖を開けていた。
 視界に入ってきた光景は珍しすぎるものでぱちぱちと瞬きする。
 
「ギブ!! ギブギブギブ!!!」
「ギブ〜〜? それってどこの国の謝罪の言葉〜〜?」

 陽子が弟の背後に回ってヘッドロックをかけていた。弟に技をかけることに一心不乱でオレの存在に気付いていない。青い顔の弟は陽子の胸の中で泡を吹いていた。こめかみの血管がまた強く脈を打つ。
 
「こんのオニババ……あっイヌピー助けて!!」
「えっ!?」

 オレの存在に気付いた弟は助けを求め、陽子は面食らってからさーーっと血の気を引かせていった。今度は陽子の顔色が青くなる。腕の力が緩んだのだろう、その隙をついて弟が陽子の腕から飛び出した。

「イヌピ〜〜! 暴力メスゴリラがいたいけな弟に暴力奮ってくるよ〜〜!」
「せ、青宗君、あの、これは、その……!」
「ふん!! 言い訳したって無駄だ! イヌピー! あれがあの女の真の姿だ!!」
「真の姿」
「待って! 青宗君今のはその!」
「イヌピーねーちゃんは家だとずーーーーっとすっぴんだしニキビ予防にちょんまげしてるし宅配便全部オレにいかせるんだ!!!」

 陽子はオレの前では化粧を取りたがらない。前髪の分け目も常にチェックしてる。水がなくなったらピッチャーでさっと注いでくる。

 弟は切々と訴えてくる。弟には見せる陽子の姿を。オレが知らない陽子の姿を。

「ちょっとマジいい加減にしてって! 青宗君違うのいや違わないけど違うの!!」
「イヌピーまだあるからね! ねーちゃんイヌピーに作るからってカップケーキの試作品という名の毒物をオレに食わせ――、」

 自他ともに認める短気なオレはいつも通り普通にキレて、弟の頭にチョップを落とした。

「いだーーーー!! えっちょっなに!?」
「テメェいつまでもマウント取りやがって。ふざけんじゃねえぞ」
「マウント!? 私が悪く言われてるから怒ってくれたんじゃないの!? どーゆーこと!?」
「どうもこうもねぇ。陽子」

 目を白黒させている陽子の肩を掴んで、言った。

「オレにもクッキーモンスターの物真似見せろ」

 陽子はぽかんと口を開けてから「む、むり!」とぶんぶん首を振った。あ? 不可解かつ不愉快で眉間に皺が寄ったのを感じた。

「なんでだよ」
「なんでも!」
「弟には見せてんだろ。やれよ」
「そ、それはぁ〜〜……わかってよーーー!」
「わかんねぇよ」
「ねーちゃんもうやっちゃいなよ。クッキーモンスターやっちゃいなよ」
「絶対やだ!!!」

 絶対やだ!!!≠ェ鉛のようにオレの頭に重くのしかかる。弟が「オレの前ではあんなに元気よくやってたのにー」と頭の後ろで手を組みながらしれっとマウントを取ってきたのでぎろりと睨む。弟は訳がわからないようで頭上に大量のはてなマークを浮かべていた。間抜け面の弟を指さしながら、苛立ちを露に続ける。

「コイツにするみたいな態度オレにも取れよ」
「え、オレにする態度って……なにイヌピー、夜ひとりで行くの嫌だから一緒にコンビニにアイス買いに着いてきてとか怠いこと言われたいの?」
「テメェ、またマウントを……!」
「マウント? え? 今の愚痴だよ?」

 オレにはそんなこと言わない。夜遅くなりそうな時は声かけろと言っても『だいじょぶだいじょぶ!』と取り合わないし、無理矢理声を掛けさせても『忙しいのにごめんね』と恐縮している。
 
 陽子は良い奴だと言われる。滅多な事でキレないし機嫌を損ねない。時々ポカやらかすが基本的にしっかりしていて面倒見が良い。どっか行く時も陽子が率先して計画を練っている。ドラケンが『イヌピーまじで陽子ちゃん以外と付き合えねえぞ』としみじみと呟くほどのオレの色んな事にも陽子は引かずに『面白いからオッケー!』とただ馬鹿笑いする。
 
 短気なオレだ。いちいちキレられたりああしろこうしろうるせぇワガママ女だったらぶん殴っている。
 でも陽子ならいい。
 陽子になら言われたい。
 陽子だったらいいのに。
 
「………なんでだよ」

 悔しさを籠めて呟く。少しの間静寂が広がった。

「なんかイヌピー落ち込んでる? なんで? てか今日イヌピーからのオレへの当たり強いのなんで? オレとイヌピーの仲なのに」
「はぁ〜〜……そんなの簡単じゃん」

 陽子は呆れたように溜息を吐いてから、くすりと笑う。オレの腕にするりと自分の腕を絡ませながら得意げに言った。

「青宗君は、私の彼氏なの」

 陽子は「ね!」と満面の笑みを咲かせながら覗き込んで来た。心に一拍の空白がもたらされて、心臓が三十匹ぐらいの蚊にたかられる。

「じゃ、私達デートしてくるから!」
「え〜〜! オレまだイヌピーと遊びたい〜〜! オレも行く〜〜〜!!」
「あっそうだぁ、私さっき思い出したんだけどー、ジャンプに理科のテスト27点挟まっててぇー、」
「おねえちゃん! イヌピー! 行ってらっしゃい!!!」








「弟にヤキモチ妬くことないよ、ほんと、マジ。アイツああいう奴だし弟だから私も扱い雑にしちゃうだけ。変な物真似も弟とか友達にするのは女捨ててるところ見せて構わないからやってんの。八戒君が私と喋ってくれるようになったのもそーゆーとこあると思う」

 オレんちで、陽子は滔々と説明する。弟に邪魔された今となっては最初からオレんちで会えばよかったと思うが、それは結果論だ。陽子から『いつも青宗君ち悪いしたまにはうちんち来る?』という誘いを受けたらそりゃ乗るだろ。陽子の匂いや好きなモンが詰まっている陽子の部屋は陽子自身みたいで、いるだけで気持ちが解れていく。ハチミツ狂いのクマや着色料塗れのクマが陳列されているというのに不思議だ。

「青宗君の前でクッキーモンスターやらないのは女捨ててるトコ見せたくないから。だからこれからも一生やらない! 以上! はい、いちゃつこー!!」

 陽子はにぱっと笑ってオレの腕にまた腕を絡めて体をこすりつけてきた。柔らかい良い匂いがするムラムラするチンコがでかくなっていく。陽子にじゃれつかれたら全てどうでもよくなり頭がすっからかんになるが、でも、今はまだ少ししこりが残っていた。

 陽子が見せたくない理由はわかった。でもやっぱり見たかった。
 弟が羨ましかった。

「青宗君」

 一際甘ったるい声が吐息と共に耳の中に注ぎ込まれる。肩が少し震えた。
 その隙を突くように、陽子はオレの膝の上に乗り上がってきた。笑みを湛えた口元が艶めいている。いつもの快活な笑顔は鳴りを潜めていた。この笑い方は弟やユカコや柚葉やドラケンには見せない。

 オレのうなじに腕を回し、目を伏せて顔を傾けてきた。柔らかく、くちびるを重ねられる。隙間から入り込んで来た舌が身体をこすりつけてくる猫のようにオレの舌に寄りそう。絡み取ろうとしたら舌を引っ込められた。
 陽子はキスをやめて少しだけ距離を取ると女≠前面に出して笑った。狡猾じみた笑い方。オレと二人きりになると見せてくる。

「こーゆーのは青宗君にしか見せないよ?」

 口の中に戻した舌をぺろっと出すと、また、誘い込むように引っ込めた。

 ぶちん、と理性がぶち切れた。陽子の術中にまんまとハマっているのにクソムカつきながら、誘われるがまま口の中に舌をねじ込んだ。
 











「陽子さんあの元ヤンクソ野郎に騙されてんじゃないかな……ほら陽子さんって無邪気な人だし……」
「あはは! ハジメは面白いなぁ〜」

(リクエスト│イヌピー嫉妬話)



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